姉の婚約者を奪った義妹は、偽金まみれの恋と一緒に断罪されました

鷹 綾

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22話 姉の視線

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22話 姉の視線

保護施設の廊下は、王宮の執務棟とも、アストラーデ公爵家の回廊とも違う静けさを持っていた。

豪奢さがないぶん、余計なものが何もない。

ただ、隠すための静けさ。

守るためであり、同時に逃がさないための静けさでもある。

ルヴェリアは文官に案内され、その細い廊下をまっすぐ歩いていた。

一歩進むごとに、心が冷えていくのが自分でも分かった。

オルフィナが証言を始めたことは聞いている。

泣きながら、自分は騙されただけだと繰り返していることも。

けれど、いまから会いに行く理由は、慰めるためではなかった。

確かめるためだ。

あの義妹が、どこまで分かっていて、どこまでまだ自分を被害者だと思い込んでいるのかを。

「こちらです」

文官が立ち止まり、扉の前で一礼する。

「短時間でお願いいたします」

「分かっています」

ルヴェリアはそう答え、扉の前で一瞬だけ目を閉じた。

気持ちを整える必要があった。

怒っているわけではない。

泣きたいわけでもない。

ただ、情に引きずられたくなかった。

扉が静かに開かれる。

中は質素な小部屋だった。

白い壁、簡素な寝台、小さな机、水差し。

その寝台の端に、オルフィナが座っていた。

昨日よりひどい顔だった。

目元は赤く腫れ、髪はきちんと整えられていない。化粧のない顔は年相応に幼く見えるのに、その表情だけが妙に擦り切れていた。

ルヴェリアを見た瞬間、オルフィナの顔がぐしゃりと歪んだ。

「お姉様……!」

立ち上がりかけて、ふらつく。

ルヴェリアは助けようとしなかった。

ただ扉の内側に立ったまま、静かに言う。

「座っていなさい」

その声の温度に、オルフィナは一瞬で気づいたらしい。

甘えられる空気ではないのだと。

けれど、それでも縋るような目で見てくる。

「来てくださったのね……」

「話があるから来たのよ」

オルフィナの唇がわずかに震えた。

それでも、姉が自分を見捨てずに会いに来たという事実に、ほんの少し希望を抱いたのだろう。

その顔を見た瞬間、ルヴェリアは胸の奥に重いものを感じた。

昔からそうだった。

オルフィナは、自分に都合のいい希望を見つけるのだけは早い。

状況がどうであろうと、自分がまだ庇われる側に立てるかもしれないと思う。

その幼さが、今はたまらなく嫌だった。

ルヴェリアは部屋の中央まで進み、椅子にも座らずに言った。

「証言したそうね」

オルフィナはすぐに頷く。

「ええ……だって、私、殺されかけたのよ……? あんなの、あんまりだわ……」

そこまでは、ルヴェリアも否定しない。

実際、オルフィナは殺されかけた。

そのこと自体は事実だ。

だが、いま問題なのはそこだけではない。

「伯爵家の関与を話したのね」

「そうよ……! だって、私、何も知らなくて……」

その瞬間、ルヴェリアの視線が鋭くなった。

オルフィナははっとして口を閉ざす。

ルヴェリアはゆっくりと、一語ずつ置くように言った。

「その言い方はやめなさい」

「……え」

「何も知らなかった、なんて、もう言えないでしょう」

オルフィナの顔から、さっと血の気が引いた。

やはり文官たちは控えを見せたのだろう。

それでもまだ、姉の前では“可哀想な妹”の顔を作れば通ると思っていたらしい。

「お姉様、でも……」

「でも、何」

「私、怖かっただけなの」

その言葉に、ルヴェリアは一歩だけ近づいた。

オルフィナがびくりと肩を震わせる。

「怖かった」

ルヴェリアは繰り返す。

「ええ、そうでしょうね。怖かったのでしょう。でも、それで何もかもが消えると思わないで」

「そんな言い方……!」

「では、どう言えば満足するの」

オルフィナの目にまた涙が溜まる。

その様子を見ても、もうルヴェリアの心は動かなかった。

以前なら、泣く妹を前にして、どこかで言葉を選ぼうとしたかもしれない。

でも今は違う。

王都の市場で見た母親の顔。

パンを前に立ち尽くす子ども。

石鹸を削ろうとしていた老婦人。

その光景が、オルフィナの涙よりもずっと重く胸に残っている。

「あなたは知った」

ルヴェリアは低く言う。

「伯爵家の金がおかしいと、途中で知ったのよ」

「……」

「知ったうえで、やめなかった」

「私は、だって……」

「やめたくなかったのでしょう?」

オルフィナが息を呑む。

ルヴェリアは容赦しなかった。

「宝石を失いたくなかった。馬車を失いたくなかった。別邸も、香油も、見せびらかす夜会も、全部失いたくなかった。違う?」

「違うわ……!」

「違わない」

その一言は、あまりにもきっぱりしていた。

オルフィナはしばらく口をぱくぱくと動かしたが、反論の言葉は出てこない。

出るはずがない。

自分でも分かっているからだ。

ルヴェリアは机の上に置かれていた写しの一枚へ視線を落とした。

すでに文官が確認用として置いていたのだろう。

そこにはオルフィナの筆跡で、はっきりと書かれている。

“重さは気にしないから、見栄えのする方を先に”

ルヴェリアはその紙を取り上げ、オルフィナへ見せた。

「これはあなたの字ね」

オルフィナが青ざめる。

「お姉様、それは……」

「“重さは気にしない”」

ルヴェリアの声に感情はなかった。

それが逆に、ひどく冷たく響いた。

「何の重さか、分かっていたのでしょう」

「……」

「分かっていたのに、気にしないと言った」

オルフィナはとうとう顔を覆った。

「やめて……」

「やめないわ」

「お願いだから……」

「お願い?」

ルヴェリアはそこで初めて、ほんの少しだけ感情を滲ませた。

怒鳴るほどではない。

けれど、静かに張りつめた怒りだった。

「市場で、今日のパンを買えない人がいたの」

オルフィナの肩がぴくりと動く。

「石鹸が高くて困っている人も、油が買えなくて商売が回らない人もいた」

「……」

「その人たちに向かって、あなたは同じことが言えるの?」

部屋の中が凍りついたように静かになる。

オルフィナは顔を覆ったまま、何も言えない。

言えるはずがなかった。

ルヴェリアは続ける。

「あなたは知らなかったのではない。知って、選んだのよ」

その言葉は、もう疑いではなく断定だった。

オルフィナは泣きながら首を振る。

「でも、私だって、ゼルカイン様に……」

「そうね」

ルヴェリアは認めた。

「あなたは利用された。それは本当でしょう」

その一言に、オルフィナが少しだけ希望を見せる。

ルヴェリアはそれを見て、胸の奥に軽い嫌悪を覚えた。

やはりこの子は、まだそこへ逃げ込もうとするのだ。

自分は利用されたのだと。

だから全部許されるべきなのだと。

「でも」

ルヴェリアはそこで言葉を切った。

オルフィナの顔がこわばる。

「利用されたことと、喜んで手を貸したことは、別よ」

その希望を、きっぱりと断ち切るように。

オルフィナの瞳から大粒の涙が落ちた。

「そんな……そんなこと言わないで……」

「どうして?」

「だって、私、もう……」

「もう何」

「もう十分苦しいのに……!」

それは本音だった。

殺されかけ、切り捨てられ、保護施設へ押し込められた今のオルフィナにとって、これ以上責められるのは耐えがたかったのだろう。

けれど、ルヴェリアはそこで一歩も引かなかった。

「苦しいでしょうね」

静かな返答だった。

「でも、それであなたがやったことは消えないわ」

オルフィナは声を上げて泣いた。

子どものような泣き方だった。

自分が苦しいことしか、もう見えなくなっている泣き方。

その姿を見ながら、ルヴェリアは心のどこかで、本当に終わったのだと思った。

昔のように、この子を守らなければと思う自分はいない。

姉としての情が完全に死んだわけではない。

けれどその情は、真実を見誤るほど強くはない。

それでよかった。

「お姉様……」

泣きながら、オルフィナが手を伸ばしてくる。

「助けて……お願い……私、どうしたらいいの……」

ルヴェリアはその手を見下ろした。

細く、白く、まだ宝石の跡が指に残っている。

その指で、どれだけ気軽に贅沢を選び取ってきたのだろう。

「私に助けを求めるの?」

「だって、家族でしょう……?」

その言葉に、ルヴェリアは一瞬だけ目を閉じた。

家族。

都合のいい時だけ、その言葉を使う。

婚約者を奪った時も。

姉を見下した時も。

市場の混乱など“つまらない話”と言った時も。

その時には、家族であることを少しも大事にしなかったくせに。

ルヴェリアは目を開き、オルフィナを真っ直ぐ見た。

「家族だからこそ言うわ」

手は取らない。

そのまま、冷たく言葉だけを置いた。

「あなたは、知らずに巻き込まれたのではない」

オルフィナの顔が引きつる。

「知って、自分で選んで、そこにいたのよ」

「お姉様……」

「だから私は、あなたを“可哀想なだけの被害者”として庇わない」

その宣告は、オルフィナにとって何より残酷だったかもしれない。

王宮の文官に言われるより、姉に言われる方がずっと深く刺さる。

オルフィナはその場で崩れるように泣いた。

「そんなの嫌……」

「嫌でも、事実よ」

「お願い、見捨てないで……!」

「見捨てるかどうかの話ではないわ」

ルヴェリアの声は、最後まで揺れなかった。

「あなたがしたことから、私が目を逸らさないという話よ」

その瞬間、オルフィナはようやく悟ったのだろう。

姉はもう、自分を守るためには動かない。

泣いても、縋っても、昔のように庇ってはくれない。

完全に見放されたのだと。

その理解が、彼女の顔から最後の色を奪った。

ルヴェリアはそれを見ても、もう何も言わなかった。

言うべきことは言った。

慰めの言葉を残す気はなかった。

扉へ向かうと、背後からか細い声が落ちてくる。

「……お姉様は、冷たいわ」

ルヴェリアは立ち止まった。

振り返らずに答える。

「ええ」

そして少しだけ間を置き、静かに続けた。

「あなたが、あまりにも甘かったのよ」

扉を開ける。

廊下の空気は冷たくて、少しだけ息がしやすかった。

外にいた文官が顔を上げる。

「いかがでしたか」

ルヴェリアは表情を変えずに答えた。

「証言は続けさせてください」

「……はい」

「もう、自分を被害者だけだと思い込ませない方がいいわ」

文官は短く一礼した。

ルヴェリアはそのまま廊下を歩き出す。

足取りは乱れていない。

けれど胸の奥には、鈍い痛みが残っていた。

傷ついていないわけではない。

ただ、その痛みよりも、見誤らないことの方が大切だと知っているだけだ。

廊下の先には、ディルハルトが待っていた。

壁際に立ち、余計なことは何も聞かず、ただこちらを見る。

その視線に、ルヴェリアは少しだけ救われる。

「終わりました」

「そうか」

「ええ」

ディルハルトはそれ以上問わなかった。

代わりに、ただ短く言う。

「戻ろう」

ルヴェリアは頷いた。

隣に並んで歩きながら、ようやく心の中で一つだけ認める。

ああ、自分は本当に、あの子を見放したのだ、と。

けれどそれは冷酷だからではない。

あまりにも長く、オルフィナ自身が自分の欲を甘やかし続けた結果だ。

ルヴェリアは前を向いたまま、静かに思う。

もう戻れない。

でも、それでいい。
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