婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第14話 崩れ始めた誤算

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第14話 崩れ始めた誤算

 朝の執務棟に差し込む光は、いつもと変わらない。
 それでも、空気の張りは一段と強まっていた。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、机に並べられた書類を一枚ずつ確認しながら、違和感の正体を探っていた。数字は整っている。報告の形式も正しい。だが、行間に滲む焦りは、隠しきれていない。

「王都の南部、また遅延です」

 側近の一人が、淡々と報告した。

「同じ箇所ですか」

「はい。前回とほぼ同じ」

 アデリーナは、地図に視線を落とした。赤く印を付けた地点が、二つ、三つと増えている。

「……対処は」

「臨時の命令が出たようですが、現場が混乱しています。
 指示が二転三転していると」

 彼女は、静かに頷いた。

 想定していた最悪の流れだ。
 根本を直さず、場当たり的に命令を重ねる。すると現場は、何を信じればいいのか分からなくなる。

 バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、短く言った。

「こちらへの影響は」

「今のところ、直接的な被害はありません。
 ただし、商人が様子見を始めています」

「理由は」

「王都の価格が不安定です。
 どこで売るべきか、判断できずにいます」

 公爵は、わずかに目を細めた。

「こちらは、基準を変えない」

「はい」

 アデリーナは、即答した。

「変えれば、同じ混乱が起きます。
 今は、動かないことが最善です」

 それは、勇気のいる判断だった。
 周囲が揺れているときほど、何かをしたくなる。だが、動くべきでない時もある。

 その日の昼前、王都から新たな使者が到着した。

 今回は、馬車ではない。
 数名の騎士に守られた、簡素な装いの一団だった。

 執務室に通された男は、前回の使者よりも若く、明らかに疲弊している。

「……時間を、少しいただけますでしょうか」

 切り出しから、余裕がなかった。

「用件を」

 バルトロメウスは、簡潔に促す。

「王都では、いくつかの部署が機能不全に陥っています。
 特に、補給と財務の連携が……」

 男は、途中で言葉を詰まらせた。

「誰が、決裁している」

 公爵の問いに、使者は答えに窮した。

「……最終的には、王太子殿下が」

 アデリーナは、視線を伏せた。

 やはり、そこだった。

 一人に集約された判断。
 だが、その一人は、現場を知らない。

「助言が欲しい、ということですか」

 アデリーナが静かに問う。

「……はい。できれば、直接」

 男の視線が、彼女に向けられる。

「あなたが、かつて行っていたやり方で……」

 その言葉に、室内の空気が一瞬、冷えた。

「それは、無理です」

 答えは、公爵からだった。

「なぜ……」

「やり方を渡しても、使えないからだ」

 淡々とした声だった。

「仕組みがない場所で、仕組みだけ真似ても、現場は動かない」

 使者は、何も言い返せなかった。

 アデリーナは、一歩前に出た。

「一つ、確認させてください」

「……何でしょうか」

「王都は、失敗を認めていますか」

 問いは、率直だった。

「人ではなく、仕組みが間違っていたと、公式に認める覚悟はありますか」

 使者は、唇を噛んだ。

「……それは……難しいかと」

 その一言で、すべてが分かった。

 アデリーナは、静かに首を振る。

「でしたら、今は何もお渡しできません」

「ですが……このままでは」

「崩れます」

 言葉を遮るように、彼女は続けた。

「すでに、崩れ始めています。
 それは、私がいないからではありません」

 使者は、力なく肩を落とした。

「……誤算でした」

 小さな声だった。

 誰の誤算なのか。
 それを、あえて問う必要はなかった。

 使者が去った後、執務室には沈黙が残った。

 やがて、公爵が口を開く。

「重い話だったな」

「はい」

 アデリーナは、短く答えた。

 だが、胸の奥は静かだった。
 怒りも、悲しみもない。ただ、事実が積み重なっているだけだ。

 夕刻。

 報告が入る。

 王都南部で、ついに補給が完全に止まった、と。

 彼女は、深く息を吸った。

「……来ましたね」

「想定内だ」

 公爵の声は、揺れない。

「こちらは、予定通りに進める」

 それが、何よりの対比だった。

 夜、部屋に戻ったアデリーナは、灯りをつけたまま、しばらく椅子に座っていた。

 王都が抱え込んでいた誤算。
 それは、一人の能力を軽んじたことではない。

 仕組みを作らず、責任を分けず、見たいものしか見なかったこと。

 その結果が、今、現実として現れている。

「……もう、戻る場所ではありません」

 小さく呟く。

 かつては、自分の居場所だと思っていた場所。
 だが今は、遠く、歪んだものに見える。

 アデリーナは、灯りを落とした。

 誤算は、すでに崩れ始めている。
 そしてその崩れは、もう誰にも止められない。

 王都が、自分自身で向き合わない限り。
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