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2話 勝ち誇る義妹
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2話 勝ち誇る義妹
婚約解消の話が屋敷の中で広まるのに、半日もかからなかった。
アストラーデ公爵家ほどの大きな家であれば、人の口を完全に閉ざすことなどできない。まして今回は、次女が長女の婚約者を奪ったのだ。使用人たちが表向きどれほど口を慎んでも、空気そのものが騒がしくなる。
ルヴェリアは朝食の席で、いつもと変わらぬ顔でスープを口に運んでいた。
銀の匙が器に触れる音だけが、やけに澄んで聞こえる。
向かいには父である公爵、斜め前には義母、その隣にはオルフィナが座っていた。
義母は今朝に限ってひどく機嫌が良さそうだった。口元に浮かぶ笑みは穏やかに見えて、実のところ一滴も温かさがない。
「ルヴェリア、昨日の件だけれど」
義母が紅茶のカップを傾けながら、いかにも物分かりの良い声音で言った。
「あなたももう成人しているのですし、感情的にならず家のためを考えてちょうだいね」
ルヴェリアはナプキンを整え、ゆっくりと顔を上げた。
「家のため、ですか」
「ええ。ヴォルゼック伯爵家との縁は、我が公爵家にとっても決して悪いものではありません。婚約者が誰になるにせよ、結びつきそのものが残るのならよいではありませんか」
よいではありませんか。
実に軽い言い方だった。
婚約者を奪われた娘の前で、よいではありませんかと言える神経の太さに、ルヴェリアはもはや感心すら覚える。
父は黙ったまま、食卓の端に視線を落としていた。
止めることも、庇うこともない。
それがこの家の答えなのだろう。
オルフィナは焼きたてのパンを小さくちぎりながら、わざとらしく困ったように眉を下げた。
「お姉様、そんなふうに黙られると、わたくしまで悪いことをしたみたいですわ」
ルヴェリアは淡々と返す。
「実際に悪いことをしたのではなくて?」
オルフィナはぱちぱちとまばたきをし、それから唇を尖らせた。
「まあ。恋に落ちたことが、そんなに罪だとおっしゃるの?」
「恋、ね」
その一言に、義妹の表情がわずかに硬くなる。
ルヴェリアは視線を落とし、皿の上の果物にナイフを入れた。
「あなたが恋をしたのか、財に目がくらんだのか、私には区別がつかないわ」
「お姉様!」
今度は明らかにオルフィナが声を尖らせた。
義母がすぐにたしなめるように口を挟む。
「やめなさい、ルヴェリア。見苦しい嫉妬は品位を損ねますよ」
「品位」
ルヴェリアは小さく繰り返した。
「それをおっしゃるのですね」
義母の眉がぴくりと動く。
父はなおも黙っていた。
この場で何かを期待するだけ無駄だと、ルヴェリアはもう理解している。だからそれ以上は言わず、食事を終えると席を立った。
「失礼いたします。今日は帳簿の確認がありますので」
「あら、逃げるの?」
オルフィナが背中に向かって言う。
ルヴェリアは振り返らない。
「逃げる価値がある相手なら、そうしたかもしれないわね」
背後で椅子が引かれる気配がした。義妹が立ち上がりかけたのだろう。だが義母に止められたらしく、それ以上の声は聞こえなかった。
廊下に出た瞬間、肺の奥にたまっていた息がゆっくりと抜ける。
相変わらず、朝からよく食べられたものだと自分でも思う。胃の中は重いのに、表情だけはどうにか保てていた。
「お嬢様」
控えていた侍女のエミリアが心配そうに歩み寄ってくる。
ルヴェリアは首を横に振った。
「大丈夫よ。会計室に行くわ」
「……かしこまりました」
エミリアはそれ以上何も言わなかった。
余計な慰めを口にしないのは、彼女の美徳だ。優しいだけの言葉は、傷口に砂糖を塗るようなものだと知っているのだろう。
会計室に入ると、紙と革とインクの匂いが広がっていた。
いつもの匂いだ。
数字は裏切らない。少なくとも人間よりはずっと。
ルヴェリアは書類棚から仕入れ帳を抜き出し、机に並べる。屋敷の食糧、布地、蝋燭、石鹸、燃料。月ごとの価格推移が記された帳簿に、目を通していく。
そのうち、指先がぴたりと止まった。
「……上がっている」
ここ数か月、少しずつだが確実に値段が上がっていた。
一つ二つなら季節の要因で片づく。だがこれは違う。品目が広すぎる。
パン用の小麦粉、食用油、布地の染料、灯油代わりの油脂、果ては釘や革紐にまで、じわじわと値上がりが及んでいた。
「不作の報告はなかったはず……」
独り言のように呟いて、別の帳面を引く。
地方から上がってきた収穫報告。災害記録。街道封鎖の有無。どれを見ても、物価がここまで乱れる理由としては弱かった。
ならば理由は別にある。
ルヴェリアはさらに王都の市場価格をまとめた記録に目を通す。公爵家では屋敷運営のために定期的に市況を記録させていた。こういう時、その積み重ねが効いてくる。
価格の上昇は三か月前あたりから目立ち始めていた。
そして、その時期と奇妙に重なるものがある。
オルフィナの派手な買い物だ。
婚約が表面化するより少し前から、義妹は急に贅沢を覚えたように金を使い始めていた。最初は新しいドレス。次に宝石。今では私室の調度品まで入れ替える勢いだ。
もちろん、それだけで王都の物価を揺らせるはずはない。たかが公爵家の娘一人の浪費だ。
だが気になる。
あまりにも金回りが良すぎるのだ。
公爵家から与えられる小遣いで賄える規模ではない。義母が多少便宜を図ったところで限度がある。
「ヴォルゼック伯爵家……」
ルヴェリアは小さくその名を口にした。
格では公爵家に劣る。
だが財では並の上位貴族を軽く踏み越える。鉱山、交易、金融、倉庫業。あらゆるところに手を広げている家だ。
金持ちであること自体は罪ではない。
けれど、あの家の金には時々、生ぬるい水に指を入れた時のような不快さがある。
どこか濁っているのだ。
その時、会計室の扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
入ってきたのは、公爵家で仕入れを担当する中年の家令だった。顔色が冴えない。
「市場から戻りましたが、やはり今日も価格が上がっております」
「どの品目が?」
「小麦粉、油、砂糖、布地。それに……」
家令は言いにくそうに言葉を切った。
「庶民向けの安価な石鹸や燭台まで、少しずつ」
ルヴェリアは眉を寄せる。
贅沢品だけなら、流行や買い占めの影響もある。だが庶民が日々使うような品まで上がるとなれば、話は別だ。
「理由は?」
「商人たちも首をひねっております。最近、金払いのいい客が増えたせいで品が薄くなっている、と」
「金払いのいい客?」
「はい。羽振りのよい成金のような者や、急に大きな買い物をする者が目立つそうです。店によっては、まとまった金貨で支払われることも多くなったとか」
まとまった金貨。
ルヴェリアは視線を帳簿に落としたまま、静かに尋ねる。
「その金貨に何か変わったところは?」
「そこまでは……。ただ、釣りを嫌がる者がいるそうです。高い品を、きっちりした額ではなく、やや多めに払って帰ることもあるとか」
ルヴェリアの指先が帳面の上で止まる。
釣りを嫌がる。
それは見栄の張り方としても不自然ではない。だが、細かく見られたくない金だった場合は話が変わる。
「わかったわ。引き続き、市場の値動きを細かく記録してちょうだい。特に大口の買い手について」
「承知しました」
家令が下がった後も、ルヴェリアはしばらく椅子に座ったままだった。
窓の外では、春の庭にやわらかな陽が差している。けれど頭の中にあるのは、帳簿の数字と、義妹の笑顔と、伯爵家の金の色だけだった。
そこへまた、軽やかな足音が近づいてくる。
聞き覚えのある、わざと人に聞かせるような歩き方。
扉も叩かずに入ってきたオルフィナは、新しい淡桃色のドレスをふわりと広げて見せた。
「お姉様、見てくださいませ。これ、ヴォルゼック家の仕立て職人に作らせたの」
会計室には不釣り合いな華やかさだった。
胸元には真珠、袖口には細かな銀糸、裾には季節の花を模した刺繍。朝から見せびらかしに来るだけの価値はあると思っているのだろう。
ルヴェリアは書類から目を離さず言う。
「ええ、そう」
「それだけ?」
「感想が必要かしら」
オルフィナは机の前まで歩いてきて、くすくす笑った。
「必要ですわ。だってお姉様、こういうもの本当はお好きでしょう? でもお姉様って、いつも家のこととか帳簿のこととかばかりで、自分を飾る楽しみを知らないんですもの」
「あなたは知っていて結構ね」
「ええ、知っておりますわ」
オルフィナは得意げに言った。
「ゼルカイン様が何でも買ってくださるの。宝石も、馬車も、ドレスも。今度は王都の新しい別邸も見せてくださるって」
そこでルヴェリアはようやく顔を上げた。
「別邸まで?」
「まあ、そんなに驚かなくても。ヴォルゼック伯爵家にとっては大したことではありませんもの」
嬉しそうに頬を染める義妹を見て、ルヴェリアは奇妙な感覚に襲われる。
この浮かれ方は、恋に酔った女のものというより、手に入る財の大きさに酔った人間の顔だ。
「随分と景気がいいのね」
「当然でしょう?」
オルフィナはにっこりと笑う。
「だって、ゼルカイン様はお姉様のようにケチではありませんもの」
「私は家の金を無駄に使わないだけよ」
「それをケチと言うのですわ」
オルフィナは勝ち誇ったように顎を上げた。
「お姉様も、もっと可愛げがあればよかったのに。そうしたら婚約者を奪われずに済んだかもしれませんのにね」
ルヴェリアは数秒、黙って義妹を見つめた。
そして静かに帳簿を閉じる。
「オルフィナ」
「何ですの?」
「あなた、そんなに目立って大丈夫?」
「……は?」
義妹の笑みが止まった。
ルヴェリアは落ち着いた声で続ける。
「最近のあなた、使う金の額も、見せびらかし方も、少し不自然よ。王都じゅうに『私は金があります』と触れ回っているようなものだわ」
「それの何が悪いの?」
「悪いかどうかではなく、危ういと言っているの」
オルフィナは一瞬きょとんとし、それから馬鹿にしたように笑った。
「お姉様って本当に変。貧乏人みたいな心配ばかりなさるのね」
「そう」
「お姉様は指をくわえて見ていればいいの。これからはわたくしの時代なのですもの」
オルフィナはそう言い残し、香水の匂いだけを残して会計室を去っていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
だがその静けさは、少し前までのものとは違っていた。
ルヴェリアはゆっくりと息を吐き、机の上の価格記録を見つめる。
これからはわたくしの時代。
義妹の言葉が妙に耳に残っていた。
ただの思い上がりかもしれない。伯爵家の財力に酔っただけの戯言かもしれない。
それでも、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さって離れない。
金の流れがおかしい。
物価の上がり方もおかしい。
そしてオルフィナの浮かれ方は、なおさらおかしい。
ルヴェリアは新しい紙を引き寄せ、品目ごとの価格推移を書き写し始めた。
数字を見れば、いずれ歪みは形を持つ。
人は嘘をつくが、歪んだ流れはどこかに痕を残す。
婚約を奪われたことは、まだ痛い。
だが今は、その痛みを抱えたままでも前を見るしかない。
ルヴェリアは羽根ペンを走らせながら、静かに決めた。
まずは、王都で何が起きているのかを知ること。
あの金がどこから流れ出ているのか、確かめること。
義妹の勝ち誇った笑顔の裏にあるものが何であれ、いつまでも見過ごしてよい気はしなかった。
婚約解消の話が屋敷の中で広まるのに、半日もかからなかった。
アストラーデ公爵家ほどの大きな家であれば、人の口を完全に閉ざすことなどできない。まして今回は、次女が長女の婚約者を奪ったのだ。使用人たちが表向きどれほど口を慎んでも、空気そのものが騒がしくなる。
ルヴェリアは朝食の席で、いつもと変わらぬ顔でスープを口に運んでいた。
銀の匙が器に触れる音だけが、やけに澄んで聞こえる。
向かいには父である公爵、斜め前には義母、その隣にはオルフィナが座っていた。
義母は今朝に限ってひどく機嫌が良さそうだった。口元に浮かぶ笑みは穏やかに見えて、実のところ一滴も温かさがない。
「ルヴェリア、昨日の件だけれど」
義母が紅茶のカップを傾けながら、いかにも物分かりの良い声音で言った。
「あなたももう成人しているのですし、感情的にならず家のためを考えてちょうだいね」
ルヴェリアはナプキンを整え、ゆっくりと顔を上げた。
「家のため、ですか」
「ええ。ヴォルゼック伯爵家との縁は、我が公爵家にとっても決して悪いものではありません。婚約者が誰になるにせよ、結びつきそのものが残るのならよいではありませんか」
よいではありませんか。
実に軽い言い方だった。
婚約者を奪われた娘の前で、よいではありませんかと言える神経の太さに、ルヴェリアはもはや感心すら覚える。
父は黙ったまま、食卓の端に視線を落としていた。
止めることも、庇うこともない。
それがこの家の答えなのだろう。
オルフィナは焼きたてのパンを小さくちぎりながら、わざとらしく困ったように眉を下げた。
「お姉様、そんなふうに黙られると、わたくしまで悪いことをしたみたいですわ」
ルヴェリアは淡々と返す。
「実際に悪いことをしたのではなくて?」
オルフィナはぱちぱちとまばたきをし、それから唇を尖らせた。
「まあ。恋に落ちたことが、そんなに罪だとおっしゃるの?」
「恋、ね」
その一言に、義妹の表情がわずかに硬くなる。
ルヴェリアは視線を落とし、皿の上の果物にナイフを入れた。
「あなたが恋をしたのか、財に目がくらんだのか、私には区別がつかないわ」
「お姉様!」
今度は明らかにオルフィナが声を尖らせた。
義母がすぐにたしなめるように口を挟む。
「やめなさい、ルヴェリア。見苦しい嫉妬は品位を損ねますよ」
「品位」
ルヴェリアは小さく繰り返した。
「それをおっしゃるのですね」
義母の眉がぴくりと動く。
父はなおも黙っていた。
この場で何かを期待するだけ無駄だと、ルヴェリアはもう理解している。だからそれ以上は言わず、食事を終えると席を立った。
「失礼いたします。今日は帳簿の確認がありますので」
「あら、逃げるの?」
オルフィナが背中に向かって言う。
ルヴェリアは振り返らない。
「逃げる価値がある相手なら、そうしたかもしれないわね」
背後で椅子が引かれる気配がした。義妹が立ち上がりかけたのだろう。だが義母に止められたらしく、それ以上の声は聞こえなかった。
廊下に出た瞬間、肺の奥にたまっていた息がゆっくりと抜ける。
相変わらず、朝からよく食べられたものだと自分でも思う。胃の中は重いのに、表情だけはどうにか保てていた。
「お嬢様」
控えていた侍女のエミリアが心配そうに歩み寄ってくる。
ルヴェリアは首を横に振った。
「大丈夫よ。会計室に行くわ」
「……かしこまりました」
エミリアはそれ以上何も言わなかった。
余計な慰めを口にしないのは、彼女の美徳だ。優しいだけの言葉は、傷口に砂糖を塗るようなものだと知っているのだろう。
会計室に入ると、紙と革とインクの匂いが広がっていた。
いつもの匂いだ。
数字は裏切らない。少なくとも人間よりはずっと。
ルヴェリアは書類棚から仕入れ帳を抜き出し、机に並べる。屋敷の食糧、布地、蝋燭、石鹸、燃料。月ごとの価格推移が記された帳簿に、目を通していく。
そのうち、指先がぴたりと止まった。
「……上がっている」
ここ数か月、少しずつだが確実に値段が上がっていた。
一つ二つなら季節の要因で片づく。だがこれは違う。品目が広すぎる。
パン用の小麦粉、食用油、布地の染料、灯油代わりの油脂、果ては釘や革紐にまで、じわじわと値上がりが及んでいた。
「不作の報告はなかったはず……」
独り言のように呟いて、別の帳面を引く。
地方から上がってきた収穫報告。災害記録。街道封鎖の有無。どれを見ても、物価がここまで乱れる理由としては弱かった。
ならば理由は別にある。
ルヴェリアはさらに王都の市場価格をまとめた記録に目を通す。公爵家では屋敷運営のために定期的に市況を記録させていた。こういう時、その積み重ねが効いてくる。
価格の上昇は三か月前あたりから目立ち始めていた。
そして、その時期と奇妙に重なるものがある。
オルフィナの派手な買い物だ。
婚約が表面化するより少し前から、義妹は急に贅沢を覚えたように金を使い始めていた。最初は新しいドレス。次に宝石。今では私室の調度品まで入れ替える勢いだ。
もちろん、それだけで王都の物価を揺らせるはずはない。たかが公爵家の娘一人の浪費だ。
だが気になる。
あまりにも金回りが良すぎるのだ。
公爵家から与えられる小遣いで賄える規模ではない。義母が多少便宜を図ったところで限度がある。
「ヴォルゼック伯爵家……」
ルヴェリアは小さくその名を口にした。
格では公爵家に劣る。
だが財では並の上位貴族を軽く踏み越える。鉱山、交易、金融、倉庫業。あらゆるところに手を広げている家だ。
金持ちであること自体は罪ではない。
けれど、あの家の金には時々、生ぬるい水に指を入れた時のような不快さがある。
どこか濁っているのだ。
その時、会計室の扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
入ってきたのは、公爵家で仕入れを担当する中年の家令だった。顔色が冴えない。
「市場から戻りましたが、やはり今日も価格が上がっております」
「どの品目が?」
「小麦粉、油、砂糖、布地。それに……」
家令は言いにくそうに言葉を切った。
「庶民向けの安価な石鹸や燭台まで、少しずつ」
ルヴェリアは眉を寄せる。
贅沢品だけなら、流行や買い占めの影響もある。だが庶民が日々使うような品まで上がるとなれば、話は別だ。
「理由は?」
「商人たちも首をひねっております。最近、金払いのいい客が増えたせいで品が薄くなっている、と」
「金払いのいい客?」
「はい。羽振りのよい成金のような者や、急に大きな買い物をする者が目立つそうです。店によっては、まとまった金貨で支払われることも多くなったとか」
まとまった金貨。
ルヴェリアは視線を帳簿に落としたまま、静かに尋ねる。
「その金貨に何か変わったところは?」
「そこまでは……。ただ、釣りを嫌がる者がいるそうです。高い品を、きっちりした額ではなく、やや多めに払って帰ることもあるとか」
ルヴェリアの指先が帳面の上で止まる。
釣りを嫌がる。
それは見栄の張り方としても不自然ではない。だが、細かく見られたくない金だった場合は話が変わる。
「わかったわ。引き続き、市場の値動きを細かく記録してちょうだい。特に大口の買い手について」
「承知しました」
家令が下がった後も、ルヴェリアはしばらく椅子に座ったままだった。
窓の外では、春の庭にやわらかな陽が差している。けれど頭の中にあるのは、帳簿の数字と、義妹の笑顔と、伯爵家の金の色だけだった。
そこへまた、軽やかな足音が近づいてくる。
聞き覚えのある、わざと人に聞かせるような歩き方。
扉も叩かずに入ってきたオルフィナは、新しい淡桃色のドレスをふわりと広げて見せた。
「お姉様、見てくださいませ。これ、ヴォルゼック家の仕立て職人に作らせたの」
会計室には不釣り合いな華やかさだった。
胸元には真珠、袖口には細かな銀糸、裾には季節の花を模した刺繍。朝から見せびらかしに来るだけの価値はあると思っているのだろう。
ルヴェリアは書類から目を離さず言う。
「ええ、そう」
「それだけ?」
「感想が必要かしら」
オルフィナは机の前まで歩いてきて、くすくす笑った。
「必要ですわ。だってお姉様、こういうもの本当はお好きでしょう? でもお姉様って、いつも家のこととか帳簿のこととかばかりで、自分を飾る楽しみを知らないんですもの」
「あなたは知っていて結構ね」
「ええ、知っておりますわ」
オルフィナは得意げに言った。
「ゼルカイン様が何でも買ってくださるの。宝石も、馬車も、ドレスも。今度は王都の新しい別邸も見せてくださるって」
そこでルヴェリアはようやく顔を上げた。
「別邸まで?」
「まあ、そんなに驚かなくても。ヴォルゼック伯爵家にとっては大したことではありませんもの」
嬉しそうに頬を染める義妹を見て、ルヴェリアは奇妙な感覚に襲われる。
この浮かれ方は、恋に酔った女のものというより、手に入る財の大きさに酔った人間の顔だ。
「随分と景気がいいのね」
「当然でしょう?」
オルフィナはにっこりと笑う。
「だって、ゼルカイン様はお姉様のようにケチではありませんもの」
「私は家の金を無駄に使わないだけよ」
「それをケチと言うのですわ」
オルフィナは勝ち誇ったように顎を上げた。
「お姉様も、もっと可愛げがあればよかったのに。そうしたら婚約者を奪われずに済んだかもしれませんのにね」
ルヴェリアは数秒、黙って義妹を見つめた。
そして静かに帳簿を閉じる。
「オルフィナ」
「何ですの?」
「あなた、そんなに目立って大丈夫?」
「……は?」
義妹の笑みが止まった。
ルヴェリアは落ち着いた声で続ける。
「最近のあなた、使う金の額も、見せびらかし方も、少し不自然よ。王都じゅうに『私は金があります』と触れ回っているようなものだわ」
「それの何が悪いの?」
「悪いかどうかではなく、危ういと言っているの」
オルフィナは一瞬きょとんとし、それから馬鹿にしたように笑った。
「お姉様って本当に変。貧乏人みたいな心配ばかりなさるのね」
「そう」
「お姉様は指をくわえて見ていればいいの。これからはわたくしの時代なのですもの」
オルフィナはそう言い残し、香水の匂いだけを残して会計室を去っていった。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
だがその静けさは、少し前までのものとは違っていた。
ルヴェリアはゆっくりと息を吐き、机の上の価格記録を見つめる。
これからはわたくしの時代。
義妹の言葉が妙に耳に残っていた。
ただの思い上がりかもしれない。伯爵家の財力に酔っただけの戯言かもしれない。
それでも、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さって離れない。
金の流れがおかしい。
物価の上がり方もおかしい。
そしてオルフィナの浮かれ方は、なおさらおかしい。
ルヴェリアは新しい紙を引き寄せ、品目ごとの価格推移を書き写し始めた。
数字を見れば、いずれ歪みは形を持つ。
人は嘘をつくが、歪んだ流れはどこかに痕を残す。
婚約を奪われたことは、まだ痛い。
だが今は、その痛みを抱えたままでも前を見るしかない。
ルヴェリアは羽根ペンを走らせながら、静かに決めた。
まずは、王都で何が起きているのかを知ること。
あの金がどこから流れ出ているのか、確かめること。
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