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第二十四話 初めての弱音
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第二十四話 初めての弱音
その夜、サビーネはなかなか寝つけなかった。
疲れていないわけではない。むしろここ数日ずっと気を張っていたせいで、体のあちこちは重かった。けれど、疲れている時ほど妙に頭だけ冴えることがある。今夜はまさにそれだった。
寝台へ入っても、王宮の小応接室で交わされた曖昧な言葉がよみがえる。
劇場の壇上でセドリックが立ち上がった時の顔も。
オディールが侯爵家へ来て、混乱した目で「どうしたらいいのかわからない」と言った声も。
そして最後には、今日聞いた王族の見切りの話まで胸の内を巡る。
人は、眠れない夜ほど余計なものをよく思い出す。
サビーネは小さく息を吐いて、寝台から身を起こした。
部屋は暗い。けれど月の光が薄く差し込んでいて、何も見えないわけではない。窓の外では庭の木々が夜風にかすかに揺れ、遠くで噴水の水音がしている。
静かだった。
静かすぎて、自分の心の中の音ばかり大きくなる。
「……いやね」
誰にともなく呟く。
こういう夜は、昔から得意ではなかった。昼間に完璧な顔をしているぶん、夜になるとその反動が出る。誰にも見せない代わりに、一人で勝手に疲れるのだ。
寝間着の上へ薄いガウンを羽織り、サビーネはそっと部屋を出た。
この時間なら大抵の使用人は持ち場へ下がっているし、廊下も静かだ。屋敷に長く住んでいれば、どのあたりが一番人目につきにくいかくらいは自然とわかる。
階下へ下り、小さな中庭に面した回廊へ出る。
夜気は思ったより冷たかったが、頭を冷やすにはちょうどよかった。
昼間なら薔薇の香りがする場所だが、今は湿った土と石の匂いの方が強い。そういうところも、夜は正直だと思う。
「お嬢様」
不意に声がして、サビーネは少しだけ肩を揺らした。
振り向けば、回廊の柱の影にマルゴが立っていた。驚いた顔はしていない。まるで“そろそろ出ていらっしゃる頃だと思っていました”と言いたげな顔である。
「……あなた、何でもいるわね」
「それはお褒めの言葉でしょうか」
「半分は」
「残り半分も頂戴いたします」
相変わらずだ。
その相変わらずさに、少しだけ息が楽になる。
「眠れませんでしたか」
マルゴが近づきながら聞く。
「少しだけ」
「少し、ですか」
「かなり、かもしれないわ」
「正確で結構です」
サビーネは回廊の石壁へ軽く寄りかかった。
「あなたこそ、どうしてここにいるの」
「お嬢様が眠れないだろうと思いまして」
「わかるの?」
「ええ。今日はお顔がそうでした」
この侍女は本当に、いつからこんなに自分の顔を読めるようになったのだろう。
いや、昔からなのかもしれない。こちらが見ないふりをしていただけで。
「お茶をお持ちしましょうか」
マルゴが言う。
「今から?」
「はい。温かい方がよろしいかと」
サビーネは少し迷ったが、すぐに頷いた。
「お願い」
マルゴが一度下がり、しばらくして小さな盆を持って戻ってくる。夜用の淡い香りの茶と、喉を湿らせる程度の薄い甘味。さすがにこの時間に重いものは出さないらしい。
二人は回廊に面した小卓のそばへ腰を下ろした。
しばらく無言で湯気を眺める。
こうして黙っていても苦にならないのは、ありがたいことだ。
先に口を開いたのは、やはりマルゴだった。
「お嬢様」
「何」
「本日は、何がいちばん刺さりましたか」
問い方が相変わらず飾り気なくて、サビーネは少しだけ笑いそうになる。
「いつも思うのだけれど」
「はい」
「もう少し婉曲に聞けないの?」
「眠れない夜に婉曲は役に立ちません」
それもそうかもしれない。
サビーネはカップを両手で包みながら、しばらく考えた。
「……王族の見切り、かしら」
「第二王子殿下が距離を置かれ始めている話ですか」
「ええ」
「それは意外でしたか」
「意外というより……」
言葉を探す。
「もっと大きな音がするものかと思っていたの」
「大きな音?」
「断罪とか、叱責とか、そういうわかりやすいもの」
サビーネはゆっくり続ける。
「でも実際は違ったでしょう? 少しずつ席が遠くなって、言葉が減って、予定が“都合がつかない”になっていく。ああいうふうに静かに削られる方が、ずっと怖いのねって」
マルゴは静かに聞いていた。
「そして」
サビーネは視線を落とす。
「そういう空気の中に、私も長くいたのかもしれないと思ったの」
「お嬢様も?」
「ええ。婚約者としては隣にいたけれど、たぶんずっと“本当に大事にされる位置”にはいなかったんじゃないかって」
口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
昼間は整理して考えられることでも、夜になると急に生々しくなる。
「殿下は私を必要としていたわ。でもそれは……」
そこで少し言葉に詰まる。
「私自身ではなく、私が整えるものを、だったのかもしれない」
マルゴはすぐには返事をしなかった。
否定しないのが、この侍女らしい。
「……それが今さら、思ったより痛かったの」
ぽつりとこぼす。
言ったあとで、少し恥ずかしくなった。そんなこと、もうとっくにわかっていたはずではないかと、自分で自分へ言いたくなる。
でも、わかっていることと、ちゃんと痛いことは別だった。
「お嬢様」
マルゴが静かに言う。
「はい」
「それは、かなり当然の痛みです」
サビーネは少しだけ顔を上げた。
「当然?」
「ええ」
マルゴはためらわない。
「誰かのために使った時間や手間が、“あなたではなく、都合のよさが必要だっただけ”みたいに見える時、人は普通に傷つきます」
普通に。
その言葉が妙に胸へ落ちた。
「でも、みっともないわよね」
「なぜです」
「だって、今さらそんなことで」
「今さらではございません」
マルゴはぴしゃりと言う。
「むしろ今だからです。お嬢様はやっと、手を離したあとで見えてきたのでしょう?」
サビーネは返事ができなかった。
その通りだったからだ。
婚約中は、考える暇もなかった。次の失言、次の贈答、次の夜会、その処理でいつも先回りしていたから。離れたあとでようやく、自分が何に使われていたのか、その輪郭が見え始めたのだ。
見えてしまったから、痛い。
「……ねえ、マルゴ」
「はい」
「私、劇場ではちゃんと立てたでしょう?」
「ええ」
「茶会でも、王宮でも、それなりにやれていたと思うの」
「はい」
「でも、夜になると急に弱くなるのよ」
言ってから、少し笑った。
「情けないわね」
「別に」
マルゴはあっさり言う。
「昼に立てる方の夜が弱いのは、むしろ自然では」
その言い方が少し可笑しくて、サビーネは息を漏らした。
「全部強い人なんて、そうおりません」
「いるかと思っていたわ」
「お嬢様は時々、理想像の設定が過酷です」
たしかにそうかもしれない。
完璧に立ち、完璧に返し、完璧に傷つかず、完璧に前を向く。そんな女がいたとしても、たぶん近くにはいたくない。
「でも」
マルゴが少し声を和らげた。
「今、こうして弱音を吐けているなら、それで十分ではございませんか」
「十分?」
「はい。昼は立つ。夜は弱る。たまに笑う。必要な時は怒る」
マルゴは指を折るでもなく、当然のように並べる。
「人として、だいぶ健全です」
健全。
父も最近、似たような言葉を使った気がする。
腹を立てるのは健全だと。
どうやら自分の周囲には、感情をちゃんと持っていることを肯定する人間が思ったよりいるらしい。
「あなた、本当に最近、たまに優しいわね」
サビーネが言うと、マルゴは真顔のまま返した。
「たまに、でございます」
「その“たまに”を強調するの、好きね」
「価値が上がりますので」
もう、どこまで本気なのかわからない。
でも、その調子がありがたい。
回廊の外では夜風が少し強くなり、庭木の葉が擦れる音がした。屋敷の中は静かだ。皆それぞれの持ち場へ下がり、眠るべき者は眠り、見張るべき者は起きている。
その中で、自分だけがこうして弱音を吐いている。
でも、悪くないと思えた。
「……私ね」
サビーネは小さく言った。
「もし、あの人がもっと早く、ちゃんと私を見ていたらって、少しだけ考えてしまうことがあるの」
マルゴは黙っている。
「そうしたら、あそこまで傷つかずに済んだのかしらとか。あんなふうに劇場で立たされる前に、別の形があったのかしらとか」
夜にだけ浮かぶ、意味のない想像。
答えのない問い。
「でもたぶん」
サビーネは自分で続きを言う。
「そうじゃないのよね」
「ええ」
マルゴが静かにうなずく。
「見ない方だったから、ここまで来たのでしょう」
残酷なほど正しい。
セドリックは見なかった。
だから今がある。
もし見る人だったなら、そもそもこんな形にはなっていない。
そう思うと、少しだけ吹っ切れる。
あり得たかもしれない優しい未来を夢見るより、最初からその男には無理だったのだと認める方が、よほど楽だ。
「……そうね」
「はい」
「私、ようやくそこまで来たのかもしれないわ」
マルゴが少しだけ目を細めた。
「よろしいことです」
「それにしても」
サビーネはカップの底を見ながら言う。
「こういうことを夜中に言ってると、本当に弱い女みたいね」
「お嬢様」
「何」
「弱い時に弱いと言える方が、案外強いものです」
その言い方は、少しだけずるい。
そう言われると、もう“こんなことを言ってはいけない”とは思えなくなる。
「……本当に、口のうまい侍女だわ」
「ありがたいことです」
しばらくして、サビーネはようやく大きく息を吐いた。
さっきまで胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけている。
何も解決していない。
王宮はまだ動くだろう。
王子もオディールも、きっとこれからもっと崩れる。
その余波がまたこちらへ来ることだってある。
でも、今夜くらいはいい。
こうして弱音を吐いて、ちゃんと痛かったと認めて、それでも明日になればまた立つ。それで十分なのだと思えた。
「もう少ししたら、寝られそう?」
マルゴが聞く。
「ええ。たぶん」
「では、その前にもう一つだけ」
「何かしら」
「笑ってくださいませ」
唐突すぎて、サビーネは目を瞬いた。
「どうして」
「お顔が少し沈みすぎましたので」
「命令?」
「提案です」
そう言われて、サビーネは少しだけ口元を上げた。無理にではなく、本当に少しだけ。
するとマルゴは満足したようにうなずく。
「それで結構です」
「変な侍女」
「存じております」
サビーネは立ち上がり、回廊の向こうに広がる夜の庭を見た。
昼よりずっと静かで、ずっと正直な庭。
そこへ立つと、自分も少しだけ正直になれる気がする。
初めての弱音、というほど大げさなものではないのかもしれない。
でもたぶん、こんなふうに誰かの前で、自分が本当に痛かった場所を言葉にしたのは、これが初めてだった。
それだけで、夜の色が少し違って見える。
「戻りましょうか」
マルゴが言う。
「ええ」
サビーネは頷いた。
明日もきっと、またいろいろある。
けれど今夜はもう、それでいい。
弱音を吐いても、立てなくなるわけではない。
むしろ少しだけ、明日のために軽くなる。
そういう夜も、たぶん必要なのだ。
その夜、サビーネはなかなか寝つけなかった。
疲れていないわけではない。むしろここ数日ずっと気を張っていたせいで、体のあちこちは重かった。けれど、疲れている時ほど妙に頭だけ冴えることがある。今夜はまさにそれだった。
寝台へ入っても、王宮の小応接室で交わされた曖昧な言葉がよみがえる。
劇場の壇上でセドリックが立ち上がった時の顔も。
オディールが侯爵家へ来て、混乱した目で「どうしたらいいのかわからない」と言った声も。
そして最後には、今日聞いた王族の見切りの話まで胸の内を巡る。
人は、眠れない夜ほど余計なものをよく思い出す。
サビーネは小さく息を吐いて、寝台から身を起こした。
部屋は暗い。けれど月の光が薄く差し込んでいて、何も見えないわけではない。窓の外では庭の木々が夜風にかすかに揺れ、遠くで噴水の水音がしている。
静かだった。
静かすぎて、自分の心の中の音ばかり大きくなる。
「……いやね」
誰にともなく呟く。
こういう夜は、昔から得意ではなかった。昼間に完璧な顔をしているぶん、夜になるとその反動が出る。誰にも見せない代わりに、一人で勝手に疲れるのだ。
寝間着の上へ薄いガウンを羽織り、サビーネはそっと部屋を出た。
この時間なら大抵の使用人は持ち場へ下がっているし、廊下も静かだ。屋敷に長く住んでいれば、どのあたりが一番人目につきにくいかくらいは自然とわかる。
階下へ下り、小さな中庭に面した回廊へ出る。
夜気は思ったより冷たかったが、頭を冷やすにはちょうどよかった。
昼間なら薔薇の香りがする場所だが、今は湿った土と石の匂いの方が強い。そういうところも、夜は正直だと思う。
「お嬢様」
不意に声がして、サビーネは少しだけ肩を揺らした。
振り向けば、回廊の柱の影にマルゴが立っていた。驚いた顔はしていない。まるで“そろそろ出ていらっしゃる頃だと思っていました”と言いたげな顔である。
「……あなた、何でもいるわね」
「それはお褒めの言葉でしょうか」
「半分は」
「残り半分も頂戴いたします」
相変わらずだ。
その相変わらずさに、少しだけ息が楽になる。
「眠れませんでしたか」
マルゴが近づきながら聞く。
「少しだけ」
「少し、ですか」
「かなり、かもしれないわ」
「正確で結構です」
サビーネは回廊の石壁へ軽く寄りかかった。
「あなたこそ、どうしてここにいるの」
「お嬢様が眠れないだろうと思いまして」
「わかるの?」
「ええ。今日はお顔がそうでした」
この侍女は本当に、いつからこんなに自分の顔を読めるようになったのだろう。
いや、昔からなのかもしれない。こちらが見ないふりをしていただけで。
「お茶をお持ちしましょうか」
マルゴが言う。
「今から?」
「はい。温かい方がよろしいかと」
サビーネは少し迷ったが、すぐに頷いた。
「お願い」
マルゴが一度下がり、しばらくして小さな盆を持って戻ってくる。夜用の淡い香りの茶と、喉を湿らせる程度の薄い甘味。さすがにこの時間に重いものは出さないらしい。
二人は回廊に面した小卓のそばへ腰を下ろした。
しばらく無言で湯気を眺める。
こうして黙っていても苦にならないのは、ありがたいことだ。
先に口を開いたのは、やはりマルゴだった。
「お嬢様」
「何」
「本日は、何がいちばん刺さりましたか」
問い方が相変わらず飾り気なくて、サビーネは少しだけ笑いそうになる。
「いつも思うのだけれど」
「はい」
「もう少し婉曲に聞けないの?」
「眠れない夜に婉曲は役に立ちません」
それもそうかもしれない。
サビーネはカップを両手で包みながら、しばらく考えた。
「……王族の見切り、かしら」
「第二王子殿下が距離を置かれ始めている話ですか」
「ええ」
「それは意外でしたか」
「意外というより……」
言葉を探す。
「もっと大きな音がするものかと思っていたの」
「大きな音?」
「断罪とか、叱責とか、そういうわかりやすいもの」
サビーネはゆっくり続ける。
「でも実際は違ったでしょう? 少しずつ席が遠くなって、言葉が減って、予定が“都合がつかない”になっていく。ああいうふうに静かに削られる方が、ずっと怖いのねって」
マルゴは静かに聞いていた。
「そして」
サビーネは視線を落とす。
「そういう空気の中に、私も長くいたのかもしれないと思ったの」
「お嬢様も?」
「ええ。婚約者としては隣にいたけれど、たぶんずっと“本当に大事にされる位置”にはいなかったんじゃないかって」
口にした瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
昼間は整理して考えられることでも、夜になると急に生々しくなる。
「殿下は私を必要としていたわ。でもそれは……」
そこで少し言葉に詰まる。
「私自身ではなく、私が整えるものを、だったのかもしれない」
マルゴはすぐには返事をしなかった。
否定しないのが、この侍女らしい。
「……それが今さら、思ったより痛かったの」
ぽつりとこぼす。
言ったあとで、少し恥ずかしくなった。そんなこと、もうとっくにわかっていたはずではないかと、自分で自分へ言いたくなる。
でも、わかっていることと、ちゃんと痛いことは別だった。
「お嬢様」
マルゴが静かに言う。
「はい」
「それは、かなり当然の痛みです」
サビーネは少しだけ顔を上げた。
「当然?」
「ええ」
マルゴはためらわない。
「誰かのために使った時間や手間が、“あなたではなく、都合のよさが必要だっただけ”みたいに見える時、人は普通に傷つきます」
普通に。
その言葉が妙に胸へ落ちた。
「でも、みっともないわよね」
「なぜです」
「だって、今さらそんなことで」
「今さらではございません」
マルゴはぴしゃりと言う。
「むしろ今だからです。お嬢様はやっと、手を離したあとで見えてきたのでしょう?」
サビーネは返事ができなかった。
その通りだったからだ。
婚約中は、考える暇もなかった。次の失言、次の贈答、次の夜会、その処理でいつも先回りしていたから。離れたあとでようやく、自分が何に使われていたのか、その輪郭が見え始めたのだ。
見えてしまったから、痛い。
「……ねえ、マルゴ」
「はい」
「私、劇場ではちゃんと立てたでしょう?」
「ええ」
「茶会でも、王宮でも、それなりにやれていたと思うの」
「はい」
「でも、夜になると急に弱くなるのよ」
言ってから、少し笑った。
「情けないわね」
「別に」
マルゴはあっさり言う。
「昼に立てる方の夜が弱いのは、むしろ自然では」
その言い方が少し可笑しくて、サビーネは息を漏らした。
「全部強い人なんて、そうおりません」
「いるかと思っていたわ」
「お嬢様は時々、理想像の設定が過酷です」
たしかにそうかもしれない。
完璧に立ち、完璧に返し、完璧に傷つかず、完璧に前を向く。そんな女がいたとしても、たぶん近くにはいたくない。
「でも」
マルゴが少し声を和らげた。
「今、こうして弱音を吐けているなら、それで十分ではございませんか」
「十分?」
「はい。昼は立つ。夜は弱る。たまに笑う。必要な時は怒る」
マルゴは指を折るでもなく、当然のように並べる。
「人として、だいぶ健全です」
健全。
父も最近、似たような言葉を使った気がする。
腹を立てるのは健全だと。
どうやら自分の周囲には、感情をちゃんと持っていることを肯定する人間が思ったよりいるらしい。
「あなた、本当に最近、たまに優しいわね」
サビーネが言うと、マルゴは真顔のまま返した。
「たまに、でございます」
「その“たまに”を強調するの、好きね」
「価値が上がりますので」
もう、どこまで本気なのかわからない。
でも、その調子がありがたい。
回廊の外では夜風が少し強くなり、庭木の葉が擦れる音がした。屋敷の中は静かだ。皆それぞれの持ち場へ下がり、眠るべき者は眠り、見張るべき者は起きている。
その中で、自分だけがこうして弱音を吐いている。
でも、悪くないと思えた。
「……私ね」
サビーネは小さく言った。
「もし、あの人がもっと早く、ちゃんと私を見ていたらって、少しだけ考えてしまうことがあるの」
マルゴは黙っている。
「そうしたら、あそこまで傷つかずに済んだのかしらとか。あんなふうに劇場で立たされる前に、別の形があったのかしらとか」
夜にだけ浮かぶ、意味のない想像。
答えのない問い。
「でもたぶん」
サビーネは自分で続きを言う。
「そうじゃないのよね」
「ええ」
マルゴが静かにうなずく。
「見ない方だったから、ここまで来たのでしょう」
残酷なほど正しい。
セドリックは見なかった。
だから今がある。
もし見る人だったなら、そもそもこんな形にはなっていない。
そう思うと、少しだけ吹っ切れる。
あり得たかもしれない優しい未来を夢見るより、最初からその男には無理だったのだと認める方が、よほど楽だ。
「……そうね」
「はい」
「私、ようやくそこまで来たのかもしれないわ」
マルゴが少しだけ目を細めた。
「よろしいことです」
「それにしても」
サビーネはカップの底を見ながら言う。
「こういうことを夜中に言ってると、本当に弱い女みたいね」
「お嬢様」
「何」
「弱い時に弱いと言える方が、案外強いものです」
その言い方は、少しだけずるい。
そう言われると、もう“こんなことを言ってはいけない”とは思えなくなる。
「……本当に、口のうまい侍女だわ」
「ありがたいことです」
しばらくして、サビーネはようやく大きく息を吐いた。
さっきまで胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけている。
何も解決していない。
王宮はまだ動くだろう。
王子もオディールも、きっとこれからもっと崩れる。
その余波がまたこちらへ来ることだってある。
でも、今夜くらいはいい。
こうして弱音を吐いて、ちゃんと痛かったと認めて、それでも明日になればまた立つ。それで十分なのだと思えた。
「もう少ししたら、寝られそう?」
マルゴが聞く。
「ええ。たぶん」
「では、その前にもう一つだけ」
「何かしら」
「笑ってくださいませ」
唐突すぎて、サビーネは目を瞬いた。
「どうして」
「お顔が少し沈みすぎましたので」
「命令?」
「提案です」
そう言われて、サビーネは少しだけ口元を上げた。無理にではなく、本当に少しだけ。
するとマルゴは満足したようにうなずく。
「それで結構です」
「変な侍女」
「存じております」
サビーネは立ち上がり、回廊の向こうに広がる夜の庭を見た。
昼よりずっと静かで、ずっと正直な庭。
そこへ立つと、自分も少しだけ正直になれる気がする。
初めての弱音、というほど大げさなものではないのかもしれない。
でもたぶん、こんなふうに誰かの前で、自分が本当に痛かった場所を言葉にしたのは、これが初めてだった。
それだけで、夜の色が少し違って見える。
「戻りましょうか」
マルゴが言う。
「ええ」
サビーネは頷いた。
明日もきっと、またいろいろある。
けれど今夜はもう、それでいい。
弱音を吐いても、立てなくなるわけではない。
むしろ少しだけ、明日のために軽くなる。
そういう夜も、たぶん必要なのだ。
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「なんだ!」
レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。
「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」
私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。
全31話、約43,000文字、完結済み。
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