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21話 泣きながらの証言
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21話 泣きながらの証言
保護施設の朝は、驚くほど静かだった。
オルフィナはほとんど眠れないまま夜を明かした。
薄い毛布にくるまっても寒気は消えず、目を閉じれば、店先へ突っ込んできた荷馬車の車輪が何度もよみがえる。砕ける音。悲鳴。自分の腕を掴んだ見知らぬ男の手の強さ。あれがほんの少しずれていたら、今ごろ自分は血まみれで道に転がっていたかもしれない。
その想像だけで、胃の奥がきりきりと縮んだ。
朝になって運ばれてきたぬるい茶にも、ほとんど手をつけられなかった。
豪奢な私室ではない。香油の匂いもしない。窓辺に花もない。ただ、白い壁と質素な寝台、机、椅子だけがある。静かで、安全なはずなのに、オルフィナにはそこが棺桶のように思えた。
自分はもう、守られる側ではない。
そう思い知らされる場所だったからだ。
扉が叩かれたのは、昼前だった。
びくりと肩を震わせたオルフィナは、返事をするより先に毛布を握りしめた。
入ってきたのは昨日の文官と、もう一人。
王宮側の記録官らしい若い男だった。どちらも感情を表に出さない顔をしている。
「オルフィナ嬢」
昨日の文官が静かに言う。
「体調はいかがですか」
そんなことを聞かれても、とオルフィナは思った。
良いわけがない。
殺されかけた翌日に、何をどう答えればいいのか。
「……最悪ですわ」
掠れた声でそう言うと、文官はただ一度だけ頷いた。
「でしょうね」
慰めはない。
けれどそのぶっきらぼうさが、かえっていまのオルフィナにはましだった。
やさしい言葉を向けられたら、かえって泣き崩れてしまいそうだったからだ。
文官は机の前の椅子を引いた。
「お話を伺いたい」
それを聞いた瞬間、オルフィナの喉がきゅっと縮んだ。
来ると思っていた。
こうなることは分かっていた。
自分がここへ匿われたのは、ただ守るためではない。知っていることを吐かせるためだ。
「……嫌よ」
思わず漏れた拒絶に、若い記録官が視線を上げる。
文官は表情を変えなかった。
「何がですか」
「そんなの、私を利用するつもりでしょう」
自分で言っていて、みじめだと思った。
つい昨日まで、自分は利用する側だと、少なくとも勝つ側にいると思っていたのに。いまや誰の前でも、自分が何に使われるのかを怯えている。
文官は静かに答える。
「利用ではありません。確認です」
「同じことですわ」
「違います。あなたは昨夜、殺されかけた」
オルフィナの肩がこわばる。
文官は続けた。
「その理由に心当たりがあるなら、それを話していただきたい」
部屋の空気が重く沈む。
オルフィナは膝の上で指を絡めた。
言えば終わる。
全部。
ゼルカインとのことも、伯爵家のことも、自分が見たものも、知ってしまったことも。
けれど、言わなければどうなるのか。
また殺されるのではないか。
それとも、ここから放り出されるのか。
不安と恐怖と屈辱が入り混じり、胸の中がぐちゃぐちゃだった。
「……私、騙されていたの」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱かった。
文官も記録官も何も言わない。
ただ続きを待っている。
その沈黙が耐えられなくて、オルフィナは早口になった。
「私、何も知らなかったのよ。最初はただ、ゼルカイン様が優しくて、色々贈ってくださって、それで……」
言いながら、自分でその言葉の薄さが分かる。
最初はそうだった。
でも今はもう、それだけではない。
けれど認めたくなくて、オルフィナはさらに続けた。
「少し変だと思ったことはあったけれど、でも、まさかこんな……こんな恐ろしいことになっているなんて思わなかったの」
文官が初めて口を挟む。
「少し変だと思ったのは、いつ頃ですか」
問いがあまりに具体的で、オルフィナは一瞬言葉を失った。
いつ頃。
そんなの、あの日だ。
奥の廊下で、あの部屋を覗いた時。
机の上の金貨と、型と、薬液を見た時。
ゼルカインの冷たい声を聞いた時。
そこまで思い出してしまった途端、目の奥が熱くなった。
「……その……」
「覚えていませんか」
「覚えているわ!」
思わず大きな声が出た。
すぐに自分で驚く。
文官は表情ひとつ変えない。
「では、話してください」
逃げ道のない言い方だった。
オルフィナは唇を噛み、うつむいた。
どうしてこんなことに。
どうして自分が、こんな惨めに泣きながら話さなければならないの。
悪いのは伯爵家だ。
ゼルカインだ。
自分をこんな立場にしたのは、全部向こうなのに。
その思いが、逆に彼女の口を軽くした。
「……見てしまったのよ」
かすれた声で言う。
「伯爵家の奥で。金貨と、変な型と、薬みたいなものを。話も聞いたわ。私が使いすぎるとか、目立ちすぎるとか……」
記録官の羽根ペンが紙を走る音がする。
それがいやに耳についた。
「それは、どなたの会話でしたか」
「ゼルカイン様と、知らない男たち」
「内容は」
「王宮がどうとか、景気がいいと思わせるとか……」
そこでオルフィナははっとして口をつぐんだ。
言いすぎた、と一瞬思う。
だがもう遅い。
記録官は全部書いている。
文官はそのわずかな逡巡さえ見逃さなかった。
「そこで、あなたは伯爵家が不正な金を扱っていると理解したのですね」
「……」
「違いますか」
オルフィナの目から、ぽろりと涙が落ちた。
違わない。
違わないけれど、はいと答えたくなかった。
それでは、自分が“知ったうえで黙っていた”ことになる。
「私は……怖かっただけよ」
「怖かった」
「そうよ!」
オルフィナは顔を上げ、涙に濡れたまま訴える。
「だって、あんなもの見せられて、どうすればよかったの!? ゼルカイン様に逆らったらどうなるか分からなかったの! 私だって怖かったのよ!」
文官は静かに聞いている。
その静けさに焦れて、オルフィナはさらに言葉を重ねた。
「それに、私はただ……言われた通りに、贈られたものを受け取って、使っていただけで……!」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
文官の目が、初めてわずかに冷たくなる。
「言われた通り、ですか」
「え、ええ」
「では、これもですか」
文官は懐から一枚の紙を取り出した。
見覚えのある紙だった。
オルフィナの顔から、さっと血の気が引く。
自分の筆跡。
香油商への追加注文控え。
そして隅に書き込んだあの言葉。
“前のより明るく見えるものを。中身より見た目が大事ですもの”
「……どうしてそれを」
「質問しているのはこちらです」
文官の声は平坦だった。
「あなたは言われた通りに動いただけだと主張した。ではこの筆跡は何ですか」
オルフィナは息を呑む。
記録官のペン先が止まったまま、こちらを見ている。
逃げられない。
「それは……」
「“前の袋と同じでお願い”とも書いている」
二枚目。
さらに三枚目。
オルフィナの自筆の控えが、机の上に一枚ずつ置かれていく。
そのたびに、彼女の中で何かが崩れていった。
「重さは気にしない、誰も見ない、見栄えのする方を先に。これは脅されて書いた文面ですか」
「ち、違うの……」
「違う?」
「私、そんなつもりじゃ」
「では、どういうつもりでした」
問い詰める口調ではなかった。
むしろ淡々としている。
だからこそ、その言葉は逃げ場なくオルフィナへ刺さった。
どういうつもり。
そんなの決まっている。
綺麗に見せたかったのだ。
皆に羨ましがられたかった。
姉より上だと見せつけたかった。
それを認めたくなくて、オルフィナは顔を覆った。
「……っ、私は……」
涙が次々に落ちる。
みっともないと分かっている。
けれど、もう取り繕うだけの余裕がなかった。
「私は、ただ……もっと、持っていたかったの……」
それは告白だった。
醜くて、小さくて、でも本物の。
文官は短く息を吐いた。
軽蔑とも同情ともつかない、乾いた呼吸だった。
「つまり、知らなかったのではなく、知ったあとも利益を手放さなかった」
「違う……違わない、けど……」
「どちらですか」
「……」
オルフィナは答えられなかった。
答えたくないのに、答えはもう自分の中にある。
知っていた。
怖かった。
でも、やめなかった。
金が欲しかったから。
華やかさを失いたくなかったから。
姉に勝ったままでいたかったから。
その沈黙が、何より雄弁だった。
文官はそこで追及を止めた。
代わりに、少しだけ声の調子を変える。
「あなたが被害者である部分はあります」
オルフィナが顔を上げる。
「……本当?」
その問いは、あまりにも哀れだった。
何か一つでいいから、自分に救いがあると言ってほしかったのだろう。
だが文官はすぐに続けた。
「昨夜殺されかけた件については、そうです」
その言葉に、オルフィナの目が大きく揺れた。
「ですが」
文官の声は変わらない。
「偽金の流通に関してまで、あなたが完全な被害者だとは見なせません」
一瞬、呼吸が止まる。
それから、オルフィナはぶるぶると首を振った。
「そんな……そんな言い方……」
「事実です」
「私は利用されただけなのに!」
「利用された」
文官は繰り返す。
「はい。あなたは利用された」
その言葉に、オルフィナの中で小さく希望が灯る。
やはりそうだ。
やっぱり自分は被害者なのだ。
そう縋りつこうとした次の瞬間、文官は容赦なく言った。
「しかし同時に、あなたはその利用を喜んで受け入れていた」
希望が、音もなく潰れた。
オルフィナは口を開けたまま固まり、それから泣き出した。
最初は嗚咽を堪えようとした。
でも無理だった。
肩が震え、息が乱れ、醜い泣き声が部屋に広がる。
文官も記録官も何も言わない。
慰める者は誰もいない。
そのことが、いっそうオルフィナを惨めにした。
しばらくして、ようやく泣き声が少し落ち着いた頃、文官は静かに言った。
「伯爵家と偽造ギルドについて、知っていることをすべて話していただきます」
オルフィナは涙で濡れた顔を上げた。
「……話したら、助けてくださるの?」
文官は少しだけ間を置いた。
その間が、ひどく長く感じられた。
「あなたの身柄は、引き続き保護されます」
それは答えではあっても、欲しい答えではなかった。
助かるとは言わない。
罪が消えるとも言わない。
ただ、今すぐ殺されることはないと告げただけだ。
オルフィナはその事実に、またじわじわと涙をこぼした。
それでも、もう話すしかなかった。
伯爵家のこと。
ゼルカインが見せた冷たい顔。
夜会の招待客。
奥の部屋で見たもの。
自分が頼んだ品々。
気づいた違和感。
それを、見ないふりしていたこと。
全部。
一方その頃、別室ではディルハルトとルヴェリアが簡潔な報告を受けていた。
「泣きながらですが、話し始めています」
文官の補佐がそう告げる。
「ただし一貫して、“自分は騙されていただけ”と主張しています」
ルヴェリアは目を閉じた。
想像通りだった。
そう言うだろうと思っていた。
そして伯爵家側もまた、そこを逆手に取るだろうとも。
「控えは見せたのですね」
「はい。かなり動揺しています」
ディルハルトが短く問う。
「積極的に使っていた件は」
「否定しきれていません」
「そうか」
そこで報告は終わった。
文官が下がり、部屋に静けさが戻る。
ルヴェリアは窓の外を見た。
保護された義妹は泣いている。
伯爵家に切り捨てられ、ようやく自分が何だったのかを知ったのだろう。
哀れだとは思う。
けれど、それだけでは済まない。
市場で困っていた人たちの顔が、ルヴェリアの中ではそれ以上に重かった。
「……やはり」
ディルハルトが視線を向ける。
「何だ」
「泣けば済むと思っているのですね、あの子は」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
ディルハルトは否定しない。
ただ静かに言う。
「泣きたくもなるだろう。だが、それと罪は別だ」
ルヴェリアはゆっくり頷いた。
「ええ」
それだけだった。
姉としての情が消えたわけではない。
だが、それを理由にして見誤るつもりも、もうなかった。
オルフィナは殺されかけた。
その点では確かに被害者だ。
けれど、その前に彼女は、自分の欲のために偽金の流れへ手を伸ばした。
両方とも本当なのだ。
その両方を、これから裁かなければならない。
ルヴェリアは静かに目を伏せた。
泣きながら話している義妹の声は聞こえない。
それでも、すぐ近くにいる気配だけは伝わってくる。
近いのに、もう昔のようには届かない。
その距離を感じながら、ルヴェリアは心の中でただ一つだけ思った。
――もう、あなたの涙では動かないわ。
保護施設の朝は、驚くほど静かだった。
オルフィナはほとんど眠れないまま夜を明かした。
薄い毛布にくるまっても寒気は消えず、目を閉じれば、店先へ突っ込んできた荷馬車の車輪が何度もよみがえる。砕ける音。悲鳴。自分の腕を掴んだ見知らぬ男の手の強さ。あれがほんの少しずれていたら、今ごろ自分は血まみれで道に転がっていたかもしれない。
その想像だけで、胃の奥がきりきりと縮んだ。
朝になって運ばれてきたぬるい茶にも、ほとんど手をつけられなかった。
豪奢な私室ではない。香油の匂いもしない。窓辺に花もない。ただ、白い壁と質素な寝台、机、椅子だけがある。静かで、安全なはずなのに、オルフィナにはそこが棺桶のように思えた。
自分はもう、守られる側ではない。
そう思い知らされる場所だったからだ。
扉が叩かれたのは、昼前だった。
びくりと肩を震わせたオルフィナは、返事をするより先に毛布を握りしめた。
入ってきたのは昨日の文官と、もう一人。
王宮側の記録官らしい若い男だった。どちらも感情を表に出さない顔をしている。
「オルフィナ嬢」
昨日の文官が静かに言う。
「体調はいかがですか」
そんなことを聞かれても、とオルフィナは思った。
良いわけがない。
殺されかけた翌日に、何をどう答えればいいのか。
「……最悪ですわ」
掠れた声でそう言うと、文官はただ一度だけ頷いた。
「でしょうね」
慰めはない。
けれどそのぶっきらぼうさが、かえっていまのオルフィナにはましだった。
やさしい言葉を向けられたら、かえって泣き崩れてしまいそうだったからだ。
文官は机の前の椅子を引いた。
「お話を伺いたい」
それを聞いた瞬間、オルフィナの喉がきゅっと縮んだ。
来ると思っていた。
こうなることは分かっていた。
自分がここへ匿われたのは、ただ守るためではない。知っていることを吐かせるためだ。
「……嫌よ」
思わず漏れた拒絶に、若い記録官が視線を上げる。
文官は表情を変えなかった。
「何がですか」
「そんなの、私を利用するつもりでしょう」
自分で言っていて、みじめだと思った。
つい昨日まで、自分は利用する側だと、少なくとも勝つ側にいると思っていたのに。いまや誰の前でも、自分が何に使われるのかを怯えている。
文官は静かに答える。
「利用ではありません。確認です」
「同じことですわ」
「違います。あなたは昨夜、殺されかけた」
オルフィナの肩がこわばる。
文官は続けた。
「その理由に心当たりがあるなら、それを話していただきたい」
部屋の空気が重く沈む。
オルフィナは膝の上で指を絡めた。
言えば終わる。
全部。
ゼルカインとのことも、伯爵家のことも、自分が見たものも、知ってしまったことも。
けれど、言わなければどうなるのか。
また殺されるのではないか。
それとも、ここから放り出されるのか。
不安と恐怖と屈辱が入り混じり、胸の中がぐちゃぐちゃだった。
「……私、騙されていたの」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱かった。
文官も記録官も何も言わない。
ただ続きを待っている。
その沈黙が耐えられなくて、オルフィナは早口になった。
「私、何も知らなかったのよ。最初はただ、ゼルカイン様が優しくて、色々贈ってくださって、それで……」
言いながら、自分でその言葉の薄さが分かる。
最初はそうだった。
でも今はもう、それだけではない。
けれど認めたくなくて、オルフィナはさらに続けた。
「少し変だと思ったことはあったけれど、でも、まさかこんな……こんな恐ろしいことになっているなんて思わなかったの」
文官が初めて口を挟む。
「少し変だと思ったのは、いつ頃ですか」
問いがあまりに具体的で、オルフィナは一瞬言葉を失った。
いつ頃。
そんなの、あの日だ。
奥の廊下で、あの部屋を覗いた時。
机の上の金貨と、型と、薬液を見た時。
ゼルカインの冷たい声を聞いた時。
そこまで思い出してしまった途端、目の奥が熱くなった。
「……その……」
「覚えていませんか」
「覚えているわ!」
思わず大きな声が出た。
すぐに自分で驚く。
文官は表情ひとつ変えない。
「では、話してください」
逃げ道のない言い方だった。
オルフィナは唇を噛み、うつむいた。
どうしてこんなことに。
どうして自分が、こんな惨めに泣きながら話さなければならないの。
悪いのは伯爵家だ。
ゼルカインだ。
自分をこんな立場にしたのは、全部向こうなのに。
その思いが、逆に彼女の口を軽くした。
「……見てしまったのよ」
かすれた声で言う。
「伯爵家の奥で。金貨と、変な型と、薬みたいなものを。話も聞いたわ。私が使いすぎるとか、目立ちすぎるとか……」
記録官の羽根ペンが紙を走る音がする。
それがいやに耳についた。
「それは、どなたの会話でしたか」
「ゼルカイン様と、知らない男たち」
「内容は」
「王宮がどうとか、景気がいいと思わせるとか……」
そこでオルフィナははっとして口をつぐんだ。
言いすぎた、と一瞬思う。
だがもう遅い。
記録官は全部書いている。
文官はそのわずかな逡巡さえ見逃さなかった。
「そこで、あなたは伯爵家が不正な金を扱っていると理解したのですね」
「……」
「違いますか」
オルフィナの目から、ぽろりと涙が落ちた。
違わない。
違わないけれど、はいと答えたくなかった。
それでは、自分が“知ったうえで黙っていた”ことになる。
「私は……怖かっただけよ」
「怖かった」
「そうよ!」
オルフィナは顔を上げ、涙に濡れたまま訴える。
「だって、あんなもの見せられて、どうすればよかったの!? ゼルカイン様に逆らったらどうなるか分からなかったの! 私だって怖かったのよ!」
文官は静かに聞いている。
その静けさに焦れて、オルフィナはさらに言葉を重ねた。
「それに、私はただ……言われた通りに、贈られたものを受け取って、使っていただけで……!」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
文官の目が、初めてわずかに冷たくなる。
「言われた通り、ですか」
「え、ええ」
「では、これもですか」
文官は懐から一枚の紙を取り出した。
見覚えのある紙だった。
オルフィナの顔から、さっと血の気が引く。
自分の筆跡。
香油商への追加注文控え。
そして隅に書き込んだあの言葉。
“前のより明るく見えるものを。中身より見た目が大事ですもの”
「……どうしてそれを」
「質問しているのはこちらです」
文官の声は平坦だった。
「あなたは言われた通りに動いただけだと主張した。ではこの筆跡は何ですか」
オルフィナは息を呑む。
記録官のペン先が止まったまま、こちらを見ている。
逃げられない。
「それは……」
「“前の袋と同じでお願い”とも書いている」
二枚目。
さらに三枚目。
オルフィナの自筆の控えが、机の上に一枚ずつ置かれていく。
そのたびに、彼女の中で何かが崩れていった。
「重さは気にしない、誰も見ない、見栄えのする方を先に。これは脅されて書いた文面ですか」
「ち、違うの……」
「違う?」
「私、そんなつもりじゃ」
「では、どういうつもりでした」
問い詰める口調ではなかった。
むしろ淡々としている。
だからこそ、その言葉は逃げ場なくオルフィナへ刺さった。
どういうつもり。
そんなの決まっている。
綺麗に見せたかったのだ。
皆に羨ましがられたかった。
姉より上だと見せつけたかった。
それを認めたくなくて、オルフィナは顔を覆った。
「……っ、私は……」
涙が次々に落ちる。
みっともないと分かっている。
けれど、もう取り繕うだけの余裕がなかった。
「私は、ただ……もっと、持っていたかったの……」
それは告白だった。
醜くて、小さくて、でも本物の。
文官は短く息を吐いた。
軽蔑とも同情ともつかない、乾いた呼吸だった。
「つまり、知らなかったのではなく、知ったあとも利益を手放さなかった」
「違う……違わない、けど……」
「どちらですか」
「……」
オルフィナは答えられなかった。
答えたくないのに、答えはもう自分の中にある。
知っていた。
怖かった。
でも、やめなかった。
金が欲しかったから。
華やかさを失いたくなかったから。
姉に勝ったままでいたかったから。
その沈黙が、何より雄弁だった。
文官はそこで追及を止めた。
代わりに、少しだけ声の調子を変える。
「あなたが被害者である部分はあります」
オルフィナが顔を上げる。
「……本当?」
その問いは、あまりにも哀れだった。
何か一つでいいから、自分に救いがあると言ってほしかったのだろう。
だが文官はすぐに続けた。
「昨夜殺されかけた件については、そうです」
その言葉に、オルフィナの目が大きく揺れた。
「ですが」
文官の声は変わらない。
「偽金の流通に関してまで、あなたが完全な被害者だとは見なせません」
一瞬、呼吸が止まる。
それから、オルフィナはぶるぶると首を振った。
「そんな……そんな言い方……」
「事実です」
「私は利用されただけなのに!」
「利用された」
文官は繰り返す。
「はい。あなたは利用された」
その言葉に、オルフィナの中で小さく希望が灯る。
やはりそうだ。
やっぱり自分は被害者なのだ。
そう縋りつこうとした次の瞬間、文官は容赦なく言った。
「しかし同時に、あなたはその利用を喜んで受け入れていた」
希望が、音もなく潰れた。
オルフィナは口を開けたまま固まり、それから泣き出した。
最初は嗚咽を堪えようとした。
でも無理だった。
肩が震え、息が乱れ、醜い泣き声が部屋に広がる。
文官も記録官も何も言わない。
慰める者は誰もいない。
そのことが、いっそうオルフィナを惨めにした。
しばらくして、ようやく泣き声が少し落ち着いた頃、文官は静かに言った。
「伯爵家と偽造ギルドについて、知っていることをすべて話していただきます」
オルフィナは涙で濡れた顔を上げた。
「……話したら、助けてくださるの?」
文官は少しだけ間を置いた。
その間が、ひどく長く感じられた。
「あなたの身柄は、引き続き保護されます」
それは答えではあっても、欲しい答えではなかった。
助かるとは言わない。
罪が消えるとも言わない。
ただ、今すぐ殺されることはないと告げただけだ。
オルフィナはその事実に、またじわじわと涙をこぼした。
それでも、もう話すしかなかった。
伯爵家のこと。
ゼルカインが見せた冷たい顔。
夜会の招待客。
奥の部屋で見たもの。
自分が頼んだ品々。
気づいた違和感。
それを、見ないふりしていたこと。
全部。
一方その頃、別室ではディルハルトとルヴェリアが簡潔な報告を受けていた。
「泣きながらですが、話し始めています」
文官の補佐がそう告げる。
「ただし一貫して、“自分は騙されていただけ”と主張しています」
ルヴェリアは目を閉じた。
想像通りだった。
そう言うだろうと思っていた。
そして伯爵家側もまた、そこを逆手に取るだろうとも。
「控えは見せたのですね」
「はい。かなり動揺しています」
ディルハルトが短く問う。
「積極的に使っていた件は」
「否定しきれていません」
「そうか」
そこで報告は終わった。
文官が下がり、部屋に静けさが戻る。
ルヴェリアは窓の外を見た。
保護された義妹は泣いている。
伯爵家に切り捨てられ、ようやく自分が何だったのかを知ったのだろう。
哀れだとは思う。
けれど、それだけでは済まない。
市場で困っていた人たちの顔が、ルヴェリアの中ではそれ以上に重かった。
「……やはり」
ディルハルトが視線を向ける。
「何だ」
「泣けば済むと思っているのですね、あの子は」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
ディルハルトは否定しない。
ただ静かに言う。
「泣きたくもなるだろう。だが、それと罪は別だ」
ルヴェリアはゆっくり頷いた。
「ええ」
それだけだった。
姉としての情が消えたわけではない。
だが、それを理由にして見誤るつもりも、もうなかった。
オルフィナは殺されかけた。
その点では確かに被害者だ。
けれど、その前に彼女は、自分の欲のために偽金の流れへ手を伸ばした。
両方とも本当なのだ。
その両方を、これから裁かなければならない。
ルヴェリアは静かに目を伏せた。
泣きながら話している義妹の声は聞こえない。
それでも、すぐ近くにいる気配だけは伝わってくる。
近いのに、もう昔のようには届かない。
その距離を感じながら、ルヴェリアは心の中でただ一つだけ思った。
――もう、あなたの涙では動かないわ。
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婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
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王家までも巻き込んだその作戦とは……。
他サイトでも掲載中です。
コメントありがとうございます。
タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。
必ず完結させますので、よろしくお願いします。
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