『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十三話 王族の見切り

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第二十三話 王族の見切り

 王宮という場所は、情より先に空気が動く。

 誰かが失敗した時、その本人が何を感じているかより、まわりがどう距離を取るかの方がずっと早い。昨日まで笑っていた者が、今日は少しだけ言葉を減らす。昨日まで自分から寄ってきた者が、今日は予定を理由に席を外す。

 そういう微細な変化が積み重なって、やがて当人にもわかる形になる。

 いま、第二王子セドリックの周囲では、それが始まっていた。

 王宮東棟の一角にある第二王子執務室は、見た目だけなら以前と変わらない。磨かれた机、整えられた本棚、季節の花を生けた壺、王家の紋章入りの便箋。けれど、その中を流れる空気だけが明らかに違っていた。

 人が少ないのだ。

 正確には、必要最低限しかいない。

 以前なら、侍従が少し余裕をもって立ち、書記官が次の案件を控え、時には顔を売りたい若い貴族までが用もないのに出入りしていた。だが今は違う。いるのは、本当に退けない者だけ。しかも、皆どこか距離を取っている。

 それが何より、セドリックには耐えがたかった。

「この招待状の返事はどうなっている」

 机に肘をついたまま、セドリックが問う。

 声は荒れていない。荒れていないが、その分だけ苛立ちが滲んでいた。

 侍従長補佐が一礼して答える。

「まだ返答待ちが三家ございます」

「遅いな」

「はい」

「催促は」

「いたしました」

「それで?」

「本日はご都合がつかない、とのお返事で」

 またそれだ。

 都合がつかない。予定が重なっている。近日中に改めて。いずれも社交界で最も便利な距離の取り方だった。はっきり断絶はしない。だが今は近づかない、という意思だけは十分に伝わる。

 セドリックは、机上の紙を苛立たしげに指で弾いた。

 先日の劇場での件以来、こういう返答ばかり増えた。露骨に無礼ではない。だが確実に、扱いが軽くなっている。

 それを認めるのは癪だった。

「……たかが数家だろう」

 自分へ言い聞かせるように言う。

 侍従長補佐は答えない。

 たかが数家。だがその数家が、今は妙に大きい。上位貴族の夫人たちは互いの顔色を見て動く。一家が引けば、別の家も様子を見る。そうしていつの間にか、場の空気そのものが変わる。

 前なら、その手前で整っていた。

 誰が引き始めているか。どこへ先に言葉をかけるべきか。誰の機嫌を傷つけずに順番を変えるべきか。

 そうした小さな調整が、今は見えない。

 いや、見えていたのに、自分はそれをしていなかっただけなのだろう。

「殿下」

 書記官が控えめに声を出す。

「本日の午後、王妃殿下付き女官長がお時間を」

 セドリックは顔をしかめた。

「母上が?」

「いえ、正確には女官長より、“今後の公的行事について整理したい”とのことです」

 整理。

 また、その言葉だった。

 整理という名の見切り。

 何が削られ、何が残されるのかを決めるための会話だとわかるから、なおさら気分が悪い。

 セドリックは立ち上がり、窓辺へ歩いた。庭では侍女たちが遠くを横切っていく。誰もこちらを見上げない。その何でもなさが、今はかえって癇に障る。

 最近、王妃付きの者たちの目も変わった。前はもっと丁寧に気を配っていたはずだ。失言があっても、夜会で気まずい空気が流れても、すぐに誰かが整えてくれた。

 だが今は違う。

 皆、少しだけ引いている。

 まるで、自分に近すぎると泥を浴びると知ったように。

 その日の午後、王妃付き女官長アデルハイドは、予定通り小応接室に現れた。

 年齢のわりに姿勢が驚くほど崩れず、声も表情も穏やかだ。だがその穏やかさの下に、鋼のような硬さがある。王妃の傍で長く働く女は、大抵そういう顔をする。

「第二王子殿下」

 きっちりと一礼してから、彼女は椅子へ腰を下ろした。

「お時間をいただきありがとうございます」

「何の話だ」

「今後の公的行事へのご出席について、少々」

 やはりそれだ。

 セドリックは椅子の背にもたれたまま、眉を寄せる。

「少々とは」

「しばらくの間、殿下には一部の催しからお身を引いていただくのがよろしいかと」

 あまりにも淡々と言われたので、セドリックは一瞬理解が追いつかなかった。

「……何だと」

「慈善事業関連の行事、劇場支援関係の夜会、ならびに一部の上位貴族家主催の晩餐につきましては」

「私を外すというのか」

 アデルハイド女官長は少しも慌てない。

「今の空気を考えますと、殿下ご自身のご負担が増えるだけかと存じます」

 言い方がうまい。

 殿下を守るため。負担を減らすため。そういう形へ整えている。だが中身は同じだ。

 出すと面倒だから、外す。

 それだけだ。

「馬鹿な」

 セドリックは低く吐き捨てた。

「私が王族であることに変わりはない」

「もちろんでございます」

「ならば、なぜ私が引かねばならん」

「王族であるからこそ、でございます」

 その返しがいちばん痛い。

 王族だから守られるのではない。王族だからこそ、表へ出してはいけない時がある。つまり今の自分は、王家にとって“出さぬ方が安全な存在”になっているのだ。

 セドリックは口をつぐんだ。

 認めたくない。だが、女官長の顔は少しも揺れない。これは彼女個人の意見ではなく、すでに王妃周辺で決まった空気なのだろう。

「それと」

 アデルハイドはさらに続けた。

「今後、メルヴィ嬢との公的な同席も、当面はお控えいただければと」

 セドリックの指先がぴくりと動く。

「……彼女は関係ない」

「そうであるなら、なおさらでございます」

 やわらかい声で、容赦なく切る。

「今の時期に同席が続けば、先日の件を殿下ご自身がさらに強調なさる形になりますので」

 反論できない。

 劇場での説明会で、あの夜の意味はすでに固定され始めている。そこへなおオディールを公に連れ歩けば、“あれはやはり王子の私情だった”と自分で証明するようなものだ。

 アデルハイドは膝の上で手を重ねたまま、静かに言った。

「王妃殿下も、殿下には少しお静かにお過ごしいただきたいとのことでございました」

 お静かに。

 なんて丁寧で、なんて冷たい言葉だろう。

 セドリックはその場では何も言えなかった。

 怒鳴ればますます幼く見える。かといって受け入れれば、自分が切り離されていくのを認めるようで嫌だった。

 アデルハイドはそんな彼を見て、ほんの少しだけ目を伏せた。

「殿下」

「何だ」

「いま必要なのは、押し返すことではなく、立て直しでございます」

 その一言が、妙に腹立たしかった。

 立て直し。
 では今の自分は、傾いた家具か何かだというのか。

 だが彼女は、それ以上何も言わずに退出した。

 部屋へ残った沈黙は、ひどく重かった。

 その頃、サビーネはクラヴェル伯爵夫人の小さな集まりへ顔を出していた。

 集まりといっても、前回の茶会よりずっと小規模だ。夫人と、その近しい婦人が二人、それにサビーネ。話題は表向きには春の催しと慈善会計の残務確認だったが、実際にはもっと別の空気が流れていた。

「聞いたわ」

 クラヴェル伯爵夫人が紅茶を置きながら言う。

「何をですか」

「王妃殿下のまわりが、第二王子殿下を少しお静かにさせたいそうよ」

 やはり早い。

 いや、この人たちにとっては、それが普通なのだろう。王宮の空気が変わる時、最初に匂いを嗅ぎ取るのはたいていこういう夫人たちだ。

「そうですか」

 サビーネはそれだけ返した。

 驚いて見せる必要はないし、喜ぶのも違う。ここで大げさな反応をすると、かえってこちらが“王家の失点を待ち構えていた女”に見える。

 クラヴェル伯爵夫人は、その静けさを見て少しだけ目を細めた。

「あなた、本当に以前よりずっと落ち着いたわね」

「そうかしら」

「ええ。前なら、もう少しご自分を責める顔をしていたわ」

 図星だった。

 サビーネはカップの縁へ指を添えながら、少しだけ笑った。

「最近、周囲にうるさい方々がおりますので」

「まあ、誰かしら」

「毒舌な侍女や、必要以上の意味はないとわざわざ書いてよこす監督官など」

 クラヴェル伯爵夫人が思わず扇の陰で笑う。

「それはまた、ずいぶん面白い顔ぶれね」

「ええ。本当に」

 否定はできない。

 そして、その“面白い顔ぶれ”のおかげで、自分が少しずつ変わってきたのも事実だった。

 前の自分なら、セドリックが切り離され始めていると聞けば、胸のどこかが痛んだだろう。あの人は大丈夫なのか、自分のせいで困っているのではないか、と。

 でも今は違う。

 気の毒とまでは思わない。
 ただ、“ああ、王族の見切りとはこういうものなのね”と、少し離れた位置から見られる。

 たぶんそれは、自分がようやく手を離せた証拠なのだ。

 伯爵夫人がふいに声を落とした。

「サビーネ様」

「はい」

「あなたは、殿下が見切られ始めていると聞いて、少しも揺れないのね」

 サビーネは数秒考えた。

 揺れないわけではない。
 長く婚約者だった人間が崩れていく話を聞いて、何も感じないほど乾いてはいない。
 でも、昔のような痛み方ではなくなった。

「……揺れますわ」

 正直に言う。

「でも、戻りたいとは思いません」

 その答えに、クラヴェル伯爵夫人は静かにうなずいた。

「それで十分よ」

 十分。

 その言葉が、妙にやさしく聞こえた。

 帰りの馬車の中で、サビーネは窓の外を見ていた。

 街はいつも通りに動いている。店先の灯り、往来を行く人、夕方の冷たい色。王族が見切られようが、婚約が壊れようが、王都そのものは驚くほど平然としている。

 それでも、その中で人の扱いは少しずつ変わる。

 昨日まで中央にいた者が、今日は少し脇へ寄せられる。
 昨日まで守られていた者が、今日は様子見にされる。

 いま、セドリックがそれを味わっている。

 たぶん、オディールも。

「お嬢様」

 向かいのマルゴが言った。

「何」

「だいぶ、静かになりましたね」

「私が?」

「はい。前はもっと、“どうしてこんなことに”というお顔をよくなさっていました」

 サビーネは少しだけ目を伏せた。

 そうかもしれない。

 どうしてこんなことに、と問う時期は過ぎたのだろう。
 今はもう、“こんなことになったものを、どう整えるか”の方へ頭が動いている。

「……強くなったのかしら」

 ぽつりとこぼすと、マルゴは首を傾げた。

「強いというより」

「何よ」

「余計なものを手放せるようになったのでは」

 その表現が、妙にしっくりきた。

 愛想。遠慮。責任でもない責任感。自分が支えねばならないという思い込み。
 そういうものを少しずつ剥がしてきた結果、ようやく静かになれたのかもしれない。

 馬車は侯爵家の門へ滑り込む。

 灯りのともった屋敷を見上げながら、サビーネは思った。

 王族の見切りとは、思ったより派手ではなかった。
 誰かが大声で断罪するわけでもない。
 ただ、少しずつ席が遠くなり、声が減り、名前が後ろへ下がっていく。

 でも、だからこそ痛いのだろう。

 そしてその痛みは、たぶんこれからじわじわとセドリックの中へ染みていく。

 華やかな舞台の中央に立っていたつもりの男が、気づけば照明の外へ押し出されていることを、いやでも知る形で。
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