『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十二話 地味な贈り物

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第二十二話 地味な贈り物

 翌朝、サビーネは少しだけ寝坊した。

 寝坊といっても、侯爵家の娘として許される範囲のわずかな遅れにすぎない。太陽が高くなってからようやく起き出すような真似ではないし、朝食の時間を大きく狂わせたわけでもない。

 それでも、目を覚ました瞬間に自分でもわかった。

 疲れていたのだ。

 昨日一日、気を張りつめていた。セヴェール伯爵夫人への訪問、帰り道の不自然な視線、夜道の護衛、そして帰宅後にどっと来た疲労。頭ではまだ考えられても、体の方は正直だったらしい。

「お嬢様」

 寝台の天蓋越しに聞こえた声で、サビーネはようやく瞼を開いた。

 マルゴがカーテンの隙間から光を確かめるように立っている。

「……今、何時かしら」

「いつもより少々遅い時刻でございます」

「便利な言い方ね」

「寝坊なさいました、とは申しません。少しお疲れだったのでしょう」

 そこだけは微妙に優しい。

 サビーネは上体を起こし、枕元へ手をやった。まだ頭が少し重い。でも、嫌な重さではなかった。前みたいに胸の奥がどろりと沈む感じではなく、単純に“疲れた翌朝”の重さだ。

 そのことに、少しだけほっとする。

「お父様は?」

「すでに書斎でございます」

「怒ってる?」

「寝坊に関しては、そこまででも」

「そこまででも、ってことは別件では怒っているのね」

「王宮がまだ静かですので」

 なるほど。

 王宮が静かな時は、たいてい何かを練っている時だ。父が機嫌を悪くするには十分な理由だろう。

 マルゴが窓のカーテンを開けると、午前の光が部屋へゆるやかに流れ込んだ。空はよく晴れていて、庭の薔薇もきちんと朝の顔をしている。

 昨夜はあれほど夜道の暗さが気になったのに、朝になると世界は何も知らないふりをする。

「お顔色は悪くありません」

 マルゴが言う。

「本当に?」

「はい。ただ、少しぼんやりしております」

「朝から辛辣ね」

「事実ですので」

 はいはい、それね、と思いながら、サビーネは寝台から降りた。

 朝の支度は滞りなく進んだ。髪を整え、淡い色の部屋着から日中用の軽いドレスへ着替える。鏡に映る自分の顔は、少しだけやわらかかった。

 劇場の説明会を終え、オディールの崩壊が広まり、王子の綻びも表へ出始めている。もちろんまだ何も終わってはいない。むしろ、これから先の方が面倒かもしれない。

 それでも以前ほど、“次に何が来るのか何もわからない”という怖さはない。

 見えてきたのだ。
 相手がどう崩れ、どこで足を取られ、何を取り繕おうとしているのかが。

 それは案外、人を落ち着かせる。

 遅めの朝食を済ませ、自室へ戻ったところで、マルゴが扉の外から控えめに声をかけた。

「お嬢様」

「何かしら」

「贈り物が届いております」

 サビーネは思わず手を止めた。

 贈り物。

 その単語だけで、先日の宝石箱がよみがえる。名目のない高価な品。王家の紋章。気持ちではなく処理の匂いがする箱。

 サビーネの顔がわずかに曇ったのを見て、マルゴが付け加える。

「今回は大きな箱ではございません」

「……誰から?」

「差出人の名はございます」

 そこまで聞いて、サビーネは少しだけ息を整えた。

「見せて」

 マルゴが持ってきたのは、本当に小さな箱だった。片手で十分持てるくらいの控えめなもの。包み紙は上質だが、華美ではない。差出人の名を示すカードが一枚添えられている。

 ヨアヒム・ベルナール

 サビーネは数秒、黙ってそれを見つめた。

「……監督官から?」

「はい」

「あなた、知っていたの?」

「いえ。先ほど門番から受け取ったばかりです」

「中身は?」

「確認しておりません」

 珍しい。
 マルゴなら先に毒味でもしそうなものなのに。

「開けてよろしいですか」

「ええ」

 マルゴが慎重に包みを解く。

 中から現れたのは、宝石箱どころではない、本当に小さな紙箱だった。蓋を開けると、そこには蜂蜜をしみ込ませた焼き菓子が並んでいる。素朴な色合いで、王家が送ってきた品みたいな仰々しさは一切ない。

 横に、小さな紙片が一枚。

 サビーネがそれを手に取る。

 短い字で、こう書かれていた。

 “昨日はお疲れが見えましたので。喉に負担の少ないものを選びました。必要以上の意味はございません。 ヨアヒム・ベルナール”

 数秒、沈黙した。

 それから、サビーネは自分でもわかるくらい変な顔になった。

「……何かしら、これ」

 マルゴが箱を覗き込み、即答する。

「地味な贈り物ですね」

「そういう話ではなくて」

「監督官らしいとも申せます」

 たしかに、と思ってしまうのが悔しい。

 宝石ではない。花でもない。香水でもなければ、高価な茶葉でもない。
 蜂蜜菓子。
 しかも、喉に負担の少ないものを選びました、と来た。

 浪漫も何もない。
 だが逆に、その飾り気のなさが妙におかしい。

「必要以上の意味はございません、ですって」

 サビーネが読み上げると、マルゴが真顔で言った。

「必要以上の意味があると思われるのを警戒しているのでしょうね」

「そこまで書く?」

「書く方です」

 ものすごく、書きそうだった。

 サビーネは紙片をもう一度見た。字もきっちりしていて、余計な飾りがない。報告書の末尾みたいな文面なのに、送ってきたものは焼き菓子。

 妙なちぐはぐさが、逆に彼らしい。

「……これ、お父様はご存じ?」

「まだ」

「先にお伝えした方がよろしいでしょうか」とマルゴが続ける。

 サビーネは一瞬迷った。

 隠す気はない。隠したところで、後で変な形になる方が面倒だ。だが、これを父へどう説明したものか。

 監督官から、喉にやさしい蜂蜜菓子が届きました。必要以上の意味はないそうです――。

 言葉にすると、妙に可笑しい。

「先に私が伝えるわ」

「承知しました」

 でも、その前に。

 サビーネは箱へ手を伸ばした。

「一つ、いただいても?」

「もちろん」

 焼き菓子は見た目通り素朴だった。蜂蜜の香りがやさしくて、口へ入れると思ったよりしっとりしている。甘すぎず、たしかに喉へ引っかからない。

 上等な宝飾より、よほど実用的だ。

「……おいしいわ」

 ぽつりと言うと、マルゴが即座に返した。

「でしょうね」

「食べる前から何でわかるの」

「この手の贈り物で、まずくては意味がございませんので」

 それはそうだ。

 サビーネはもう一つ食べるのをこらえ、箱を閉じた。

 それから紙片を改めて読み直す。昨日はお疲れが見えましたので。必要以上の意味はございません。

 気遣っている。
 でも、押しつけない。
 気遣いを見せるくせに、そこへ余計な意味を乗せないよう、先回りまでしている。

 なんというか……本当に、あの人らしい。

「お嬢様」

 マルゴが言った。

「何」

「少し顔がゆるんでおります」

 サビーネははっとした。

「そんなこと」

「ございます」

 きっぱり言う。

「しかも、かなり」

「あなた、最近その指摘ばかりね」

「変化が見て取れますので」

 変化。

 その言葉に、サビーネは少しだけ考えた。

 そうだろうか。
 少なくとも、王家の宝石箱を見た時の冷たさとはまるで違う。こちらは困惑しているし、呆れてもいる。なのに、不快ではない。

 むしろ、少しだけ嬉しいのだ。

 こんな時にそんなふうに思うのは、いささか気が早いのではないかしら、と自分に言い聞かせたくなるくらいには。

「お嬢様」

 マルゴが続ける。

「率直な感想を申し上げても?」

「どうぞ」

「王家の宝石箱より百倍まともです」

 サビーネは思わず吹き出した。

「比較対象がひどいわね」

「ですが、間違ってはおりません」

 それは否定できない。

 宝石箱は、処理だった。
 こちらは、気遣いだ。
 しかも“気を遣ったので気づいてください”という押しつけがほとんどない。

 違いは大きい。

 父の書斎を訪ねると、アルフォンス侯爵は執務机の前でいつものように書類を見ていた。サビーネが入ると、すぐに顔を上げる。

「何だ」

「少し、ご報告があって」

「悪い話か」

「たぶん、そうでもないわ」

 父が片眉を上げる。

 サビーネは小箱と紙片を机の上へ置いた。

「ベルナール監督官から、お菓子が届きました」

 父は数秒黙った。

 それから、予想以上に静かな声で言う。

「……菓子?」

「ええ。蜂蜜の焼き菓子」

「監督官から」

「ええ」

「なぜ」

 そこは当然の疑問だろう。

 サビーネは少しだけ視線を逸らした。

「昨日、疲れて見えたからだそうです」

 父はさらに数秒黙り、それから紙片へ手を伸ばした。目でざっと文面を追い、鼻で小さく息を吐く。

「必要以上の意味はございません、か」

「ええ」

「妙な男だな」

「そこは否定いたしません」

 父は紙を机へ戻した。

「受け取ったのか」

「ええ。食べてもみたわ」

「うまかったか」

「……おいしかった」

 そこまで言うと、父はわずかに目を細めた。

 笑っているわけではない。
 でも、何かを見抜いた顔ではある。

「そうか」

 それだけ言って、書類の上へ手を戻す。

「では受け取っておけ」

「よろしいの?」

「菓子一箱で侯爵家が買われたなどとは、誰も言わん」

「ずいぶん宝石箱と扱いが違うのね」

「宝石箱は、文脈が悪すぎた」

 きっぱり言う。

「それに」

 父は少しだけ間を置いた。

「名目が明確だ」

 サビーネは目を瞬いた。

 名目。

 たしかに、そうだ。
 労い。喉への気遣い。必要以上の意味なし。
 実に明確で、逃げ道もない。

「……そうね」

「うむ」

「でも、お父様」

「何だ」

「監督官がこういうことをなさるのは、少し意外ではなくて?」

「そうか?」

 父はあっさり言った。

「必要と判断したことはする男に見える」

 その評価が妙にしっくりきて、サビーネは何も言えなくなった。

 そうだ。
 あの人は、感情的にではなく、“必要だから”こういうこともするのかもしれない。
 でも、その必要を見つけていること自体が、結局は優しさなのではないかとも思う。

 自室へ戻ると、マルゴが待っていた。

「旦那様は何と」

「受け取っておけ、ですって」

「でしょうね」

「あなた、本当に何でもわかっている顔をするわね」

「たいていそうです」

 そこまで言うのもどうかと思うが、今日ばかりは追及する気になれない。

 サビーネは小箱を机へ置き、再び蓋を開けた。

 素朴な蜂蜜菓子が静かに並んでいる。王家の宝石箱ほどの派手さはない。けれど、こちらの方がずっと胸へ残る。

「お嬢様」

 マルゴがにやりともせずに言った。

「何」

「これは、大事に食べた方がよろしいかと」

「どうして」

「次がいつ来るかわかりませんので」

「次が来る前提なの?」

「来ないとも限りません」

 その言い方が妙に可笑しくて、サビーネはまた少し笑った。

 窓の外では、午後の光が庭をやわらかく照らしている。
 王宮はまだ静かで、王都の噂はじわじわと広がり続けていて、終わったことは一つもない。
 でも、そのただ中で、こんな地味な贈り物が机の上にある。

 喉にやさしい蜂蜜菓子。必要以上の意味なし。

 その不器用さが、なぜだかたまらなく気に入ってしまっている自分に、サビーネは少しだけ困りながら、でも否定はしなかった。
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