『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十六話 王子の泣きつき

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第二十六話 王子の泣きつき

 再縁談めいた手紙の山が届き始めてから、侯爵家の空気は少しだけ妙な方向へ落ち着いていた。

 慌ただしいのに、慌ててはいない。

 王宮は静かに動き、社交界は好き勝手に騒ぎ、縁談の打診は虫のよい顔をして滑り込んでくる。やるべきことは多い。けれど少なくとも、何に対して構えればいいのかは見えている。

 それが、以前との大きな違いだった。

 その日の午後、サビーネは屋敷の奥にある小さな温室で、一人で書き物をしていた。

 春先の温室は、花の香りよりも湿った土と若い葉の匂いの方が強い。外より少しだけ空気が温かく、光もやわらかい。屋敷の中で、いちばん考え事に向いている場所だった。

 机の上には返答待ちの書状が二通と、家令がまとめた来客一覧、それから父の確認を待っている返信文案が一つ。サビーネはそれらを一つずつ見直しながら、細かな言い回しを整えていた。

 王家に対しては、あくまで形式を守る。
 虫のよい縁談には、一律に距離を置く。
 劇場で意味を定めた以上、あとの言葉まで崩してはいけない。

 そういう種類の気の張り方には、少し慣れてきた。

 温室の戸が静かに開き、マルゴが入ってくる。

「お嬢様」

「何かしら」

「少々、面倒なことに」

 その一言で、サビーネは羽根ペンを置いた。

 マルゴが“面倒”と言う時は、本当に面倒な時だ。

「王宮?」

「いいえ」

「社交界?」

「それでもございません」

 マルゴはわずかに間を置いた。

「第二王子殿下でございます」

 温室の空気が、少しだけ冷えた気がした。

 サビーネはすぐには返事をしなかった。

「……何をなさったの」

「正門ではなく、庭園側の通用口から来ようとなさいました」

「は?」

「もちろん、お通ししておりません」

 何を考えているのだろう、あの男は。

 いや、考えていないからそうなのだろう。正面から正式に来れば侯爵が出る。取り次ぎも記録も残る。だから庭園側から、こっそりサビーネ本人に会えればとでも思ったのか。

 相変わらず、自分の都合だけはよく回る頭だ。

「お父様は」

「すでにご存じです。ただ、殿下は“どうしても侯爵令嬢本人へ話がある”と」

 サビーネは少し目を閉じた。

 ここで追い返すことはできる。いや、むしろその方が普通かもしれない。庭園側の通用口から忍び込もうとした男に、まともな礼を払う必要などない。

 でも。

「どこにいるの」

「今は西の離れにある小応接間へ隔離しております」

 隔離、という言い方が妙にぴったりで、少しだけ可笑しくなりそうになる。

「お父様は、私に判断を?」

「はい。“会うも会わぬも好きにしろ。ただし、一人では会うな”とのことです」

 当然だろう。

 サビーネは椅子から立ち上がった。

「会うわ」

 マルゴが眉一つ動かさずに問う。

「理由を伺っても」

「ここで逃げる必要はないもの」

「それだけですか」

「それに」

 サビーネは温室の窓越しに庭を見た。

「たぶん、今のあの人は、昔よりずっと正直でしょうから」

 追い詰められた人間は、取り繕う余裕がなくなる。劇場でもそうだった。あの日の逆上で、セドリックは自分が何に怒っていたのかを隠しきれなかった。

 今度もきっと同じだ。

 小応接間は、屋敷の中でも少し離れた位置にある。外から直接入りにくく、かといって客を監視しやすい場所だ。父が“隔離”に使うのもわかる。

 扉の前には家令と護衛が控えていた。

 サビーネが近づくと、家令が低く告げる。

「お嬢様。旦那様より、十分を越えるなら打ち切れとのことです」

「十分」

「それ以上は殿下のためにもなりませんので」

 容赦がない。
 でも、たぶん正しい。

「わかったわ」

 マルゴと一緒に中へ入ると、セドリックは部屋の中央で立っていた。

 驚くほど落ち着きがない。

 以前なら、どんな時でも“自分が見られている”ことを前提に立てる男だった。だが今日は違う。椅子に座ることすらできず、かといって堂々と立っているわけでもなく、中途半端に部屋を歩き回った気配が残っている。

 外套はきちんと着ているのに、どこか整わない。
 目の下にはわずかな陰。
 数日のうちに、ずいぶん顔が変わった。

 サビーネが入ると、セドリックはすぐに振り向いた。

「……来てくれたか」

 その第一声だけで、少し驚く。

 威張った響きが薄い。
 代わりにあるのは焦りだ。

「ごきげんよう、殿下」

 サビーネは一定の距離で立ち止まる。

「ご用件は」

 あえて座らない。
 長居するつもりがないことを先に示す。

 セドリックは一瞬、サビーネの後ろにいるマルゴを見た。

「……二人きりではないのか」

「その必要がございませんもの」

 ぴしゃりと返すと、彼は少しだけ顔をしかめた。

 でも、文句を言う気力もなさそうだった。

「私は」

 セドリックは言葉を探すように息をつく。

「お前に、誤解されたままなのが嫌なんだ」

 その言い方に、サビーネはほとんど反射的に思う。

 やっぱりそこなのね。

 自分がどれだけ傷つけたかではなく、“誤解されたままなのが嫌”。つまり、自分の見え方が嫌なのだ。

「誤解、とは」

 サビーネは静かに問う。

「お前は、私がただお前を都合よく使っていただけだと思っている」

「違うの?」

 間髪入れずに返す。

 セドリックの口が一瞬止まる。

「私は……」

「違うとおっしゃるなら、どう違うのか聞かせてくださいませ」

 彼は目を逸らした。

 それだけで、もう答えは半分出ている。

「私は、お前を信頼していた」

 ようやく出てきたのが、それだった。

 サビーネは少しだけ目を細める。

 信頼。
 便利な言葉だ。
 とくに、相手へ負担を押しつけていた側があとから使うと、とても。

「信頼」

「そうだ。お前なら任せられると……」

「任せる、ね」

 サビーネは繰り返した。

「ご自分でなさらずに?」

 セドリックが苛立つ。

「そういう揚げ足を取る言い方をするな!」

「揚げ足ではございませんわ」

 サビーネの声は少しも高くならない。

「殿下は“信頼していた”とおっしゃる。でも実際には、ご自分でなさるべきことを、わたくしへ流しておいでだった」

「婚約者なら、それくらい――」

 そこまで言って、セドリックは自分で口をつぐんだ。

 遅い。

 でも、その遅さすら今の彼らしい。

「それくらい、何ですの」

 サビーネは続ける。

「当然だと?」

「……違う」

「では」

 沈黙が落ちる。

 セドリックは自分で自分の言葉に足を取られていた。昔なら、誰かがここで埋めていたのだろう。やわらかく言い換え、空気を整え、彼が“そういうつもりではなかった”と退ける道を作っていた。

 今は、誰もいない。

 サビーネはその事実を、驚くほど冷静に見ていた。

「私は」

 セドリックがもう一度言う。

「確かに、お前に任せすぎていたのかもしれない。だが、それはお前が必要だったからだ」

 マルゴが背後で、かすかに息を吐いたのがわかった。

 たぶん同じことを思ったのだろう。

 そこではない、と。

「必要だった」

 サビーネはその言葉を拾う。

「ええ」

「わたくしが?」

「そうだ」

「では、あの夜、なぜ壊したのです?」

 静かに問う。

 その質問だけで、セドリックの顔が歪んだ。

 必要だったというなら、なぜ公に切ったのか。
 そこがつながらない。

 だから彼は苦しそうに言葉を探す。

「私は、あの時……っ」

 やがて絞り出したのは、ひどく幼い本音だった。

「お前が、私を見下しているようで……耐えられなかった」

 部屋がしんと静まる。

 サビーネは、返す言葉が一瞬わからなかった。

 見下しているようで、耐えられなかった。

 つまり。
 つまりこの人は、自分が至らないことを知っている相手を、婚約者として隣へ置いておくのに耐えられなくなったのだ。

 愛でも憎しみでもなく、劣等感。

 それが、あの劇場の引き金だったのか。

「……殿下」

 サビーネはゆっくり言った。

「それは、ずいぶん勝手なお話ですわね」

 セドリックの肩が揺れる。

「私はお前に、もっと……」

「何を求めておいでだったの」

「私を立てて、黙って支えて――」

「そういうことは、してまいりましたでしょう?」

 静かに遮る。

「それでも足りなかったのは、わたくしが“全部わかっていて、なお黙っていた”からではなくて?」

 セドリックが息をのむ。

 図星だ。

 彼は、知らないふりをしてくれる婚約者が欲しかったのだ。
 支えはする。だが、自分の未熟さを知っている空気を一切まとわない相手。
 そんな都合のいい存在がいるわけもないのに。

「私は……」

 また同じ言葉から始まる。

 だが今のサビーネには、それを最後まで聞いてやる気持ちはあまりなかった。

「殿下」

 少しだけ声を和らげる。

「いまここで、わたくしに何を求めておいでですの」

 核心だけを問う。

 謝罪か。
 許しか。
 あるいは、また都合よく“わかってくれること”か。

 セドリックはしばらく黙っていた。

 それから、ほとんど苦し紛れに言った。

「……戻ってきてほしい、とは言わない」

 サビーネは何も言わない。

「ただ、こんなふうに……敵のようにされるのは」

 そこで言葉が切れた。

 敵のように。

 サビーネはその響きを心の中で転がす。

 つまり彼は、自分が敵になったことが耐えられないのだ。
 便利で、理解があり、黙って整えてくれる手でいてほしかったのに、それが自分へ刃を向ける形になった。

 そりゃあ、嫌でしょうね。

 でもそれは、自分で選んだことだ。

「殿下」

 サビーネははっきりと言った。

「わたくしは、敵になりたくてここにいるのではありません」

 セドリックが顔を上げる。

「ただ、自分を守っているだけですわ」

 その一言で、彼の表情が止まる。

 そうだ。
 ここを間違えてはいけない。

 復讐のためだけに立っているのではない。
 見栄でも、勝ち負けでもない。
 自分の名誉と家の体面を守るために立っているのだ。

「殿下がそれを“敵”と感じるのであれば」

 サビーネは続ける。

「それは、殿下がご自身のなさったことを、どこかでわかっているからではなくて?」

 セドリックの唇が震える。

 だが、もう返せない。

 サビーネはそこで、一度だけ息を吐いた。

「十分です」

 マルゴがぴくりと動く。

 そう。
 もう十分だった。

 言い訳も、本音も、見苦しさも、必要な分だけは聞いた。

「お帰りください、殿下」

 セドリックは目を見開く。

「サビーネ――」

「これ以上は、何も生みませんわ」

 その言い方は冷たかったかもしれない。
 でも、嘘ではない。

 彼は何か言いたげに口を開いたが、結局何も出てこなかった。出てきたとしても、それはたぶんまた、自分の見え方を気にする言葉だけだろう。

 扉の外で控えていた家令が、ちょうどよい間で一歩進み出る。

「殿下」

 その声で、ようやく現実へ戻ったのか、セドリックはぎこちなく身を翻した。

 帰るしかないのだと、自分でもわかったのだろう。

 彼が出ていき、扉が静かに閉まるまで、サビーネは一度も動かなかった。

 閉まったあとで、ようやく小さく息を吐く。

「お嬢様」

 マルゴが言う。

「何」

「本当に、戻ってこいとは言いませんでしたね」

 サビーネは少しだけ目を伏せた。

「ええ」

「代わりに、“敵みたいにするな”でした」

「そうね」

「つまり、まだご自分の不便さの話をしておいでだったわけです」

 身も蓋もない。

 でも、その通りでもあった。

 サビーネは小さく笑う。

「あなた、ほんとうに優しくないわね」

「優しいと、変な希望を与えますので」

 希望。

 そうかもしれない。

 セドリックには、まだ少し期待していたのだろう。自分が来れば、サビーネは昔みたいに少しは埋めてくれるのではないかと。完全には戻らなくても、“敵みたいに”まではされずに済むのではないかと。

 でも、もう違う。

 そこだけは、はっきりした。

「……終わったわね」

 ぽつりとサビーネが言うと、マルゴは少しだけ首を傾げた。

「何が、でございますか」

「私の中の、“もしかしたら”が」

 セドリックが本当に少しは変わっているのではないか。何か一つくらいは、自分ではなく他人の痛みを見ているのではないか。

 そんな“もしかしたら”が、たぶん今日で綺麗に終わった。

 それは少し寂しい。
 でも、ずっと楽でもあった。

「それは何よりでございます」

 マルゴは静かに言った。

「ええ」

 サビーネはうなずく。

 本当に、何よりだと思った。
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