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5話 王宮からの要請
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5話 王宮からの要請
その手紙が届いたのは、オルフィナの買い物記録を三日分まとめ終えた日の午後だった。
アストラーデ公爵家の紋章入りではない、王宮の白い封蝋。
侍従長名義で差し出されたそれを見た瞬間、ルヴェリアは書類の上で手を止めた。
「王宮から……?」
傍らで控えていたエミリアも、さすがに目を丸くする。
「お嬢様宛てでございますね」
「ええ」
ルヴェリアは封を切り、丁寧に折られた紙を開いた。
文面は簡潔だった。
王都における物価高騰および不審金貨流通の件について、王太子殿下が意見を求めている。ついては、明日午前、王宮へ出頭されたし。
読み終えたルヴェリアは、しばらく黙っていた。
エミリアが心配そうに口を開く。
「……何かありましたか」
「王太子殿下が、お会いになりたいそうよ」
「王太子殿下が?」
「ええ。物価高騰と不審金貨について、意見を求めたいと」
エミリアは目を見開いたまま、数秒遅れて息をついた。
「それは……」
驚くのも無理はない。
王太子ディルハルト・セレスティアは、社交界では冷静沈着な実務家として知られていた。愛想を振りまいて人気を取るタイプではない。だが、その代わりに、無駄を嫌い、数字と報告を重んじる王族として、一部の官僚や実務派貴族からは非常に評価が高い。
ルヴェリアも、何度か公式の場で言葉を交わしたことがある。
必要なことしか話さないが、こちらを軽んじることもない男だった。
「お嬢様が最近、市場の値動きを調べていらっしゃることが、王宮にも伝わったのでしょうか」
「たぶんね。公爵家は物資の出入りも多いし、王都の市況記録も長く取っているもの」
「ですが、なぜお嬢様を」
「分からないわ。でも、少なくともただの社交的な挨拶ではないでしょうね」
ルヴェリアはそう言って、机の上に広げていた記録へ視線を落とした。
ここ数日でまとめたものだ。
パン、小麦粉、灯油、石鹸、布、染料。価格の変動幅と時期。急に羽振りのよくなった客層。釣りを嫌がる買い手。質の悪い金貨の噂。
さらに、オルフィナが最近買い込んだ品の一覧と、その支払いを請け負ったヴォルゼック伯爵家側の使いの記録。
まだ証拠と呼べるほど固まってはいない。
だが、歪みは確かに見えてきていた。
「……行かれますか」
エミリアの問いに、ルヴェリアはわずかに笑った。
「行かない理由がないわ」
婚約を奪われたばかりの公爵令嬢が、王宮からの呼び出しを受ける。
噂好きの貴族たちなら、さぞ勝手な想像を膨らませるだろう。
捨てられた令嬢が、今度は王太子に取り入ろうとしている。
そんな下世話な話にされる可能性すらある。
けれど、いまはそんなことを気にしている場合ではなかった。
「問題は、何を持っていくかね」
ルヴェリアは立ち上がり、整理棚から新しい帳面を引き抜いた。
「思いつきで話しては駄目。向こうが王太子殿下なら、こちらも感情ではなく材料で応じるべきだわ」
「では、記録をまとめ直しますか」
「ええ。価格変動の一覧、市場証言の要点、不審な金貨の噂の出所。それから、王都で金払いの良くなった層についても」
「オルフィナ様の件は」
ルヴェリアは少し考えた。
そして首を横に振る。
「まだ名前は出さない」
「ですが、かなり不自然です」
「不自然ではあるわ。でも、現時点では義妹の浪費と市場の混乱が同じ流れに見える、という段階でしかない。私怨だと思われたら、それで終わりよ」
エミリアはすぐに頷いた。
「承知しました」
その夜、ルヴェリアは遅くまで机に向かった。
記録を一つ一つ整理し、数字を並べ、証言を簡潔な文にまとめる。
曖昧な推測は削る。
怒りから出た言葉も削る。
残すのは、確認できた事実だけ。
そうしているうちに、婚約解消のことを考える時間は自然と薄れていった。
痛みが消えたわけではない。
ただ、もっと別のものが目の前に現れたのだ。
王都で日々の食事に困る者がいる。
商人たちが仕入れ値の乱れに振り回されている。
そしてどこかで、不自然な金が動いている。
自分の惨めさだけに沈んでいるには、あまりに胸の悪い現実だった。
翌朝。
ルヴェリアは深い青のドレスを選んだ。派手すぎず、だが地味すぎもしない、公の場に相応しい色だ。
鏡の前で髪を整え終えると、エミリアが小さく息をつく。
「よくお似合いです」
「王宮で衣装を褒められに行くわけではないのだけれど」
「それでもです」
その言葉に、ルヴェリアはわずかに口元を和らげた。
玄関へ向かう途中、広間から笑い声が聞こえてきた。
オルフィナだ。
朝から義母と一緒に新しい布地の見本を広げているらしい。
「この金糸の方が華やかですわね」
「そうねえ。次の夜会では、誰より目立たないと」
ルヴェリアはその前を通り過ぎようとしたが、案の定、義妹が気づいた。
「あら、お姉様。朝からずいぶんきちんとなさって。どちらへ?」
「王宮よ」
ルヴェリアが淡々と答えると、オルフィナの笑みが一瞬止まった。
「……王宮?」
「ええ。お呼びがあったの」
義母の目も細くなる。
「誰から」
「侍従長名義で。王太子殿下が、物価高騰と不審金貨について意見を求めておられるそうよ」
その場の空気が僅かに変わった。
義母はすぐに作り笑いを浮かべたが、オルフィナの方は露骨に顔色を変えていた。
「どうして、お姉様がそんなことに」
「私にも分からないわ」
「……市場のことなんて、役人に任せればいいでしょうに」
「そうかもしれないわね」
ルヴェリアは義妹の目を静かに見た。
「でも、困っている人が現にいるもの。誰かが見る必要はあるでしょう」
オルフィナは不満そうに唇を尖らせる。
「そんなつまらない話のために王宮へ? せっかくお姉様も少しは綺麗にしているのに、もったいないわ」
「あなたにはつまらなく見えるのでしょうね」
「ええ。だってお金が回るのは悪いことではないもの」
その返答に、ルヴェリアは一瞬だけ視線を鋭くした。
金が回る。
オルフィナはそう言った。
何気ない言葉のはずなのに、なぜか妙に引っかかる。
「そう」
それだけ返し、ルヴェリアはその場を後にした。
馬車の中で、エミリアが小さく言う。
「オルフィナ様、少し動揺していらしたように見えました」
「ええ」
「やはり何か」
「まだ断定はしないわ。でも、あの子は市場の混乱を『つまらない話』だと思っている。自分が撒いている金がどう使われているのか、少しも考えていないのかもしれない」
「……あるいは、考えたくないのかもしれません」
エミリアのその言葉に、ルヴェリアは窓の外を見た。
王宮へ続く石畳の道は、よく磨かれて明るかった。
けれどその先に待っている話は、きっと明るいものではない。
王宮に着くと、迎えの侍従に案内され、ルヴェリアは執務棟の一室へ通された。
豪奢ではあるが無駄の少ない部屋だった。
壁際には書架、中央には大きな机、窓辺には王都の地図と物流表。華美さより機能が優先されているのが一目で分かる。
やはりこの部屋の主は、飾りより実務を好む男らしい。
ほどなくして、扉が開いた。
入ってきたのは、王太子ディルハルトその人だった。
淡い銀灰色の上衣に身を包み、朝の光を背にして立つその姿には、いかにも王族らしい品格がある。だが、目に宿るのは甘さではなく、よく研がれた刃のような静かな理性だった。
ルヴェリアは礼を取る。
「お招きいただき、光栄に存じます。ディルハルト殿下」
「急な呼び出しに応じてくれて感謝する、ルヴェリア嬢」
声もまた、無駄な飾り気がない。
ディルハルトは向かいの席を示した。
「座ってくれ」
「失礼いたします」
腰を下ろすと、ディルハルトはすぐ本題に入った。
「君が最近、王都の価格変動を独自に調べていると聞いた」
「はい。公爵家の管理の一環として、市場価格の確認をしておりました」
「公爵家の管理にしては、ずいぶん広く見ているようだが」
試すような視線だった。
ルヴェリアは動じずに答える。
「屋敷の維持費だけ見ていれば済む段階を、すでに越えていると思いましたので」
ディルハルトの目がわずかに細くなる。
「……私も同意見だ」
彼は机上の書類をひとつ手に取った。
「王都ではここ数か月、段階的に物価が上がっている。原因は不作でも戦でもない。さらに、質の怪しい金貨の噂まで出てきた」
「はい」
「財務局も市場監督官も調べてはいるが、動きが鈍い。個別の問題としてしか見ていない者が多いからだ」
そこでディルハルトは、真っ直ぐルヴェリアを見た。
「君は、別の見方をしているな」
問いというより確認だった。
ルヴェリアは持参した記録を机に置く。
「物価高騰と不審な金貨は、別件ではない可能性があります」
「続けてくれ」
「市場では、最近急に金払いのよくなった者が増えています。必要量以上に買い、釣りを嫌がり、値切りもしない。その結果、品が薄くなり、価格が押し上げられている」
ディルハルトは黙って聞いている。
「もし王都に通常以上の金貨が流れ込み、それが雑に使われているのなら、表面上は景気が良く見えても、実際には物の値段だけが吊り上がります。とくに生活必需品にまでその影響が及んでいるのが危険です」
「つまり、金の流入が自然ではないと?」
「はい。まだ確証はありません。ただ、そう考えると説明のつく点が多いのです」
ディルハルトは書類に目を落とし、しばらく無言で考え込んだ。
やがて静かに言う。
「面白い」
社交の場なら、令嬢に向ける言葉としてはあまり相応しくない。だが不思議と侮辱には聞こえなかった。
彼にとっては、的を射た意見に対する率直な評価なのだろう。
「実は、回収した金貨の一部を私も見た」
ディルハルトは続ける。
「見た目はほぼ本物だ。だが、妙に違和感があるという報告が複数ある」
ルヴェリアの背筋がわずかに伸びる。
「違和感」
「ああ。まだ証明できていないがな」
ディルハルトはルヴェリアを見た。
「君のように、数字だけでなく、流れ全体を見られる者が必要だ。協力してくれないか」
その言葉は、命令ではなく、明確な依頼だった。
ルヴェリアは一瞬だけ目を伏せる。
婚約を奪われたばかりの身で、王太子の仕事に関わる。
気軽に引き受ければ、余計な噂を招くのは分かっている。
けれど。
市場で見た困り果てた母親の顔。
石鹸や灯りの値上がりに肩を落とす商人たち。
そして、湯水のように金を使いながら、それを当然と思っている義妹の笑顔。
あれらを思い出せば、答えは一つだった。
「お力になれることがあるのなら」
ルヴェリアは顔を上げる。
「喜んで協力いたします、殿下」
ディルハルトは短く頷いた。
「助かる」
その一言は簡潔だったが、軽くはなかった。
ルヴェリアはそこでようやく、自分が婚約を奪われた公爵令嬢としてではなく、必要な相手としてここに呼ばれたのだと実感した。
それは思いのほか、胸の奥を静かに温めた。
王宮を出る頃には、空は高く晴れていた。
だがルヴェリアの心には、むしろこれから始まるものの重さがはっきりと落ちていた。
婚約を奪われたことは、まだ終わっていない。
けれどその先に、もっと大きな歪みがある。
ならば見て見ぬふりはできない。
馬車へ向かいながら、ルヴェリアは小さく息を吐いた。
「さて」
エミリアが隣で顔を上げる。
「はい」
「ようやく、本当に始まりそうね」
何が、とは言わなかった。
だが二人にはもう十分だった。
王都を乱す金の流れも。
その裏にある誰かの思惑も。
そして、それに触れて浮かれている者たちの正体も。
もう、追わずにはいられなかった。
その手紙が届いたのは、オルフィナの買い物記録を三日分まとめ終えた日の午後だった。
アストラーデ公爵家の紋章入りではない、王宮の白い封蝋。
侍従長名義で差し出されたそれを見た瞬間、ルヴェリアは書類の上で手を止めた。
「王宮から……?」
傍らで控えていたエミリアも、さすがに目を丸くする。
「お嬢様宛てでございますね」
「ええ」
ルヴェリアは封を切り、丁寧に折られた紙を開いた。
文面は簡潔だった。
王都における物価高騰および不審金貨流通の件について、王太子殿下が意見を求めている。ついては、明日午前、王宮へ出頭されたし。
読み終えたルヴェリアは、しばらく黙っていた。
エミリアが心配そうに口を開く。
「……何かありましたか」
「王太子殿下が、お会いになりたいそうよ」
「王太子殿下が?」
「ええ。物価高騰と不審金貨について、意見を求めたいと」
エミリアは目を見開いたまま、数秒遅れて息をついた。
「それは……」
驚くのも無理はない。
王太子ディルハルト・セレスティアは、社交界では冷静沈着な実務家として知られていた。愛想を振りまいて人気を取るタイプではない。だが、その代わりに、無駄を嫌い、数字と報告を重んじる王族として、一部の官僚や実務派貴族からは非常に評価が高い。
ルヴェリアも、何度か公式の場で言葉を交わしたことがある。
必要なことしか話さないが、こちらを軽んじることもない男だった。
「お嬢様が最近、市場の値動きを調べていらっしゃることが、王宮にも伝わったのでしょうか」
「たぶんね。公爵家は物資の出入りも多いし、王都の市況記録も長く取っているもの」
「ですが、なぜお嬢様を」
「分からないわ。でも、少なくともただの社交的な挨拶ではないでしょうね」
ルヴェリアはそう言って、机の上に広げていた記録へ視線を落とした。
ここ数日でまとめたものだ。
パン、小麦粉、灯油、石鹸、布、染料。価格の変動幅と時期。急に羽振りのよくなった客層。釣りを嫌がる買い手。質の悪い金貨の噂。
さらに、オルフィナが最近買い込んだ品の一覧と、その支払いを請け負ったヴォルゼック伯爵家側の使いの記録。
まだ証拠と呼べるほど固まってはいない。
だが、歪みは確かに見えてきていた。
「……行かれますか」
エミリアの問いに、ルヴェリアはわずかに笑った。
「行かない理由がないわ」
婚約を奪われたばかりの公爵令嬢が、王宮からの呼び出しを受ける。
噂好きの貴族たちなら、さぞ勝手な想像を膨らませるだろう。
捨てられた令嬢が、今度は王太子に取り入ろうとしている。
そんな下世話な話にされる可能性すらある。
けれど、いまはそんなことを気にしている場合ではなかった。
「問題は、何を持っていくかね」
ルヴェリアは立ち上がり、整理棚から新しい帳面を引き抜いた。
「思いつきで話しては駄目。向こうが王太子殿下なら、こちらも感情ではなく材料で応じるべきだわ」
「では、記録をまとめ直しますか」
「ええ。価格変動の一覧、市場証言の要点、不審な金貨の噂の出所。それから、王都で金払いの良くなった層についても」
「オルフィナ様の件は」
ルヴェリアは少し考えた。
そして首を横に振る。
「まだ名前は出さない」
「ですが、かなり不自然です」
「不自然ではあるわ。でも、現時点では義妹の浪費と市場の混乱が同じ流れに見える、という段階でしかない。私怨だと思われたら、それで終わりよ」
エミリアはすぐに頷いた。
「承知しました」
その夜、ルヴェリアは遅くまで机に向かった。
記録を一つ一つ整理し、数字を並べ、証言を簡潔な文にまとめる。
曖昧な推測は削る。
怒りから出た言葉も削る。
残すのは、確認できた事実だけ。
そうしているうちに、婚約解消のことを考える時間は自然と薄れていった。
痛みが消えたわけではない。
ただ、もっと別のものが目の前に現れたのだ。
王都で日々の食事に困る者がいる。
商人たちが仕入れ値の乱れに振り回されている。
そしてどこかで、不自然な金が動いている。
自分の惨めさだけに沈んでいるには、あまりに胸の悪い現実だった。
翌朝。
ルヴェリアは深い青のドレスを選んだ。派手すぎず、だが地味すぎもしない、公の場に相応しい色だ。
鏡の前で髪を整え終えると、エミリアが小さく息をつく。
「よくお似合いです」
「王宮で衣装を褒められに行くわけではないのだけれど」
「それでもです」
その言葉に、ルヴェリアはわずかに口元を和らげた。
玄関へ向かう途中、広間から笑い声が聞こえてきた。
オルフィナだ。
朝から義母と一緒に新しい布地の見本を広げているらしい。
「この金糸の方が華やかですわね」
「そうねえ。次の夜会では、誰より目立たないと」
ルヴェリアはその前を通り過ぎようとしたが、案の定、義妹が気づいた。
「あら、お姉様。朝からずいぶんきちんとなさって。どちらへ?」
「王宮よ」
ルヴェリアが淡々と答えると、オルフィナの笑みが一瞬止まった。
「……王宮?」
「ええ。お呼びがあったの」
義母の目も細くなる。
「誰から」
「侍従長名義で。王太子殿下が、物価高騰と不審金貨について意見を求めておられるそうよ」
その場の空気が僅かに変わった。
義母はすぐに作り笑いを浮かべたが、オルフィナの方は露骨に顔色を変えていた。
「どうして、お姉様がそんなことに」
「私にも分からないわ」
「……市場のことなんて、役人に任せればいいでしょうに」
「そうかもしれないわね」
ルヴェリアは義妹の目を静かに見た。
「でも、困っている人が現にいるもの。誰かが見る必要はあるでしょう」
オルフィナは不満そうに唇を尖らせる。
「そんなつまらない話のために王宮へ? せっかくお姉様も少しは綺麗にしているのに、もったいないわ」
「あなたにはつまらなく見えるのでしょうね」
「ええ。だってお金が回るのは悪いことではないもの」
その返答に、ルヴェリアは一瞬だけ視線を鋭くした。
金が回る。
オルフィナはそう言った。
何気ない言葉のはずなのに、なぜか妙に引っかかる。
「そう」
それだけ返し、ルヴェリアはその場を後にした。
馬車の中で、エミリアが小さく言う。
「オルフィナ様、少し動揺していらしたように見えました」
「ええ」
「やはり何か」
「まだ断定はしないわ。でも、あの子は市場の混乱を『つまらない話』だと思っている。自分が撒いている金がどう使われているのか、少しも考えていないのかもしれない」
「……あるいは、考えたくないのかもしれません」
エミリアのその言葉に、ルヴェリアは窓の外を見た。
王宮へ続く石畳の道は、よく磨かれて明るかった。
けれどその先に待っている話は、きっと明るいものではない。
王宮に着くと、迎えの侍従に案内され、ルヴェリアは執務棟の一室へ通された。
豪奢ではあるが無駄の少ない部屋だった。
壁際には書架、中央には大きな机、窓辺には王都の地図と物流表。華美さより機能が優先されているのが一目で分かる。
やはりこの部屋の主は、飾りより実務を好む男らしい。
ほどなくして、扉が開いた。
入ってきたのは、王太子ディルハルトその人だった。
淡い銀灰色の上衣に身を包み、朝の光を背にして立つその姿には、いかにも王族らしい品格がある。だが、目に宿るのは甘さではなく、よく研がれた刃のような静かな理性だった。
ルヴェリアは礼を取る。
「お招きいただき、光栄に存じます。ディルハルト殿下」
「急な呼び出しに応じてくれて感謝する、ルヴェリア嬢」
声もまた、無駄な飾り気がない。
ディルハルトは向かいの席を示した。
「座ってくれ」
「失礼いたします」
腰を下ろすと、ディルハルトはすぐ本題に入った。
「君が最近、王都の価格変動を独自に調べていると聞いた」
「はい。公爵家の管理の一環として、市場価格の確認をしておりました」
「公爵家の管理にしては、ずいぶん広く見ているようだが」
試すような視線だった。
ルヴェリアは動じずに答える。
「屋敷の維持費だけ見ていれば済む段階を、すでに越えていると思いましたので」
ディルハルトの目がわずかに細くなる。
「……私も同意見だ」
彼は机上の書類をひとつ手に取った。
「王都ではここ数か月、段階的に物価が上がっている。原因は不作でも戦でもない。さらに、質の怪しい金貨の噂まで出てきた」
「はい」
「財務局も市場監督官も調べてはいるが、動きが鈍い。個別の問題としてしか見ていない者が多いからだ」
そこでディルハルトは、真っ直ぐルヴェリアを見た。
「君は、別の見方をしているな」
問いというより確認だった。
ルヴェリアは持参した記録を机に置く。
「物価高騰と不審な金貨は、別件ではない可能性があります」
「続けてくれ」
「市場では、最近急に金払いのよくなった者が増えています。必要量以上に買い、釣りを嫌がり、値切りもしない。その結果、品が薄くなり、価格が押し上げられている」
ディルハルトは黙って聞いている。
「もし王都に通常以上の金貨が流れ込み、それが雑に使われているのなら、表面上は景気が良く見えても、実際には物の値段だけが吊り上がります。とくに生活必需品にまでその影響が及んでいるのが危険です」
「つまり、金の流入が自然ではないと?」
「はい。まだ確証はありません。ただ、そう考えると説明のつく点が多いのです」
ディルハルトは書類に目を落とし、しばらく無言で考え込んだ。
やがて静かに言う。
「面白い」
社交の場なら、令嬢に向ける言葉としてはあまり相応しくない。だが不思議と侮辱には聞こえなかった。
彼にとっては、的を射た意見に対する率直な評価なのだろう。
「実は、回収した金貨の一部を私も見た」
ディルハルトは続ける。
「見た目はほぼ本物だ。だが、妙に違和感があるという報告が複数ある」
ルヴェリアの背筋がわずかに伸びる。
「違和感」
「ああ。まだ証明できていないがな」
ディルハルトはルヴェリアを見た。
「君のように、数字だけでなく、流れ全体を見られる者が必要だ。協力してくれないか」
その言葉は、命令ではなく、明確な依頼だった。
ルヴェリアは一瞬だけ目を伏せる。
婚約を奪われたばかりの身で、王太子の仕事に関わる。
気軽に引き受ければ、余計な噂を招くのは分かっている。
けれど。
市場で見た困り果てた母親の顔。
石鹸や灯りの値上がりに肩を落とす商人たち。
そして、湯水のように金を使いながら、それを当然と思っている義妹の笑顔。
あれらを思い出せば、答えは一つだった。
「お力になれることがあるのなら」
ルヴェリアは顔を上げる。
「喜んで協力いたします、殿下」
ディルハルトは短く頷いた。
「助かる」
その一言は簡潔だったが、軽くはなかった。
ルヴェリアはそこでようやく、自分が婚約を奪われた公爵令嬢としてではなく、必要な相手としてここに呼ばれたのだと実感した。
それは思いのほか、胸の奥を静かに温めた。
王宮を出る頃には、空は高く晴れていた。
だがルヴェリアの心には、むしろこれから始まるものの重さがはっきりと落ちていた。
婚約を奪われたことは、まだ終わっていない。
けれどその先に、もっと大きな歪みがある。
ならば見て見ぬふりはできない。
馬車へ向かいながら、ルヴェリアは小さく息を吐いた。
「さて」
エミリアが隣で顔を上げる。
「はい」
「ようやく、本当に始まりそうね」
何が、とは言わなかった。
だが二人にはもう十分だった。
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