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第一話 慈善晩餐会の壇上で
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第一話 慈善晩餐会の壇上で
王立劇場の大広間は、今夜に限って芝居小屋よりも芝居じみていた。
天井から落ちる黄金色のシャンデリアの光。磨き上げられた床に映る、宝石と絹と笑顔。王都でも名の知れた貴族たちが、慈善晩餐会という立派な名目のもと、食事と噂話と品定めに余念がない。
壇上には王家への寄付を讃える花々が飾られ、音楽家たちが柔らかな旋律を奏でている。
見目は華やかだ。実に美しい。
けれどサビーネ・ドルレアンには、この夜が妙に息苦しかった。
胸元を締めるコルセットのせいではない。侯爵令嬢としてこうした席には慣れている。視線を集めることも、笑顔の裏で値踏みされることも、今さら息が詰まる理由にはならない。
なのに、今夜は違った。
誰かが、舞台袖で幕が上がるのを待っている。
そんな嫌な予感が、ずっと消えない。
「お顔色がよろしくありません」
背後から低く落ち着いた声がした。
振り返れば、侍女のマルゴが涼しい顔で立っている。栗色の髪をきっちり結い上げた彼女は、主人の顔色を読むことにかけては名医より正確だ。
「少し疲れただけよ」
「そうおっしゃる時は、たいてい少しではありません」
「あなた、最近ますます遠慮がなくなっていないかしら」
「主の異変を見て見ぬふりをするほど、出世を諦めてはおりませんので」
さらりと言って、マルゴはサビーネのドレスの裾を整えた。
こういう時、彼女は慰めるより先に現実的なことをする。だからこそ助かることもある。
サビーネは小さく息を吐いた。
「……セドリック殿下は?」
「先ほどまで男爵令嬢メルヴィ様とお話しされていました」
やはり、と胸の奥で冷たいものが広がる。
オディール・メルヴィ。
ここ最近、第二王子セドリックのそばで見かけることが増えた令嬢だ。守ってあげたくなるような顔立ちに、頼りなげな声、少し目を潤ませれば大抵の男が機嫌よく話を聞く。
そして何より、彼女は人前で泣くのがうまい。
サビーネは一度だけ、オディールが誰も見ていないところで鏡に向かって涙の角度を確かめているのを見たことがある。
あれは偶然だった。けれど偶然で十分だった。
サビーネは、自分の婚約者がそういう娘を好みそうなことも知っていた。
「呼ばれたらすぐに動けるようにしておいて」
「嫌な予感が当たりそうですか」
「ええ。たぶん、ろくでもない方向で」
マルゴは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「でしたら、転ぶにしても前にお進みくださいませ。後ろ向きに倒れるとドレスが傷みます」
「あなた、主人に対して優しいのか厳しいのか、たまにわからなくなるわ」
「両方です」
言い切る声に迷いはない。
その時、楽団の演奏が不自然に止まった。
ざわめきが、大広間の中央に向かって吸い寄せられていく。
人々が視線を向けた先――壇上へ上がったのは、セドリック第二王子だった。
青銀の礼装に身を包み、明るい金髪を夜会用に整えたその姿は、たしかに人目を引く。彼は華やかな場所によく似合う。子どもの頃からそうだった。笑えば人が寄ってきて、手を振れば周囲が沸く。
王に向くかはともかく、舞台の主役には向いている。
その隣に、淡い桃色のドレスの令嬢が立った。
オディール・メルヴィだ。
会場が一段とざわついた。
嫌な予感が、確信に変わる。
「お嬢様」
マルゴが一歩前に出ようとしたのを、サビーネはそっと手で制した。
「大丈夫よ」
嘘だった。
大丈夫なはずがない。
けれどここで侍女にすがれば、もうその時点で負けたようなものだ。
セドリックはわざとらしいほどよく通る声で言った。
「皆の者、本日はよく集まってくれた」
晩餐会の主催者でもないくせに、まるで自分の舞台のような口ぶりだ。だが誰も咎めない。王族というだけで、場の空気は簡単に塗り替えられる。
「この慈善晩餐会という、真実と誠意が求められる席において、私は皆に告げなければならないことがある」
真実。誠意。
その言葉だけで笑ってしまいそうになる。
だが笑えば、きっと悪女の証拠にされる。
サビーネは無表情を保ったまま、壇上を見つめた。
「私は本日、この場をもってサビーネ・ドルレアンとの婚約を解消する!」
広間の空気が、はっきりと揺れた。
息をのむ音。扇を落とす音。興奮を隠しきれないざわめき。
ああ、と思う。
やはりこれだったのか、と。
しかも、よりにもよって慈善晩餐会で。王立劇場の壇上で。観客を前にした舞台の上で。
悪趣味にもほどがある。
「殿下……!」
すぐさまオディールが、震える声を上げた。
震えているわりに、声はよく響いた。
「や、やはりこのようなことは……サビーネ様が、おかわいそうです……」
言葉とは裏腹に、会場の注目が自分に集まる角度をよく知っている顔だった。
セドリックが彼女をかばうように前へ出る。
「オディール、心優しいお前はそう言うだろう。だが私は、真実から目を背けるわけにはいかない」
できあがっている。
台詞も流れも、全部。
サビーネの背筋に、ぞくりと悪寒が走った。
これは衝動的な婚約破棄ではない。前もって準備された“公開断罪劇”だ。
泣く役、庇う役、責められる役。
配役はもう決まっている。
「サビーネ・ドルレアン」
壇上から名を呼ばれ、いくつもの視線が一斉に突き刺さる。
逃げ場はない。
「前へ」
命令だった。
招待ではなく。
サビーネは一瞬だけ目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
ここで震えてはいけない。足元を見てはいけない。裾を踏まないように、背筋を伸ばして歩く。侯爵家の娘として叩き込まれた所作が、こんな場面で役に立つとは皮肉だ。
人垣が自然に割れていく。
壇上までの道のりが、やけに長く感じられた。
好奇心、同情、嘲笑、期待。
さまざまな感情を含んだ視線が肌に刺さる。どれも温かくはない。
壇上へ上がったサビーネは、セドリックから数歩離れた場所で立ち止まった。
「ずいぶん急なお話ですのね、殿下」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
それが気に障ったのか、セドリックの眉がわずかに動く。
「急ではない。むしろ遅すぎたくらいだ」
「遅すぎた、とは?」
「お前の冷酷さと傲慢さを知りながら、私はこれまで耐えてきたのだ」
広間がどよめく。
なんて言いやすい言葉だろう。
冷酷。傲慢。高位貴族の令嬢に向ければ、たちまちそれらしく聞こえる便利な言葉。
「オディールを執拗に侮辱し、社交の場で孤立させ、さらにはこの晩餐会からも排除しようとした。私はそのような悪意に満ちた女性を、もはや婚約者として認めることはできない!」
言い切った瞬間、会場のあちこちで小さな興奮がはじけた。
誰かが息をのんだ。
誰かが扇の陰で笑った。
誰かが「まあ」と囁いた。
そしてオディールが、待っていましたと言わんばかりに目尻を押さえる。
「サビーネ様を責めないでください……! わたくしが至らないから……」
ずいぶん便利な至らなさだ。
言うたびに相手の評価だけが落ち、自分の可憐さは増していく。
サビーネはふと、自分の中の何かがすうっと冷えていくのを感じた。
傷ついていないわけではない。
悔しくないわけでもない。
胸の奥は、たしかに焼けるように熱い。
けれどそれ以上に、頭の芯が冷えていく。
ああ、なるほど。
この人たちは、私に泣いてほしいのだ。
みっともなく取り乱してほしいのだ。
そうすれば「感情的な女」「やはり怖い女」として、この茶番は綺麗に完成する。
サビーネはゆっくりと息を吸った。
その時、客席の少し後ろ、柱の影に立つ一人の男が目に入った。
地味な濃灰色の礼装。飾り気のない立ち姿。だが妙に目を引く。
知らない顔だった。
貴族の男たちがするような面白がる表情も、王族に媚びる色もない。ただ静かに、この舞台全体を観察している。
まるで芝居の出来を見定める審査員のように。
その視線と一瞬だけぶつかり、サビーネは不思議と呼吸を取り戻した。
大丈夫。
少なくとも、ここには一人くらい、泣き顔を期待していない人間がいる。
「……殿下」
サビーネは口を開いた。
「なんだ。ようやく弁明をする気になったか」
「いいえ」
セドリックがわずかに顎を上げる。
会場もまた、次の台詞を待っている。
サビーネは自分でも驚くほど穏やかに微笑んだ。
「弁明する必要があるとは思っておりませんの」
「なに?」
「ただ、少し感心してしまいましたわ」
「感心、だと?」
「ええ。慈善晩餐会を、ここまで下品な見世物に変えられる方は、そう多くありませんもの」
一拍遅れて、広間の空気が凍った。
セドリックの顔が引きつる。
オディールの目が見開かれる。
誰もが、サビーネが泣くか謝るか怒鳴るか、そのどれかだと思っていたのだろう。
だが彼女はどれも選ばなかった。
静かに、しかしはっきりと、この舞台そのものを侮辱した。
「さ、サビーネ様……!」
オディールが悲鳴めいた声を上げる。
「そのような言い方……!」
「違うかしら?」
サビーネは彼女を見た。
「慈善の名で人を集め、食事と音楽のあとに婚約破棄を披露する。まるで三流喜劇ですわ。せめて脚本がもう少しましなら、拍手のひとつもできましたのに」
客席のあちこちで、息を呑む音が重なった。
セドリックが一歩前へ出る。
「貴様、自分の立場がわかっているのか!」
「ええ。壇上に引き出され、悪役を演じさせられている立場ですわね」
「ならば――」
「ですが」
サビーネは彼の言葉を、初めて遮った。
これまで一度もしたことのない無礼だった。
だからこそ、よく響いた。
「舞台に上げた以上、わたくしにも台詞を選ぶ権利くらいはございますでしょう?」
ざわめきが、今度は明確な形をもって広がっていく。
面白がるざわめきではない。
思っていた筋書きと違うものが始まった時のざわめきだ。
サビーネは会場を見渡した。
ここにいる全員が観客だ。味方ではない。けれど敵とも限らない。
人は正義ではなく、勝ちそうな方へ傾く。
ならば、傾かせればいい。
「殿下が婚約解消をお望みでしたら、それ自体は結構ですの」
その言葉に、セドリックの顔に一瞬だけ安堵が浮かんだ。
早い。あまりにも早い。
だからこの男は愚かなのだ。
「ですが公の場でなさる以上、理由も精算も公であるべきですわね」
安堵は一瞬で消えた。
「……精算、だと?」
「ええ」
サビーネはにこやかに答える。
「婚約者としてこれまでわたくしが代筆した謝罪状、調整した招待客名簿、秘かに処理してまいりましたご請求の数々――ああ、どれから申し上げましょうか。せっかくの舞台ですもの。皆様も、最後までご覧になりたいでしょう?」
広間が、静まり返った。
今度こそ、本当の沈黙だった。
セドリックの顔色が目に見えて変わる。
オディールの涙がぴたりと止まる。
そして客席の柱の影にいたあの地味な男が、わずかに目を細めた。
面白がったのではない。
確認したのだ。
この女は立つ、と。
サビーネは胸の奥で震える膝を押さえ込みながら、さらに微笑みを深めた。
「それほど皆様、他人の破談がお好きでしたら――続きをお見せいたしますわ」
その瞬間、大広間の空気は完全に変わった。
断罪される令嬢の夜は、終わった。
ここから先は、誰が誰を舞台から突き落とすかの話になる。
王立劇場の大広間は、今夜に限って芝居小屋よりも芝居じみていた。
天井から落ちる黄金色のシャンデリアの光。磨き上げられた床に映る、宝石と絹と笑顔。王都でも名の知れた貴族たちが、慈善晩餐会という立派な名目のもと、食事と噂話と品定めに余念がない。
壇上には王家への寄付を讃える花々が飾られ、音楽家たちが柔らかな旋律を奏でている。
見目は華やかだ。実に美しい。
けれどサビーネ・ドルレアンには、この夜が妙に息苦しかった。
胸元を締めるコルセットのせいではない。侯爵令嬢としてこうした席には慣れている。視線を集めることも、笑顔の裏で値踏みされることも、今さら息が詰まる理由にはならない。
なのに、今夜は違った。
誰かが、舞台袖で幕が上がるのを待っている。
そんな嫌な予感が、ずっと消えない。
「お顔色がよろしくありません」
背後から低く落ち着いた声がした。
振り返れば、侍女のマルゴが涼しい顔で立っている。栗色の髪をきっちり結い上げた彼女は、主人の顔色を読むことにかけては名医より正確だ。
「少し疲れただけよ」
「そうおっしゃる時は、たいてい少しではありません」
「あなた、最近ますます遠慮がなくなっていないかしら」
「主の異変を見て見ぬふりをするほど、出世を諦めてはおりませんので」
さらりと言って、マルゴはサビーネのドレスの裾を整えた。
こういう時、彼女は慰めるより先に現実的なことをする。だからこそ助かることもある。
サビーネは小さく息を吐いた。
「……セドリック殿下は?」
「先ほどまで男爵令嬢メルヴィ様とお話しされていました」
やはり、と胸の奥で冷たいものが広がる。
オディール・メルヴィ。
ここ最近、第二王子セドリックのそばで見かけることが増えた令嬢だ。守ってあげたくなるような顔立ちに、頼りなげな声、少し目を潤ませれば大抵の男が機嫌よく話を聞く。
そして何より、彼女は人前で泣くのがうまい。
サビーネは一度だけ、オディールが誰も見ていないところで鏡に向かって涙の角度を確かめているのを見たことがある。
あれは偶然だった。けれど偶然で十分だった。
サビーネは、自分の婚約者がそういう娘を好みそうなことも知っていた。
「呼ばれたらすぐに動けるようにしておいて」
「嫌な予感が当たりそうですか」
「ええ。たぶん、ろくでもない方向で」
マルゴは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「でしたら、転ぶにしても前にお進みくださいませ。後ろ向きに倒れるとドレスが傷みます」
「あなた、主人に対して優しいのか厳しいのか、たまにわからなくなるわ」
「両方です」
言い切る声に迷いはない。
その時、楽団の演奏が不自然に止まった。
ざわめきが、大広間の中央に向かって吸い寄せられていく。
人々が視線を向けた先――壇上へ上がったのは、セドリック第二王子だった。
青銀の礼装に身を包み、明るい金髪を夜会用に整えたその姿は、たしかに人目を引く。彼は華やかな場所によく似合う。子どもの頃からそうだった。笑えば人が寄ってきて、手を振れば周囲が沸く。
王に向くかはともかく、舞台の主役には向いている。
その隣に、淡い桃色のドレスの令嬢が立った。
オディール・メルヴィだ。
会場が一段とざわついた。
嫌な予感が、確信に変わる。
「お嬢様」
マルゴが一歩前に出ようとしたのを、サビーネはそっと手で制した。
「大丈夫よ」
嘘だった。
大丈夫なはずがない。
けれどここで侍女にすがれば、もうその時点で負けたようなものだ。
セドリックはわざとらしいほどよく通る声で言った。
「皆の者、本日はよく集まってくれた」
晩餐会の主催者でもないくせに、まるで自分の舞台のような口ぶりだ。だが誰も咎めない。王族というだけで、場の空気は簡単に塗り替えられる。
「この慈善晩餐会という、真実と誠意が求められる席において、私は皆に告げなければならないことがある」
真実。誠意。
その言葉だけで笑ってしまいそうになる。
だが笑えば、きっと悪女の証拠にされる。
サビーネは無表情を保ったまま、壇上を見つめた。
「私は本日、この場をもってサビーネ・ドルレアンとの婚約を解消する!」
広間の空気が、はっきりと揺れた。
息をのむ音。扇を落とす音。興奮を隠しきれないざわめき。
ああ、と思う。
やはりこれだったのか、と。
しかも、よりにもよって慈善晩餐会で。王立劇場の壇上で。観客を前にした舞台の上で。
悪趣味にもほどがある。
「殿下……!」
すぐさまオディールが、震える声を上げた。
震えているわりに、声はよく響いた。
「や、やはりこのようなことは……サビーネ様が、おかわいそうです……」
言葉とは裏腹に、会場の注目が自分に集まる角度をよく知っている顔だった。
セドリックが彼女をかばうように前へ出る。
「オディール、心優しいお前はそう言うだろう。だが私は、真実から目を背けるわけにはいかない」
できあがっている。
台詞も流れも、全部。
サビーネの背筋に、ぞくりと悪寒が走った。
これは衝動的な婚約破棄ではない。前もって準備された“公開断罪劇”だ。
泣く役、庇う役、責められる役。
配役はもう決まっている。
「サビーネ・ドルレアン」
壇上から名を呼ばれ、いくつもの視線が一斉に突き刺さる。
逃げ場はない。
「前へ」
命令だった。
招待ではなく。
サビーネは一瞬だけ目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
ここで震えてはいけない。足元を見てはいけない。裾を踏まないように、背筋を伸ばして歩く。侯爵家の娘として叩き込まれた所作が、こんな場面で役に立つとは皮肉だ。
人垣が自然に割れていく。
壇上までの道のりが、やけに長く感じられた。
好奇心、同情、嘲笑、期待。
さまざまな感情を含んだ視線が肌に刺さる。どれも温かくはない。
壇上へ上がったサビーネは、セドリックから数歩離れた場所で立ち止まった。
「ずいぶん急なお話ですのね、殿下」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
それが気に障ったのか、セドリックの眉がわずかに動く。
「急ではない。むしろ遅すぎたくらいだ」
「遅すぎた、とは?」
「お前の冷酷さと傲慢さを知りながら、私はこれまで耐えてきたのだ」
広間がどよめく。
なんて言いやすい言葉だろう。
冷酷。傲慢。高位貴族の令嬢に向ければ、たちまちそれらしく聞こえる便利な言葉。
「オディールを執拗に侮辱し、社交の場で孤立させ、さらにはこの晩餐会からも排除しようとした。私はそのような悪意に満ちた女性を、もはや婚約者として認めることはできない!」
言い切った瞬間、会場のあちこちで小さな興奮がはじけた。
誰かが息をのんだ。
誰かが扇の陰で笑った。
誰かが「まあ」と囁いた。
そしてオディールが、待っていましたと言わんばかりに目尻を押さえる。
「サビーネ様を責めないでください……! わたくしが至らないから……」
ずいぶん便利な至らなさだ。
言うたびに相手の評価だけが落ち、自分の可憐さは増していく。
サビーネはふと、自分の中の何かがすうっと冷えていくのを感じた。
傷ついていないわけではない。
悔しくないわけでもない。
胸の奥は、たしかに焼けるように熱い。
けれどそれ以上に、頭の芯が冷えていく。
ああ、なるほど。
この人たちは、私に泣いてほしいのだ。
みっともなく取り乱してほしいのだ。
そうすれば「感情的な女」「やはり怖い女」として、この茶番は綺麗に完成する。
サビーネはゆっくりと息を吸った。
その時、客席の少し後ろ、柱の影に立つ一人の男が目に入った。
地味な濃灰色の礼装。飾り気のない立ち姿。だが妙に目を引く。
知らない顔だった。
貴族の男たちがするような面白がる表情も、王族に媚びる色もない。ただ静かに、この舞台全体を観察している。
まるで芝居の出来を見定める審査員のように。
その視線と一瞬だけぶつかり、サビーネは不思議と呼吸を取り戻した。
大丈夫。
少なくとも、ここには一人くらい、泣き顔を期待していない人間がいる。
「……殿下」
サビーネは口を開いた。
「なんだ。ようやく弁明をする気になったか」
「いいえ」
セドリックがわずかに顎を上げる。
会場もまた、次の台詞を待っている。
サビーネは自分でも驚くほど穏やかに微笑んだ。
「弁明する必要があるとは思っておりませんの」
「なに?」
「ただ、少し感心してしまいましたわ」
「感心、だと?」
「ええ。慈善晩餐会を、ここまで下品な見世物に変えられる方は、そう多くありませんもの」
一拍遅れて、広間の空気が凍った。
セドリックの顔が引きつる。
オディールの目が見開かれる。
誰もが、サビーネが泣くか謝るか怒鳴るか、そのどれかだと思っていたのだろう。
だが彼女はどれも選ばなかった。
静かに、しかしはっきりと、この舞台そのものを侮辱した。
「さ、サビーネ様……!」
オディールが悲鳴めいた声を上げる。
「そのような言い方……!」
「違うかしら?」
サビーネは彼女を見た。
「慈善の名で人を集め、食事と音楽のあとに婚約破棄を披露する。まるで三流喜劇ですわ。せめて脚本がもう少しましなら、拍手のひとつもできましたのに」
客席のあちこちで、息を呑む音が重なった。
セドリックが一歩前へ出る。
「貴様、自分の立場がわかっているのか!」
「ええ。壇上に引き出され、悪役を演じさせられている立場ですわね」
「ならば――」
「ですが」
サビーネは彼の言葉を、初めて遮った。
これまで一度もしたことのない無礼だった。
だからこそ、よく響いた。
「舞台に上げた以上、わたくしにも台詞を選ぶ権利くらいはございますでしょう?」
ざわめきが、今度は明確な形をもって広がっていく。
面白がるざわめきではない。
思っていた筋書きと違うものが始まった時のざわめきだ。
サビーネは会場を見渡した。
ここにいる全員が観客だ。味方ではない。けれど敵とも限らない。
人は正義ではなく、勝ちそうな方へ傾く。
ならば、傾かせればいい。
「殿下が婚約解消をお望みでしたら、それ自体は結構ですの」
その言葉に、セドリックの顔に一瞬だけ安堵が浮かんだ。
早い。あまりにも早い。
だからこの男は愚かなのだ。
「ですが公の場でなさる以上、理由も精算も公であるべきですわね」
安堵は一瞬で消えた。
「……精算、だと?」
「ええ」
サビーネはにこやかに答える。
「婚約者としてこれまでわたくしが代筆した謝罪状、調整した招待客名簿、秘かに処理してまいりましたご請求の数々――ああ、どれから申し上げましょうか。せっかくの舞台ですもの。皆様も、最後までご覧になりたいでしょう?」
広間が、静まり返った。
今度こそ、本当の沈黙だった。
セドリックの顔色が目に見えて変わる。
オディールの涙がぴたりと止まる。
そして客席の柱の影にいたあの地味な男が、わずかに目を細めた。
面白がったのではない。
確認したのだ。
この女は立つ、と。
サビーネは胸の奥で震える膝を押さえ込みながら、さらに微笑みを深めた。
「それほど皆様、他人の破談がお好きでしたら――続きをお見せいたしますわ」
その瞬間、大広間の空気は完全に変わった。
断罪される令嬢の夜は、終わった。
ここから先は、誰が誰を舞台から突き落とすかの話になる。
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価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」完結
まほりろ
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第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行中。
コミカライズ化がスタートしましたらこちらの作品は非公開にします。
「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」
イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。
対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。
レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。
「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「なんだ!」
レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。
「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」
私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。
全31話、約43,000文字、完結済み。
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