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6話 王太子との再会
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6話 王太子との再会
翌朝、ルヴェリアはまだ夜の冷たさが少し残るうちに目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、庭木の影も長い。けれど彼女の頭は、昨夜のうちからすでに目覚めていた。
王宮で交わした言葉が、何度も胸の内で反芻されていたからだ。
協力してくれないか。
王太子ディルハルトの声音には、余計な飾りがなかった。
慰めも同情も、婚約を奪われた女への憐憫もなかった。ただ必要だから呼び、必要だから頼む。それだけのことだった。
だからこそ、ルヴェリアはあの一言を軽く扱えなかった。
身支度を整えて会計室に入ると、すでにエミリアが帳簿を机に並べていた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。昨日頼んだ分は?」
「オルフィナ様の購入記録で、商人たちの証言が取れた分はこちらです。それから、王都市場の値上がり一覧も整理してあります」
机の上には、整然と分けられた紙束が置かれていた。
ルヴェリアはすぐに一枚ずつ目を通す。
宝飾商、香油商、布商、陶器商。どの店も口を揃えていた。
最近、値切らない客が増えた。
高くても構わないから今ある分を全部出せと言われる。
釣りを嫌がる。
細かい金額を気にしない。
それだけなら、成金趣味の流行で済ませることもできる。
だが複数の店で同時に同じ現象が起き、しかも生活必需品の価格まで押し上げているとなれば話は違う。
「……やはり広がり方が妙だわ」
ルヴェリアが呟くと、エミリアが頷く。
「王宮にお持ちになりますか」
「ええ。でも、義妹の名前を出すのはまだ早い」
「ですが、かなり中心に近いのでは」
「近いでしょうね」
ルヴェリアは静かに紙を揃えた。
「けれど、オルフィナを先に疑って動けば、すぐに私怨だと言われるわ。まずはもっと大きな流れを固めなければ」
エミリアは理解した顔で一礼する。
「では、今日はどこから」
「王宮よ。昨日の続きがあるはずだもの」
案の定、昼前には王宮から使いが来た。
王太子の執務補佐官の名で、再度の出頭要請。文面は昨日よりさらに事務的で、かえって急ぎの用件であることが伝わってくる。
ルヴェリアは必要な記録だけを選び、王宮へ向かった。
昨日と同じく通されたのは執務棟の一室だったが、今日は空気が少し違った。部屋の中央には机だけでなく、王都の地図と流通経路を書き込んだ大きな板が置かれている。数人の文官が端に控えていたが、ルヴェリアが入るとディルハルトの一言で全員が下がった。
扉が閉まり、室内に二人きりの静けさが落ちる。
「昨日のうちに呼びつけて済まなかった」
ディルハルトがそう言った。
謝罪ではあるが、いかにもこの男らしい簡潔さだった。
「いいえ。急ぐべき件なのでしょう」
「その通りだ」
ディルハルトは机の上の箱を開けた。
中には金貨が数枚並んでいた。どれも一見したところでは、ごく普通の王国金貨だ。刻印も縁も、荒っぽい偽物には見えない。
「これが、回収された不審な金貨の一部だ」
ルヴェリアは手袋を外し、慎重に一枚を手に取った。
冷たい金属の感触。
色味は問題ない。刻印の甘さもほとんどない。だが――
「……軽い、ような」
思わず漏れた声に、ディルハルトの目が細くなる。
「君もそう感じるか」
「はい。ほんの僅かですけれど」
ルヴェリアは本物の金貨も差し出され、持ち比べてみる。
見た目はほぼ同じ。厚みもほぼ同じ。だが手のひらに乗せた時の感覚が、何か違う。言葉にするには曖昧で、けれど無視しがたい差だ。
「違和感の正体までは、まだ分からないわ」
「十分だ。違和感があるという報告は複数ある」
ディルハルトは机に手をつき、やや身を乗り出した。
「問題は、それをどう証明するかだ」
ルヴェリアは金貨を見つめたまま答える。
「見た目で判別できないのなら、素材そのものを調べるしかありません」
「鋳直して中を見ればいい、と?」
「それでは遅いですし、流通品をいちいち壊せません。もっと簡単で、傷めずに済む方法が必要です」
ディルハルトは興味深そうに彼女を見る。
「心当たりがあるのか」
ルヴェリアは少し考えてから言った。
「完全な確信はありません。ただ、職人たちが金属を扱う時、水に沈めた時の嵩と重さの差で素材の詰まり方を比べることがあります」
「……続けてくれ」
「同じ大きさでも、中身が違えば重さの出方は変わります。表面だけ整えてあっても、金そのものではないなら、どこかで本物との差が出るはずです」
ディルハルトは無言で彼女を見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「面白い」
またその言葉だった。
だがやはり、今度も軽くはない。
「王宮工房を使えるようにする。必要な職人も揃えよう」
「ありがとうございます」
ルヴェリアはそう答えたが、内心では少し驚いていた。
普通の王族なら、令嬢の思いつきとして笑い飛ばしてもおかしくない。だがディルハルトは違った。使える案なら、誰のものでも拾う。立場より中身を見る男なのだ。
「それから」
ディルハルトは王都の地図を指先でなぞった。
「君の昨日の話を受けて、市場監督官から改めて報告を取り寄せた。値上がりの強い地域と、不審な金貨の噂が多い地域が部分的に重なっている」
ルヴェリアも地図へ歩み寄る。
赤い印が打たれているのは、中央市場周辺、高級商店街、そして河岸の交易地区だった。
「……やはり」
「心当たりがある顔だな」
「高額品が動く場所と、流通量の多い場所が重なっています。ここで偽金が本物に紛れれば、見つかる前に広がるわ」
ディルハルトは頷く。
「つまり、単に成金が増えたのではなく、誰かが意図的に混ぜ込んでいる可能性があると」
「はい」
ルヴェリアは地図を見つめたまま続ける。
「しかも荒くばらまくのではなく、自然な流れに見せかけて入り込ませている。かなり慣れた手口です」
その時ふと、彼女の脳裏にゼルカインの顔が浮かんだ。
あの男は昔から、金をただ積み上げるのではなく、流れを握ることに価値を置いていた。
鉱山も、交易も、金融も、全部同じだと言っていたことがある。
金は持つより、流れを支配した者が勝つ。
その言葉を思い出し、ルヴェリアは無意識に眉を寄せた。
「どうした」
ディルハルトの声に、彼女ははっと我に返る。
「いえ……少し」
言いかけて、ルヴェリアは言葉を止めた。
まだ言えない。
ヴォルゼック伯爵家の名をここで出すには、証拠が足りない。婚約者だった男を疑っているとなれば、余計に慎重でなければならない。
その迷いを察したのか、ディルハルトは問い詰めなかった。
代わりに静かな声で言う。
「すぐに話せないことなら、今は無理に言わなくていい」
その一言に、ルヴェリアは意外そうに顔を上げた。
責めるでもなく、急かすでもない。
ただ、待つと言ったのだ。
「……ありがとうございます」
「だが、時機が来たら聞く。隠し事をされたままでは使えないからな」
少しだけ厳しさの混じる言い方だった。
それが妙に心地よかった。
甘やかさない。けれど頭ごなしにも否定しない。信頼と警戒を同時に置く、実務の人間の距離感だ。
ルヴェリアは小さく頷く。
「その時は、きちんとお話しします」
ディルハルトはそれで十分と判断したらしく、書類を一つ差し出した。
「これは王宮側でまとめた報告だ。君の記録と照らし合わせて、気づいたことがあれば書き込んで返してくれ」
「私が?」
「君はもう参考人ではない。こちらの調査に正式に加わってもらう」
ルヴェリアの視線が、自然とその書類へ落ちる。
それは単なる協力依頼ではなかった。王太子の調査に、彼女自身の名で加わるという意味だ。
婚約を奪われてから、周囲は彼女を見る時、どこか「敗れた側」の色を混ぜていた。
哀れみ、好奇心、面白半分の視線。
けれどディルハルトは違う。
いま彼の前での自分は、必要な人間として扱われている。
その事実が、思いのほかまっすぐ胸に届いた。
「……承知いたしました」
ディルハルトは短く頷いた。
「では、まずは金貨の検査だ。明日、工房へ」
「はい」
話はそこで終わるかと思ったが、ディルハルトはふと視線を柔らかくした。
「疲れてはいないか」
予想していなかった言葉に、ルヴェリアは瞬きをする。
「急な話でしたし、婚約解消の件もある。負担をかけている自覚はある」
それは同情ではなかった。
事実として、彼女の状況を理解している声だった。
だからルヴェリアも、変に身構えずに答えられた。
「疲れていないと言えば嘘になります」
「正直でいい」
「ですが、それ以上に気になることが目の前にありますので」
ディルハルトはほんの僅か、口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
けれど彼の表情が和らぐだけで、この人はこんな顔もできるのかと思うほど印象が変わる。
「なら、しばらくは休む暇もないな」
「そのようです」
ルヴェリアもほんの少しだけ笑った。
王宮を出る頃には、空気が少し変わっていた。
昨日よりも、はっきりと。
これはもう、王宮から意見を求められた令嬢の話ではない。
王国の異変を追う側に、自分は足を踏み入れたのだ。
馬車へ戻ると、待っていたエミリアが顔を上げた。
「いかがでしたか」
ルヴェリアは手元の書類を見下ろし、静かに答える。
「本格的に関わることになったわ」
「では……」
「ええ。もう後戻りはできない」
それでも不思議と、怖さばかりではなかった。
もちろん不安はある。相手がどこまで大きいのかも分からない。婚約を奪った義妹や、ヴォルゼック伯爵家に繋がる線が本当にあるなら、自分はかなり危うい場所に足を踏み入れている。
けれど同時に、奇妙なほど心は澄んでいた。
婚約を失った痛みの中で立ち尽くすだけだった数日前より、ずっと前を向いている。
ルヴェリアは膝の上の箱をそっと開いた。
中には、さっき手に取ったのと同種の不審な金貨が一枚、検査用として預けられていた。
陽の光を受けて、美しく光っている。
本物そっくりに。
けれど手に持てば、どこか違う。
「……あなたも、そういうことなのね」
小さく漏らした呟きに、エミリアが首を傾げる。
「何か」
「いいえ。ただ」
ルヴェリアは金貨を見つめたまま言った。
「見た目が整っているからといって、中身まで本物とは限らないのだと思っただけ」
誰のことを言っているのか、自分でも分かっていた。
義妹オルフィナ。
元婚約者ゼルカイン。
そして、きらびやかな富で王都を覆うヴォルゼック伯爵家。
そのどれもが、今の彼女には妙にこの金貨と重なって見えた。
明日、その違和感の正体を確かめる。
目に見えない歪みを、きちんと形にする。
ルヴェリアは箱を閉じ、静かに背筋を伸ばした。
本当の意味での再会は、たぶん婚約者だった男とではない。
自分の力を必要としてくれる場所と。
そして、自分を正しく見る目を持つ人との。
そんな予感が、まだ淡いまま胸の奥に灯っていた。
翌朝、ルヴェリアはまだ夜の冷たさが少し残るうちに目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、庭木の影も長い。けれど彼女の頭は、昨夜のうちからすでに目覚めていた。
王宮で交わした言葉が、何度も胸の内で反芻されていたからだ。
協力してくれないか。
王太子ディルハルトの声音には、余計な飾りがなかった。
慰めも同情も、婚約を奪われた女への憐憫もなかった。ただ必要だから呼び、必要だから頼む。それだけのことだった。
だからこそ、ルヴェリアはあの一言を軽く扱えなかった。
身支度を整えて会計室に入ると、すでにエミリアが帳簿を机に並べていた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。昨日頼んだ分は?」
「オルフィナ様の購入記録で、商人たちの証言が取れた分はこちらです。それから、王都市場の値上がり一覧も整理してあります」
机の上には、整然と分けられた紙束が置かれていた。
ルヴェリアはすぐに一枚ずつ目を通す。
宝飾商、香油商、布商、陶器商。どの店も口を揃えていた。
最近、値切らない客が増えた。
高くても構わないから今ある分を全部出せと言われる。
釣りを嫌がる。
細かい金額を気にしない。
それだけなら、成金趣味の流行で済ませることもできる。
だが複数の店で同時に同じ現象が起き、しかも生活必需品の価格まで押し上げているとなれば話は違う。
「……やはり広がり方が妙だわ」
ルヴェリアが呟くと、エミリアが頷く。
「王宮にお持ちになりますか」
「ええ。でも、義妹の名前を出すのはまだ早い」
「ですが、かなり中心に近いのでは」
「近いでしょうね」
ルヴェリアは静かに紙を揃えた。
「けれど、オルフィナを先に疑って動けば、すぐに私怨だと言われるわ。まずはもっと大きな流れを固めなければ」
エミリアは理解した顔で一礼する。
「では、今日はどこから」
「王宮よ。昨日の続きがあるはずだもの」
案の定、昼前には王宮から使いが来た。
王太子の執務補佐官の名で、再度の出頭要請。文面は昨日よりさらに事務的で、かえって急ぎの用件であることが伝わってくる。
ルヴェリアは必要な記録だけを選び、王宮へ向かった。
昨日と同じく通されたのは執務棟の一室だったが、今日は空気が少し違った。部屋の中央には机だけでなく、王都の地図と流通経路を書き込んだ大きな板が置かれている。数人の文官が端に控えていたが、ルヴェリアが入るとディルハルトの一言で全員が下がった。
扉が閉まり、室内に二人きりの静けさが落ちる。
「昨日のうちに呼びつけて済まなかった」
ディルハルトがそう言った。
謝罪ではあるが、いかにもこの男らしい簡潔さだった。
「いいえ。急ぐべき件なのでしょう」
「その通りだ」
ディルハルトは机の上の箱を開けた。
中には金貨が数枚並んでいた。どれも一見したところでは、ごく普通の王国金貨だ。刻印も縁も、荒っぽい偽物には見えない。
「これが、回収された不審な金貨の一部だ」
ルヴェリアは手袋を外し、慎重に一枚を手に取った。
冷たい金属の感触。
色味は問題ない。刻印の甘さもほとんどない。だが――
「……軽い、ような」
思わず漏れた声に、ディルハルトの目が細くなる。
「君もそう感じるか」
「はい。ほんの僅かですけれど」
ルヴェリアは本物の金貨も差し出され、持ち比べてみる。
見た目はほぼ同じ。厚みもほぼ同じ。だが手のひらに乗せた時の感覚が、何か違う。言葉にするには曖昧で、けれど無視しがたい差だ。
「違和感の正体までは、まだ分からないわ」
「十分だ。違和感があるという報告は複数ある」
ディルハルトは机に手をつき、やや身を乗り出した。
「問題は、それをどう証明するかだ」
ルヴェリアは金貨を見つめたまま答える。
「見た目で判別できないのなら、素材そのものを調べるしかありません」
「鋳直して中を見ればいい、と?」
「それでは遅いですし、流通品をいちいち壊せません。もっと簡単で、傷めずに済む方法が必要です」
ディルハルトは興味深そうに彼女を見る。
「心当たりがあるのか」
ルヴェリアは少し考えてから言った。
「完全な確信はありません。ただ、職人たちが金属を扱う時、水に沈めた時の嵩と重さの差で素材の詰まり方を比べることがあります」
「……続けてくれ」
「同じ大きさでも、中身が違えば重さの出方は変わります。表面だけ整えてあっても、金そのものではないなら、どこかで本物との差が出るはずです」
ディルハルトは無言で彼女を見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「面白い」
またその言葉だった。
だがやはり、今度も軽くはない。
「王宮工房を使えるようにする。必要な職人も揃えよう」
「ありがとうございます」
ルヴェリアはそう答えたが、内心では少し驚いていた。
普通の王族なら、令嬢の思いつきとして笑い飛ばしてもおかしくない。だがディルハルトは違った。使える案なら、誰のものでも拾う。立場より中身を見る男なのだ。
「それから」
ディルハルトは王都の地図を指先でなぞった。
「君の昨日の話を受けて、市場監督官から改めて報告を取り寄せた。値上がりの強い地域と、不審な金貨の噂が多い地域が部分的に重なっている」
ルヴェリアも地図へ歩み寄る。
赤い印が打たれているのは、中央市場周辺、高級商店街、そして河岸の交易地区だった。
「……やはり」
「心当たりがある顔だな」
「高額品が動く場所と、流通量の多い場所が重なっています。ここで偽金が本物に紛れれば、見つかる前に広がるわ」
ディルハルトは頷く。
「つまり、単に成金が増えたのではなく、誰かが意図的に混ぜ込んでいる可能性があると」
「はい」
ルヴェリアは地図を見つめたまま続ける。
「しかも荒くばらまくのではなく、自然な流れに見せかけて入り込ませている。かなり慣れた手口です」
その時ふと、彼女の脳裏にゼルカインの顔が浮かんだ。
あの男は昔から、金をただ積み上げるのではなく、流れを握ることに価値を置いていた。
鉱山も、交易も、金融も、全部同じだと言っていたことがある。
金は持つより、流れを支配した者が勝つ。
その言葉を思い出し、ルヴェリアは無意識に眉を寄せた。
「どうした」
ディルハルトの声に、彼女ははっと我に返る。
「いえ……少し」
言いかけて、ルヴェリアは言葉を止めた。
まだ言えない。
ヴォルゼック伯爵家の名をここで出すには、証拠が足りない。婚約者だった男を疑っているとなれば、余計に慎重でなければならない。
その迷いを察したのか、ディルハルトは問い詰めなかった。
代わりに静かな声で言う。
「すぐに話せないことなら、今は無理に言わなくていい」
その一言に、ルヴェリアは意外そうに顔を上げた。
責めるでもなく、急かすでもない。
ただ、待つと言ったのだ。
「……ありがとうございます」
「だが、時機が来たら聞く。隠し事をされたままでは使えないからな」
少しだけ厳しさの混じる言い方だった。
それが妙に心地よかった。
甘やかさない。けれど頭ごなしにも否定しない。信頼と警戒を同時に置く、実務の人間の距離感だ。
ルヴェリアは小さく頷く。
「その時は、きちんとお話しします」
ディルハルトはそれで十分と判断したらしく、書類を一つ差し出した。
「これは王宮側でまとめた報告だ。君の記録と照らし合わせて、気づいたことがあれば書き込んで返してくれ」
「私が?」
「君はもう参考人ではない。こちらの調査に正式に加わってもらう」
ルヴェリアの視線が、自然とその書類へ落ちる。
それは単なる協力依頼ではなかった。王太子の調査に、彼女自身の名で加わるという意味だ。
婚約を奪われてから、周囲は彼女を見る時、どこか「敗れた側」の色を混ぜていた。
哀れみ、好奇心、面白半分の視線。
けれどディルハルトは違う。
いま彼の前での自分は、必要な人間として扱われている。
その事実が、思いのほかまっすぐ胸に届いた。
「……承知いたしました」
ディルハルトは短く頷いた。
「では、まずは金貨の検査だ。明日、工房へ」
「はい」
話はそこで終わるかと思ったが、ディルハルトはふと視線を柔らかくした。
「疲れてはいないか」
予想していなかった言葉に、ルヴェリアは瞬きをする。
「急な話でしたし、婚約解消の件もある。負担をかけている自覚はある」
それは同情ではなかった。
事実として、彼女の状況を理解している声だった。
だからルヴェリアも、変に身構えずに答えられた。
「疲れていないと言えば嘘になります」
「正直でいい」
「ですが、それ以上に気になることが目の前にありますので」
ディルハルトはほんの僅か、口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
けれど彼の表情が和らぐだけで、この人はこんな顔もできるのかと思うほど印象が変わる。
「なら、しばらくは休む暇もないな」
「そのようです」
ルヴェリアもほんの少しだけ笑った。
王宮を出る頃には、空気が少し変わっていた。
昨日よりも、はっきりと。
これはもう、王宮から意見を求められた令嬢の話ではない。
王国の異変を追う側に、自分は足を踏み入れたのだ。
馬車へ戻ると、待っていたエミリアが顔を上げた。
「いかがでしたか」
ルヴェリアは手元の書類を見下ろし、静かに答える。
「本格的に関わることになったわ」
「では……」
「ええ。もう後戻りはできない」
それでも不思議と、怖さばかりではなかった。
もちろん不安はある。相手がどこまで大きいのかも分からない。婚約を奪った義妹や、ヴォルゼック伯爵家に繋がる線が本当にあるなら、自分はかなり危うい場所に足を踏み入れている。
けれど同時に、奇妙なほど心は澄んでいた。
婚約を失った痛みの中で立ち尽くすだけだった数日前より、ずっと前を向いている。
ルヴェリアは膝の上の箱をそっと開いた。
中には、さっき手に取ったのと同種の不審な金貨が一枚、検査用として預けられていた。
陽の光を受けて、美しく光っている。
本物そっくりに。
けれど手に持てば、どこか違う。
「……あなたも、そういうことなのね」
小さく漏らした呟きに、エミリアが首を傾げる。
「何か」
「いいえ。ただ」
ルヴェリアは金貨を見つめたまま言った。
「見た目が整っているからといって、中身まで本物とは限らないのだと思っただけ」
誰のことを言っているのか、自分でも分かっていた。
義妹オルフィナ。
元婚約者ゼルカイン。
そして、きらびやかな富で王都を覆うヴォルゼック伯爵家。
そのどれもが、今の彼女には妙にこの金貨と重なって見えた。
明日、その違和感の正体を確かめる。
目に見えない歪みを、きちんと形にする。
ルヴェリアは箱を閉じ、静かに背筋を伸ばした。
本当の意味での再会は、たぶん婚約者だった男とではない。
自分の力を必要としてくれる場所と。
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