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第二十六話 王子の泣きつき
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第二十六話 王子の泣きつき
再縁談めいた手紙の山が届き始めてから、侯爵家の空気は少しだけ妙な方向へ落ち着いていた。
慌ただしいのに、慌ててはいない。
王宮は静かに動き、社交界は好き勝手に騒ぎ、縁談の打診は虫のよい顔をして滑り込んでくる。やるべきことは多い。けれど少なくとも、何に対して構えればいいのかは見えている。
それが、以前との大きな違いだった。
その日の午後、サビーネは屋敷の奥にある小さな温室で、一人で書き物をしていた。
春先の温室は、花の香りよりも湿った土と若い葉の匂いの方が強い。外より少しだけ空気が温かく、光もやわらかい。屋敷の中で、いちばん考え事に向いている場所だった。
机の上には返答待ちの書状が二通と、家令がまとめた来客一覧、それから父の確認を待っている返信文案が一つ。サビーネはそれらを一つずつ見直しながら、細かな言い回しを整えていた。
王家に対しては、あくまで形式を守る。
虫のよい縁談には、一律に距離を置く。
劇場で意味を定めた以上、あとの言葉まで崩してはいけない。
そういう種類の気の張り方には、少し慣れてきた。
温室の戸が静かに開き、マルゴが入ってくる。
「お嬢様」
「何かしら」
「少々、面倒なことに」
その一言で、サビーネは羽根ペンを置いた。
マルゴが“面倒”と言う時は、本当に面倒な時だ。
「王宮?」
「いいえ」
「社交界?」
「それでもございません」
マルゴはわずかに間を置いた。
「第二王子殿下でございます」
温室の空気が、少しだけ冷えた気がした。
サビーネはすぐには返事をしなかった。
「……何をなさったの」
「正門ではなく、庭園側の通用口から来ようとなさいました」
「は?」
「もちろん、お通ししておりません」
何を考えているのだろう、あの男は。
いや、考えていないからそうなのだろう。正面から正式に来れば侯爵が出る。取り次ぎも記録も残る。だから庭園側から、こっそりサビーネ本人に会えればとでも思ったのか。
相変わらず、自分の都合だけはよく回る頭だ。
「お父様は」
「すでにご存じです。ただ、殿下は“どうしても侯爵令嬢本人へ話がある”と」
サビーネは少し目を閉じた。
ここで追い返すことはできる。いや、むしろその方が普通かもしれない。庭園側の通用口から忍び込もうとした男に、まともな礼を払う必要などない。
でも。
「どこにいるの」
「今は西の離れにある小応接間へ隔離しております」
隔離、という言い方が妙にぴったりで、少しだけ可笑しくなりそうになる。
「お父様は、私に判断を?」
「はい。“会うも会わぬも好きにしろ。ただし、一人では会うな”とのことです」
当然だろう。
サビーネは椅子から立ち上がった。
「会うわ」
マルゴが眉一つ動かさずに問う。
「理由を伺っても」
「ここで逃げる必要はないもの」
「それだけですか」
「それに」
サビーネは温室の窓越しに庭を見た。
「たぶん、今のあの人は、昔よりずっと正直でしょうから」
追い詰められた人間は、取り繕う余裕がなくなる。劇場でもそうだった。あの日の逆上で、セドリックは自分が何に怒っていたのかを隠しきれなかった。
今度もきっと同じだ。
小応接間は、屋敷の中でも少し離れた位置にある。外から直接入りにくく、かといって客を監視しやすい場所だ。父が“隔離”に使うのもわかる。
扉の前には家令と護衛が控えていた。
サビーネが近づくと、家令が低く告げる。
「お嬢様。旦那様より、十分を越えるなら打ち切れとのことです」
「十分」
「それ以上は殿下のためにもなりませんので」
容赦がない。
でも、たぶん正しい。
「わかったわ」
マルゴと一緒に中へ入ると、セドリックは部屋の中央で立っていた。
驚くほど落ち着きがない。
以前なら、どんな時でも“自分が見られている”ことを前提に立てる男だった。だが今日は違う。椅子に座ることすらできず、かといって堂々と立っているわけでもなく、中途半端に部屋を歩き回った気配が残っている。
外套はきちんと着ているのに、どこか整わない。
目の下にはわずかな陰。
数日のうちに、ずいぶん顔が変わった。
サビーネが入ると、セドリックはすぐに振り向いた。
「……来てくれたか」
その第一声だけで、少し驚く。
威張った響きが薄い。
代わりにあるのは焦りだ。
「ごきげんよう、殿下」
サビーネは一定の距離で立ち止まる。
「ご用件は」
あえて座らない。
長居するつもりがないことを先に示す。
セドリックは一瞬、サビーネの後ろにいるマルゴを見た。
「……二人きりではないのか」
「その必要がございませんもの」
ぴしゃりと返すと、彼は少しだけ顔をしかめた。
でも、文句を言う気力もなさそうだった。
「私は」
セドリックは言葉を探すように息をつく。
「お前に、誤解されたままなのが嫌なんだ」
その言い方に、サビーネはほとんど反射的に思う。
やっぱりそこなのね。
自分がどれだけ傷つけたかではなく、“誤解されたままなのが嫌”。つまり、自分の見え方が嫌なのだ。
「誤解、とは」
サビーネは静かに問う。
「お前は、私がただお前を都合よく使っていただけだと思っている」
「違うの?」
間髪入れずに返す。
セドリックの口が一瞬止まる。
「私は……」
「違うとおっしゃるなら、どう違うのか聞かせてくださいませ」
彼は目を逸らした。
それだけで、もう答えは半分出ている。
「私は、お前を信頼していた」
ようやく出てきたのが、それだった。
サビーネは少しだけ目を細める。
信頼。
便利な言葉だ。
とくに、相手へ負担を押しつけていた側があとから使うと、とても。
「信頼」
「そうだ。お前なら任せられると……」
「任せる、ね」
サビーネは繰り返した。
「ご自分でなさらずに?」
セドリックが苛立つ。
「そういう揚げ足を取る言い方をするな!」
「揚げ足ではございませんわ」
サビーネの声は少しも高くならない。
「殿下は“信頼していた”とおっしゃる。でも実際には、ご自分でなさるべきことを、わたくしへ流しておいでだった」
「婚約者なら、それくらい――」
そこまで言って、セドリックは自分で口をつぐんだ。
遅い。
でも、その遅さすら今の彼らしい。
「それくらい、何ですの」
サビーネは続ける。
「当然だと?」
「……違う」
「では」
沈黙が落ちる。
セドリックは自分で自分の言葉に足を取られていた。昔なら、誰かがここで埋めていたのだろう。やわらかく言い換え、空気を整え、彼が“そういうつもりではなかった”と退ける道を作っていた。
今は、誰もいない。
サビーネはその事実を、驚くほど冷静に見ていた。
「私は」
セドリックがもう一度言う。
「確かに、お前に任せすぎていたのかもしれない。だが、それはお前が必要だったからだ」
マルゴが背後で、かすかに息を吐いたのがわかった。
たぶん同じことを思ったのだろう。
そこではない、と。
「必要だった」
サビーネはその言葉を拾う。
「ええ」
「わたくしが?」
「そうだ」
「では、あの夜、なぜ壊したのです?」
静かに問う。
その質問だけで、セドリックの顔が歪んだ。
必要だったというなら、なぜ公に切ったのか。
そこがつながらない。
だから彼は苦しそうに言葉を探す。
「私は、あの時……っ」
やがて絞り出したのは、ひどく幼い本音だった。
「お前が、私を見下しているようで……耐えられなかった」
部屋がしんと静まる。
サビーネは、返す言葉が一瞬わからなかった。
見下しているようで、耐えられなかった。
つまり。
つまりこの人は、自分が至らないことを知っている相手を、婚約者として隣へ置いておくのに耐えられなくなったのだ。
愛でも憎しみでもなく、劣等感。
それが、あの劇場の引き金だったのか。
「……殿下」
サビーネはゆっくり言った。
「それは、ずいぶん勝手なお話ですわね」
セドリックの肩が揺れる。
「私はお前に、もっと……」
「何を求めておいでだったの」
「私を立てて、黙って支えて――」
「そういうことは、してまいりましたでしょう?」
静かに遮る。
「それでも足りなかったのは、わたくしが“全部わかっていて、なお黙っていた”からではなくて?」
セドリックが息をのむ。
図星だ。
彼は、知らないふりをしてくれる婚約者が欲しかったのだ。
支えはする。だが、自分の未熟さを知っている空気を一切まとわない相手。
そんな都合のいい存在がいるわけもないのに。
「私は……」
また同じ言葉から始まる。
だが今のサビーネには、それを最後まで聞いてやる気持ちはあまりなかった。
「殿下」
少しだけ声を和らげる。
「いまここで、わたくしに何を求めておいでですの」
核心だけを問う。
謝罪か。
許しか。
あるいは、また都合よく“わかってくれること”か。
セドリックはしばらく黙っていた。
それから、ほとんど苦し紛れに言った。
「……戻ってきてほしい、とは言わない」
サビーネは何も言わない。
「ただ、こんなふうに……敵のようにされるのは」
そこで言葉が切れた。
敵のように。
サビーネはその響きを心の中で転がす。
つまり彼は、自分が敵になったことが耐えられないのだ。
便利で、理解があり、黙って整えてくれる手でいてほしかったのに、それが自分へ刃を向ける形になった。
そりゃあ、嫌でしょうね。
でもそれは、自分で選んだことだ。
「殿下」
サビーネははっきりと言った。
「わたくしは、敵になりたくてここにいるのではありません」
セドリックが顔を上げる。
「ただ、自分を守っているだけですわ」
その一言で、彼の表情が止まる。
そうだ。
ここを間違えてはいけない。
復讐のためだけに立っているのではない。
見栄でも、勝ち負けでもない。
自分の名誉と家の体面を守るために立っているのだ。
「殿下がそれを“敵”と感じるのであれば」
サビーネは続ける。
「それは、殿下がご自身のなさったことを、どこかでわかっているからではなくて?」
セドリックの唇が震える。
だが、もう返せない。
サビーネはそこで、一度だけ息を吐いた。
「十分です」
マルゴがぴくりと動く。
そう。
もう十分だった。
言い訳も、本音も、見苦しさも、必要な分だけは聞いた。
「お帰りください、殿下」
セドリックは目を見開く。
「サビーネ――」
「これ以上は、何も生みませんわ」
その言い方は冷たかったかもしれない。
でも、嘘ではない。
彼は何か言いたげに口を開いたが、結局何も出てこなかった。出てきたとしても、それはたぶんまた、自分の見え方を気にする言葉だけだろう。
扉の外で控えていた家令が、ちょうどよい間で一歩進み出る。
「殿下」
その声で、ようやく現実へ戻ったのか、セドリックはぎこちなく身を翻した。
帰るしかないのだと、自分でもわかったのだろう。
彼が出ていき、扉が静かに閉まるまで、サビーネは一度も動かなかった。
閉まったあとで、ようやく小さく息を吐く。
「お嬢様」
マルゴが言う。
「何」
「本当に、戻ってこいとは言いませんでしたね」
サビーネは少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「代わりに、“敵みたいにするな”でした」
「そうね」
「つまり、まだご自分の不便さの話をしておいでだったわけです」
身も蓋もない。
でも、その通りでもあった。
サビーネは小さく笑う。
「あなた、ほんとうに優しくないわね」
「優しいと、変な希望を与えますので」
希望。
そうかもしれない。
セドリックには、まだ少し期待していたのだろう。自分が来れば、サビーネは昔みたいに少しは埋めてくれるのではないかと。完全には戻らなくても、“敵みたいに”まではされずに済むのではないかと。
でも、もう違う。
そこだけは、はっきりした。
「……終わったわね」
ぽつりとサビーネが言うと、マルゴは少しだけ首を傾げた。
「何が、でございますか」
「私の中の、“もしかしたら”が」
セドリックが本当に少しは変わっているのではないか。何か一つくらいは、自分ではなく他人の痛みを見ているのではないか。
そんな“もしかしたら”が、たぶん今日で綺麗に終わった。
それは少し寂しい。
でも、ずっと楽でもあった。
「それは何よりでございます」
マルゴは静かに言った。
「ええ」
サビーネはうなずく。
本当に、何よりだと思った。
再縁談めいた手紙の山が届き始めてから、侯爵家の空気は少しだけ妙な方向へ落ち着いていた。
慌ただしいのに、慌ててはいない。
王宮は静かに動き、社交界は好き勝手に騒ぎ、縁談の打診は虫のよい顔をして滑り込んでくる。やるべきことは多い。けれど少なくとも、何に対して構えればいいのかは見えている。
それが、以前との大きな違いだった。
その日の午後、サビーネは屋敷の奥にある小さな温室で、一人で書き物をしていた。
春先の温室は、花の香りよりも湿った土と若い葉の匂いの方が強い。外より少しだけ空気が温かく、光もやわらかい。屋敷の中で、いちばん考え事に向いている場所だった。
机の上には返答待ちの書状が二通と、家令がまとめた来客一覧、それから父の確認を待っている返信文案が一つ。サビーネはそれらを一つずつ見直しながら、細かな言い回しを整えていた。
王家に対しては、あくまで形式を守る。
虫のよい縁談には、一律に距離を置く。
劇場で意味を定めた以上、あとの言葉まで崩してはいけない。
そういう種類の気の張り方には、少し慣れてきた。
温室の戸が静かに開き、マルゴが入ってくる。
「お嬢様」
「何かしら」
「少々、面倒なことに」
その一言で、サビーネは羽根ペンを置いた。
マルゴが“面倒”と言う時は、本当に面倒な時だ。
「王宮?」
「いいえ」
「社交界?」
「それでもございません」
マルゴはわずかに間を置いた。
「第二王子殿下でございます」
温室の空気が、少しだけ冷えた気がした。
サビーネはすぐには返事をしなかった。
「……何をなさったの」
「正門ではなく、庭園側の通用口から来ようとなさいました」
「は?」
「もちろん、お通ししておりません」
何を考えているのだろう、あの男は。
いや、考えていないからそうなのだろう。正面から正式に来れば侯爵が出る。取り次ぎも記録も残る。だから庭園側から、こっそりサビーネ本人に会えればとでも思ったのか。
相変わらず、自分の都合だけはよく回る頭だ。
「お父様は」
「すでにご存じです。ただ、殿下は“どうしても侯爵令嬢本人へ話がある”と」
サビーネは少し目を閉じた。
ここで追い返すことはできる。いや、むしろその方が普通かもしれない。庭園側の通用口から忍び込もうとした男に、まともな礼を払う必要などない。
でも。
「どこにいるの」
「今は西の離れにある小応接間へ隔離しております」
隔離、という言い方が妙にぴったりで、少しだけ可笑しくなりそうになる。
「お父様は、私に判断を?」
「はい。“会うも会わぬも好きにしろ。ただし、一人では会うな”とのことです」
当然だろう。
サビーネは椅子から立ち上がった。
「会うわ」
マルゴが眉一つ動かさずに問う。
「理由を伺っても」
「ここで逃げる必要はないもの」
「それだけですか」
「それに」
サビーネは温室の窓越しに庭を見た。
「たぶん、今のあの人は、昔よりずっと正直でしょうから」
追い詰められた人間は、取り繕う余裕がなくなる。劇場でもそうだった。あの日の逆上で、セドリックは自分が何に怒っていたのかを隠しきれなかった。
今度もきっと同じだ。
小応接間は、屋敷の中でも少し離れた位置にある。外から直接入りにくく、かといって客を監視しやすい場所だ。父が“隔離”に使うのもわかる。
扉の前には家令と護衛が控えていた。
サビーネが近づくと、家令が低く告げる。
「お嬢様。旦那様より、十分を越えるなら打ち切れとのことです」
「十分」
「それ以上は殿下のためにもなりませんので」
容赦がない。
でも、たぶん正しい。
「わかったわ」
マルゴと一緒に中へ入ると、セドリックは部屋の中央で立っていた。
驚くほど落ち着きがない。
以前なら、どんな時でも“自分が見られている”ことを前提に立てる男だった。だが今日は違う。椅子に座ることすらできず、かといって堂々と立っているわけでもなく、中途半端に部屋を歩き回った気配が残っている。
外套はきちんと着ているのに、どこか整わない。
目の下にはわずかな陰。
数日のうちに、ずいぶん顔が変わった。
サビーネが入ると、セドリックはすぐに振り向いた。
「……来てくれたか」
その第一声だけで、少し驚く。
威張った響きが薄い。
代わりにあるのは焦りだ。
「ごきげんよう、殿下」
サビーネは一定の距離で立ち止まる。
「ご用件は」
あえて座らない。
長居するつもりがないことを先に示す。
セドリックは一瞬、サビーネの後ろにいるマルゴを見た。
「……二人きりではないのか」
「その必要がございませんもの」
ぴしゃりと返すと、彼は少しだけ顔をしかめた。
でも、文句を言う気力もなさそうだった。
「私は」
セドリックは言葉を探すように息をつく。
「お前に、誤解されたままなのが嫌なんだ」
その言い方に、サビーネはほとんど反射的に思う。
やっぱりそこなのね。
自分がどれだけ傷つけたかではなく、“誤解されたままなのが嫌”。つまり、自分の見え方が嫌なのだ。
「誤解、とは」
サビーネは静かに問う。
「お前は、私がただお前を都合よく使っていただけだと思っている」
「違うの?」
間髪入れずに返す。
セドリックの口が一瞬止まる。
「私は……」
「違うとおっしゃるなら、どう違うのか聞かせてくださいませ」
彼は目を逸らした。
それだけで、もう答えは半分出ている。
「私は、お前を信頼していた」
ようやく出てきたのが、それだった。
サビーネは少しだけ目を細める。
信頼。
便利な言葉だ。
とくに、相手へ負担を押しつけていた側があとから使うと、とても。
「信頼」
「そうだ。お前なら任せられると……」
「任せる、ね」
サビーネは繰り返した。
「ご自分でなさらずに?」
セドリックが苛立つ。
「そういう揚げ足を取る言い方をするな!」
「揚げ足ではございませんわ」
サビーネの声は少しも高くならない。
「殿下は“信頼していた”とおっしゃる。でも実際には、ご自分でなさるべきことを、わたくしへ流しておいでだった」
「婚約者なら、それくらい――」
そこまで言って、セドリックは自分で口をつぐんだ。
遅い。
でも、その遅さすら今の彼らしい。
「それくらい、何ですの」
サビーネは続ける。
「当然だと?」
「……違う」
「では」
沈黙が落ちる。
セドリックは自分で自分の言葉に足を取られていた。昔なら、誰かがここで埋めていたのだろう。やわらかく言い換え、空気を整え、彼が“そういうつもりではなかった”と退ける道を作っていた。
今は、誰もいない。
サビーネはその事実を、驚くほど冷静に見ていた。
「私は」
セドリックがもう一度言う。
「確かに、お前に任せすぎていたのかもしれない。だが、それはお前が必要だったからだ」
マルゴが背後で、かすかに息を吐いたのがわかった。
たぶん同じことを思ったのだろう。
そこではない、と。
「必要だった」
サビーネはその言葉を拾う。
「ええ」
「わたくしが?」
「そうだ」
「では、あの夜、なぜ壊したのです?」
静かに問う。
その質問だけで、セドリックの顔が歪んだ。
必要だったというなら、なぜ公に切ったのか。
そこがつながらない。
だから彼は苦しそうに言葉を探す。
「私は、あの時……っ」
やがて絞り出したのは、ひどく幼い本音だった。
「お前が、私を見下しているようで……耐えられなかった」
部屋がしんと静まる。
サビーネは、返す言葉が一瞬わからなかった。
見下しているようで、耐えられなかった。
つまり。
つまりこの人は、自分が至らないことを知っている相手を、婚約者として隣へ置いておくのに耐えられなくなったのだ。
愛でも憎しみでもなく、劣等感。
それが、あの劇場の引き金だったのか。
「……殿下」
サビーネはゆっくり言った。
「それは、ずいぶん勝手なお話ですわね」
セドリックの肩が揺れる。
「私はお前に、もっと……」
「何を求めておいでだったの」
「私を立てて、黙って支えて――」
「そういうことは、してまいりましたでしょう?」
静かに遮る。
「それでも足りなかったのは、わたくしが“全部わかっていて、なお黙っていた”からではなくて?」
セドリックが息をのむ。
図星だ。
彼は、知らないふりをしてくれる婚約者が欲しかったのだ。
支えはする。だが、自分の未熟さを知っている空気を一切まとわない相手。
そんな都合のいい存在がいるわけもないのに。
「私は……」
また同じ言葉から始まる。
だが今のサビーネには、それを最後まで聞いてやる気持ちはあまりなかった。
「殿下」
少しだけ声を和らげる。
「いまここで、わたくしに何を求めておいでですの」
核心だけを問う。
謝罪か。
許しか。
あるいは、また都合よく“わかってくれること”か。
セドリックはしばらく黙っていた。
それから、ほとんど苦し紛れに言った。
「……戻ってきてほしい、とは言わない」
サビーネは何も言わない。
「ただ、こんなふうに……敵のようにされるのは」
そこで言葉が切れた。
敵のように。
サビーネはその響きを心の中で転がす。
つまり彼は、自分が敵になったことが耐えられないのだ。
便利で、理解があり、黙って整えてくれる手でいてほしかったのに、それが自分へ刃を向ける形になった。
そりゃあ、嫌でしょうね。
でもそれは、自分で選んだことだ。
「殿下」
サビーネははっきりと言った。
「わたくしは、敵になりたくてここにいるのではありません」
セドリックが顔を上げる。
「ただ、自分を守っているだけですわ」
その一言で、彼の表情が止まる。
そうだ。
ここを間違えてはいけない。
復讐のためだけに立っているのではない。
見栄でも、勝ち負けでもない。
自分の名誉と家の体面を守るために立っているのだ。
「殿下がそれを“敵”と感じるのであれば」
サビーネは続ける。
「それは、殿下がご自身のなさったことを、どこかでわかっているからではなくて?」
セドリックの唇が震える。
だが、もう返せない。
サビーネはそこで、一度だけ息を吐いた。
「十分です」
マルゴがぴくりと動く。
そう。
もう十分だった。
言い訳も、本音も、見苦しさも、必要な分だけは聞いた。
「お帰りください、殿下」
セドリックは目を見開く。
「サビーネ――」
「これ以上は、何も生みませんわ」
その言い方は冷たかったかもしれない。
でも、嘘ではない。
彼は何か言いたげに口を開いたが、結局何も出てこなかった。出てきたとしても、それはたぶんまた、自分の見え方を気にする言葉だけだろう。
扉の外で控えていた家令が、ちょうどよい間で一歩進み出る。
「殿下」
その声で、ようやく現実へ戻ったのか、セドリックはぎこちなく身を翻した。
帰るしかないのだと、自分でもわかったのだろう。
彼が出ていき、扉が静かに閉まるまで、サビーネは一度も動かなかった。
閉まったあとで、ようやく小さく息を吐く。
「お嬢様」
マルゴが言う。
「何」
「本当に、戻ってこいとは言いませんでしたね」
サビーネは少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「代わりに、“敵みたいにするな”でした」
「そうね」
「つまり、まだご自分の不便さの話をしておいでだったわけです」
身も蓋もない。
でも、その通りでもあった。
サビーネは小さく笑う。
「あなた、ほんとうに優しくないわね」
「優しいと、変な希望を与えますので」
希望。
そうかもしれない。
セドリックには、まだ少し期待していたのだろう。自分が来れば、サビーネは昔みたいに少しは埋めてくれるのではないかと。完全には戻らなくても、“敵みたいに”まではされずに済むのではないかと。
でも、もう違う。
そこだけは、はっきりした。
「……終わったわね」
ぽつりとサビーネが言うと、マルゴは少しだけ首を傾げた。
「何が、でございますか」
「私の中の、“もしかしたら”が」
セドリックが本当に少しは変わっているのではないか。何か一つくらいは、自分ではなく他人の痛みを見ているのではないか。
そんな“もしかしたら”が、たぶん今日で綺麗に終わった。
それは少し寂しい。
でも、ずっと楽でもあった。
「それは何よりでございます」
マルゴは静かに言った。
「ええ」
サビーネはうなずく。
本当に、何よりだと思った。
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大ピンチのエマには、秘密があった。なんと彼女は幼少期に前世の記憶を思い出していたのだ。
かつて観光地で石を磨き、アクセサリーを作り、人に喜ばれる仕事をしていた人生。何も持たない今だからこそ、もう一度「自分の手で生きる」ことを選び、あの人が住む商業国家スペイラ帝国へ向かう決意をする。
国境への道中、盗賊に襲われるが、護衛兵ロドリゲスの活躍で難を逃れる。彼の誠実な態度に、エマは「守られる価値のある存在」として扱われたことに胸を打たれた。
スペイラ帝国では身分に縛られず働ける。エマは前世の技術を活かし、石を磨いてアクセサリーを作る小さな露店を始める。石に意味を込めた腕輪やペンダントは人々の心を掴み、体験教室も開かれるようになる。伯爵夫人だった頃よりも、今の方がずっと「生きている」と実感していた。
ある朝、ロドリゲスが市場を訪れ、エマの作ったタイガーアイの腕輪を購入する。ところがその夜、彼は驚いた様子で戻り、腕輪が力を一・五倍に高める魔道具だと判明したと告げる。エマ自身は無意識だったが、彼女の作るアクセサリーには確かな力が宿っていた。
後日二人は食事に出かけ、エマは自分が貴族の妻として離縁された過去を打ち明ける。ロドリゲスは強く憤り、「最悪な貴族だ」と彼女と一緒になって怒ってくれた。その気持ちが、エマにとって何よりの救いだった。彼は次に防御力を高める腕輪を依頼し、冒険者ギルドで正式な鑑定を受けるよう勧める。
翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。
価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」完結
まほりろ
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全31話、約43,000文字、完結済み。
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