婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第23話 必要とされないという事実

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第23話 必要とされないという事実

 王太子一行が去った翌朝、現場は何事もなかったかのように動き始めていた。

 特別な会議も、緊急の指示もない。
 昨日と同じ時刻に、同じ手順で、同じ判断が積み重ねられていく。

 アデリーナ・フォン・グラーフは、その様子を少し離れた場所から見ていた。

 視察という大きな出来事があった直後だというのに、
 現場の空気は驚くほど平常だった。

「……変わりませんね」

 側近が、半ば感心したように言う。

「ええ」

 アデリーナは、頷いた。

「変わらないこと自体が、結果です」

 昨日、王太子が何を見て、何を感じたのか。
 それは、彼女には分からない。

 だが、少なくとも一つだけ、確かなことがあった。

 彼が来ても、去っても、
 現場は止まらなかった。

 午前中、王都からの報告が届く。

 文面は短く、簡潔だった。

 視察に関する追加の指示は、特になし。
 現行体制は維持すること。

 それだけが、記されている。

「……何も、言ってきませんね」

 側近の声には、わずかな戸惑いが混じっていた。

「はい」

 アデリーナは、淡々と答える。

「言えないのでしょう」

「何を、ですか」

「自分が必要だ、と」

 室内が、静かになる。

 王太子ローデリヒは、
 これまで常に「必要とされる立場」にいた。

 命令を下し、裁定を行い、
 最終的な判断者として、場に立つ。

 だが、今回の視察で、
 彼は一度も、その役割を果たせなかった。

 誰も、彼に判断を求めなかった。
 誰も、彼の介入を必要としなかった。

 それは、失敗よりも重い事実だった。

 午後、別の報告が届く。

 王宮内で、視察についての非公式な議論が起きているという。

「“なぜ王太子が行ったのか分からない”という声が、出ているそうです」

 文官が、慎重に言葉を選びながら伝える。

 アデリーナは、わずかに目を伏せた。

「そう、ですか」

 その反応は、驚きでも喜びでもない。

 ただ、想定の範囲内だった。

「必要とされない、という事実は……
 人の評価を、急激に変えます」

「同情、でしょうか」

「いいえ」

 アデリーナは、首を横に振った。

「無関心です」

 同情は、まだ感情が向いている状態だ。
 無関心は、存在を前提にしなくなった状態。

 その差は、決定的だった。

 夕刻、バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、短い報告を持って現れた。

「王宮からの圧は、弱まっている」

「想定通りですね」

「代わりに、内部調整が増えた」

 公爵は、淡々と続ける。

「誰が主導するか、ではなく、
 どう関わるべきか、という議論に変わっている」

 アデリーナは、静かに息を吐いた。

「段階が、一つ進みました」

 人は、主役がいなくなると、
 初めて自分の立ち位置を考え始める。

 夜。

 部屋に戻ったアデリーナは、灯りを落とし、窓の外を見た。

 王都の方向には、変わらず灯が揺れている。
 だが、その光の意味は、少し変わった。

 あそこには、
 誰か一人に依存しない仕組みがあり、
 誰か一人を必要としない現実がある。

「……必要とされない、ということ」

 小さく呟く。

 それは、残酷にも思える。
 だが、同時に、自由でもあった。

 誰かに必要とされ続けることは、
 責任と重圧を、永遠に背負うことでもある。

 アデリーナは、かつて、その立場にいた。
 そして、そこから降りた。

 今、王太子は、
 初めてその入口に立たされている。

 必要とされないという事実。
 それを、どう受け止めるか。

 それは、彼自身の問題だ。

 現場は、もう答えを出している。
 歯車は、今日も変わらず回っている。

 誰かを必要としない形で。
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