『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十五話 再縁談の季節

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第二十五話 再縁談の季節

 人の評価が反転すると、不思議なものまで一緒に動き出す。

 その最たるものが、縁談だった。

 ドルレアン侯爵家の朝の広間には、ここ数日で明らかに手紙が増えていた。王家とのやり取りや慈善会計の確認文書に混じって、上質な封筒が何通も滑り込んでいる。封蝋の色も家格もばらばらだが、どれも妙に丁寧で、妙に遠回しで、そして妙に同じ匂いがした。

 いまなら間に合うかもしれない。

 そんな匂いだ。

「……増えたわね」

 朝食後、父の書斎へ呼ばれて机の上を見たサビーネは、思わずそう言った。

 父は腕を組んだまま、露骨に嫌そうな顔をしている。

「増えたな」

「全部?」

「全部が縁談というわけではない。だが、かなりはそうだ」

 家令がすでに仕分けをしていたらしく、机の左側へ寄せられた一群を指先で示した。

「こちらが“明確ではないが意図が透けているもの”。こちらが“家族ぐるみの交流を願う”という名目のもの。こちらが、はっきりお前を意識した打診だ」

 最後の一群が、一番腹立たしそうに置かれていた。

 サビーネは椅子へ腰を下ろし、一番上の封書を開いてみる。丁寧な時候の挨拶、劇場での説明会への感嘆、侯爵家のご令嬢の見識に敬服――そこまではいい。

 そのあとに続く文が問題だった。

 “もし差し支えなければ、近く我が家の夕食会へぜひ”
 “愚息もまた、侯爵令嬢の聡明さに感服しておりまして”

 わかりやすい。

 わかりやすすぎて、逆に頭が痛い。

「今まで見向きもしなかった方々ほど、よく動くのね」

 サビーネが言うと、父が鼻で笑った。

「そういうものだ。宝石は泥を払ったあとで急に価値がわかるらしい」

「ありがたくない例えですわ」

「私も使っていて腹が立つ」

 そこは一致していた。

 サビーネは次の封書へ手を伸ばす。こちらはもっと露骨だった。母方の血筋への賛辞、侯爵家との縁がいかに望ましいか、そして“今回の件で誠実さと胆力が明らかになった”という、どこか品定めじみた文言。

 要するに、“見世物の舞台で立ち回れる強さがあるなら、うちへ来ても役に立つ”と言っているのだ。

 腹が立たないわけがない。

「お嬢様」

 横からマルゴが封書をひらひらと持ち上げた。

「こちらなど、かなり虫がよろしいかと」

「どなたから?」

「以前、お嬢様のことを“冷たすぎて家庭的ではない”と評していた伯爵夫人の甥御様です」

 サビーネは目を閉じた。

「捨てていいかしら」

「まだだめです」

 マルゴが即答する。

「せめて一覧へ記録してからにしてください」

「そこをきっちりやるのね」

「後で“そのような意図ではなかった”と言い出す方がおいでですので」

 それはたしかにありそうだった。

 父が机を指で軽く叩いた。

「どうする」

「どうする、とは」

「返事だ」

 短い問いだったが、意味は重い。

 無視するのか。
 全部断るのか。
 それとも、どこかとだけ礼を尽くした応対をするのか。

 社交界では、断るにしてもやり方がある。ぞんざいに扱えば角が立つし、逆に丁寧に返しすぎると“含みあり”と取られる。

 面倒な世界だと、改めて思う。

「……当面は保留でよろしいかと」

 サビーネが言うと、父はうなずいた。

「理由は」

「今ここでどこかへだけ礼を返せば、“次の席が空いた”という話になりますわ」

「そうだな」

「ですので、侯爵家としては“現在、先般の件に関する対応を優先しており、私的な交際を新たに進める状況にございません”と」

 家令がすぐに書き留める。

「一括で?」

「ええ。同じ温度で」

「賢明だ」

 父が言った。

 サビーネは少しだけ息を吐く。

 こういうところで感情を混ぜない方がいいと、最近ようやく身についてきた。虫がいいと思う気持ちはある。見向きもしなかったくせに、いまになって“聡明さ”やら“胆力”やらを褒められても、腹立たしいだけだ。

 でも、ここで怒っても意味はない。

 むしろ、“選ばれる立場”から“選ぶ立場”へ少しだけ移っているのだと思えば、まだ楽だった。

「それにしても」

 サビーネが封書の山を見ながら言う。

「皆さま、本当に急ね」

「急でございます」

 マルゴがさらりと答える。

「お嬢様が劇場で立ち、王家が揺らぎ、第二王子殿下が見苦しく崩れた以上、“侯爵令嬢サビーネ”の値打ちは以前よりずっと上がって見えるのでしょう」

「まるで競りみたいね」

「実際、半分はそのようなものです」

 そこまで言われると、もはや笑うしかない。

 サビーネは一通の封書を裏返して差出人を見た。

 若い伯爵家の次男。
 前に夜会で一度だけ踊ったことがある。あの時は、自分の話などほとんど聞かず、王家との婚約についてばかり探ってきた男だ。

 その相手がいま、“あなたの聡明さに深く心を打たれた”と書いてくる。

「ひどいものね」

「ええ」

 マルゴは少しもためらわない。

「ですが、わかりやすくて助かります」

「助かる?」

「はい。価値が見えた途端に寄ってくる方は、選別が簡単ですので」

 それは確かにそうだった。

 誠実さと打算は、文面に意外とよく出る。特に、急いで距離を詰めようとする者ほど、言葉の端に“いまなら間に合う”という焦りが透ける。

「お嬢様」

 家令が一礼して言った。

「こちらの一通は、少々毛色が違います」

「どなたから?」

「ヴァレンシエン侯爵家より。差出人は侯爵夫人でございます」

 サビーネは封を切った。

 短い文面だった。

 “このような時に不躾なことは申しません。ただ、あなたがご自身の価値を他家の都合で測らぬことを願っております。”

 それだけだ。

 縁談の匂いも、夕食会への誘いもない。

 ただ、それだけ。

 サビーネはしばらく黙って手紙を見つめた。

「……これは、まともね」

 ぽつりと言うと、父も紙を受け取って目を通した。

「うむ」

「どうしてこういう手紙があると、かえって驚くのかしら」

「比較対象が悪い」

 父の言い方が辛辣で、少しだけ可笑しい。

 そこへ、また扉が叩かれた。

 従僕が一礼して入ってくる。

「旦那様。ベルナール監督官がお見えです」

 サビーネと父が同時に顔を上げた。

 最近、本当にこの人はよく来る。
 いや、必要だから来ているのだろうけれど。

「通せ」

 父が言う。

 少しして入ってきたヨアヒムは、相変わらず驚くほど地味だった。灰色の上着、無駄のない姿勢、飾りのない手袋。王都の縁談の山とまるで相性の悪い男だと思う。

 なのに、その姿が視界へ入ると、妙に部屋の空気が落ち着くのだから不思議だった。

「ごきげんよう、監督官」

 サビーネが言うと、ヨアヒムはわずかに目礼した。

「侯爵令嬢」

「本日はどのような」

 父が先に問う。

「王宮内の動きの確認と、念のためのご報告です」

 ヨアヒムが答える。

「第二王子殿下に関する公的催しの整理が、さらに進んでおります」

「見切りが深くなったか」

「ええ」

 父の問いへ短く返したあと、ヨアヒムの視線が机の上の封書の山へ向いた。ほんの一瞬だが、さすがに気づく。

「……何か」

 サビーネが言うと、彼は表情を変えずに答える。

「縁談の季節ですか」

 その言い方が妙に乾いていて、サビーネは思わず笑いそうになった。

「季節ものみたいに言わないでくださる?」

「急に増える点では似たようなものかと」

 それを聞いて、マルゴが真顔でうなずく。

「適切な表現です」

「あなたまで乗らないで」

 でも、そのおかげで少し肩の力が抜けた。

 父が手紙の山を軽く示す。

「虫のよいものばかりだ」

「でしょうね」

 ヨアヒムはあっさり言った。

 そして、少しも濁さず続ける。

「失礼ながら、今回の件で侯爵令嬢の値が上がったように見えているのでしょう」

 値、と来た。

 サビーネは少しだけ目を細める。

「ずいぶん率直ですのね」

「事実であれば」

 またそれだ。

 でも腹は立たない。不思議なくらい。

 むしろ、変な美辞麗句よりずっと楽だった。

「では監督官は」

 サビーネは少しだけからかう気持ちで言う。

「この山をご覧になっても、特に何とも思われないのかしら」

 マルゴが横でわずかに目を細めた。
 父は黙ったまま。
 家令だけが完璧に無表情。

 ヨアヒムは、一拍だけ間を置いた。

「何とも、とは」

「いろいろありますでしょう? 呆れるとか、感心しないとか、虫がいいと思うとか」

 そこまで言うと、彼はほんの少しだけ息を吐いた。

 ため息ではない。
 だが、考えをまとめる時の間らしかった。

「……率直に申し上げるなら」

「ええ」

「今まで侯爵令嬢をきちんと見ていなかった方々が、急に見えるようになったのだろうと思います」

 思っていた返答と少し違って、サビーネは言葉を失った。

 もっと冷たく、“打算でしょう”と切り捨てるのかと思っていたのだ。

「ただ」

 ヨアヒムは続ける。

「見えるようになった理由が、侯爵令嬢ご自身の価値そのものではなく、今回の件での立ち回りや注目度に引きずられているのであれば、あまり質のよい見え方とは思えません」

 父が低くうなずく。

「その通りだ」

 サビーネは机の上の封書へ視線を落とした。

 そうか。
 やはり、この違和感は間違っていない。

 自分が急に“価値ある娘”になったのではない。
 ずっとそこにあったものが、今さら見つかっただけ。
 しかもその見つけ方が、劇場の騒動や王家の綻びという、かなり品の悪いきっかけに寄っている。

 嬉しくないはずだ。

「ですので」

 ヨアヒムが言う。

「いま急いで何かを選ぶ必要はないでしょう」

 それは、まるで当たり前のことのように聞こえた。

 だが、その当たり前をこんなに静かに言われると、妙に胸が軽くなる。

 選ばねばならない気が、少しだけしていたのかもしれない。
 王家との婚約が壊れた以上、次をどうするのか。
 周囲の目もそうだし、社交界の流れもそうだ。

 でも、違う。

 いま急がなくていい。

「監督官」

 サビーネはふと聞いた。

「何でしょう」

「あなた、本当に率直すぎるわね」

「そうでしょうか」

「ええ。でも……」

 少しだけ笑う。

「嫌いではないわ」

 一瞬だけ、部屋の空気が止まった気がした。

 マルゴが無表情のままお茶の準備を始める。
 父はあえて何も言わない。
 家令は彫像みたいに静かだ。

 ヨアヒムはほんのわずかに目を伏せ、それからいつも通りの声音で言った。

「それは何よりです」

 その返し方まで、妙に彼らしい。

 サビーネはそこで、ようやくはっきりと自覚した。

 再縁談の山を前にしても、自分はもう“誰かに選ばれる価値”で心を測らなくなっている。
 むしろ逆だ。
 こうして急に寄ってくる顔ぶれを見るほどに、誰と何を築くかは、もっと別の軸で考えたいと思う。

 見えている相手。
 都合で揺れない相手。
 必要なものを必要だと言い、不要な飾りでごまかさない相手。

 そういう基準が、少しずつ自分の中へでき始めているのかもしれない。

 そして、それに気づいた瞬間、机の上の封書の山はさっきまでよりずっと軽く見えた。

 ただの紙束だ。
 焦って答えを出す必要のない、季節外れの花粉みたいなものに思えた。
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