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第二十一話 夜道の護衛
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第二十一話 夜道の護衛
オディールの崩れ方が王都へ広がった翌日、ドルレアン侯爵家には思った以上に静かな朝が来た。
静か、といっても何も起きていないわけではない。
むしろ逆だ。
大きな波が一度打ち寄せたあとの海みたいに、水面だけが妙に落ち着いて見えているだけだった。
王宮からの正式な文はまだない。
第二王子セドリックも表立っては動かない。
オディールも、少なくとも今日は侯爵家へ押しかけてきてはいない。
だからこそ、かえって不気味だった。
朝食後、父はいつものように書類へ目を通しながら言った。
「今日は外へ出る用事があったな」
サビーネはナプキンを整えながらうなずく。
「ええ。慈善会計の報告書を、セヴェール伯爵夫人のもとへ届ける約束がございます」
本来なら家令や使用人へ任せてもよい用件だ。
けれど今回ばかりはそうもいかなかった。先日の劇場騒動のせいで、慈善晩餐会に名を連ねていた人々の中には、自分たちの名前がどう扱われたのかを気にしている者も多い。
サビーネ自身が整理した数字と経緯を、きちんと伝える必要がある。
「延期は?」
「なさらない方がよろしいかと」
サビーネが答える前に、横からマルゴが言った。
父が片眉を上げる。
「理由は」
「今のお嬢様が外へ出ること自体に意味がございます」
相変わらず遠慮がない。
だが、父ももうこの侍女の物言いに慣れているらしい。
「つまり」
「引きこもっておりません、という意味です」
父が短くうなずいた。
「その通りだ」
サビーネは少しだけ苦笑する。
最近の自分は、本当に“出ていくこと”そのものが一つの表明になっている。
面倒な話だ。
でも、そこを避ければまた別の形で使われるのもわかっていた。
「では参ります」
「護衛を増やせ」
父が言う。
「大げさではありませんか」
「そう思っているうちは危うい」
その一言で、サビーネは口を閉ざした。
たしかにそうだ。
いま自分は、王都でかなり目立つ存在になっている。露骨な害意がすぐ向けられるとは思わないが、好奇心だけでも十分に厄介だ。
「家令から二名、それと」
父は少し間を置いた。
「監査局のベルナール監督官にも、今朝、別件でこちらへ来ると連絡があった」
サビーネは顔を上げる。
「監督官が?」
「用件次第では、お前の外出に同道させる」
それは少し意外だった。
いや、意外というより、妙に現実味がない。あの地味で無駄のない男が、侯爵令嬢の訪問に護衛のようについてくる姿が、あまりうまく想像できなかったからだ。
マルゴが、まるで何でもないことのように言う。
「ちょうどよろしいですね」
「何が」
「無駄口の少ない方が一人いると、道中が静かで済みます」
「あなた、それ失礼よ」
「事実でございますので」
もう聞き飽きた返しだった。
午前の終わり頃、ヨアヒム・ベルナールは本当に現れた。
今日もやはり、驚くほど地味だった。濃い灰色の上着に、飾り気のない仕立て。王都の男たちが競うように身につける金や銀の装飾がほとんどない。だがその代わりに、立ち姿だけが異様に整っている。
最初に見た時から思っていたが、この男は“目立たない”のではなく、“余計なものを全部削っている”のだ。
応接間で父と短く話を交わしたあと、ヨアヒムはサビーネへ向かって一礼した。
「侯爵令嬢」
「ごきげんよう、監督官」
「本日、セヴェール伯爵夫人のもとへ向かわれると」
「ええ」
「でしたら、こちらも途中まで同道いたします」
途中まで、という言い方がいかにも彼らしい。
過剰に踏み込まず、必要な分だけを示す。
「監査局のお仕事ではないのではなくて?」
少しだけからかうように言うと、ヨアヒムは表情を変えずに答えた。
「本日王宮側でも複数の使者が動いておりますので」
その一言で、部屋の空気が引き締まる。
「何かございますの」
サビーネが聞くと、彼は簡潔に答えた。
「第二王子殿下とメルヴィ嬢に関する噂が予想以上に早く回っております。王家はそれを抑えたい。となれば、流れを変えるために別の話題を必要とします」
父が低く言う。
「娘か」
「可能性はございます」
それだけで十分だった。
あからさまな危険ではない。けれど、街中で“偶然”誰かが声をかけ、妙な話を吹き込み、あるいは好奇心だけで馬車を囲む――そういう面倒は起こりうる。
「では、お願いしてもよろしいかしら」
サビーネが言うと、ヨアヒムは短くうなずいた。
「もちろんです」
出立は昼すぎになった。
侯爵家の馬車に、サビーネとマルゴ。外には家の護衛が二名。そして並走まではしないが、少し距離を置いて別の馬に乗るヨアヒムと、その補佐官ギスラン。
大げさだと思った。
でも実際に玄関を出た瞬間、その判断は間違っていなかったとわかった。
正門の向こう、通りの少し先に、人だかりとまではいかないまでも、明らかにこちらを見ている者たちが何人かいるのだ。
「……見物ね」
サビーネが小さく言うと、マルゴが平然と返した。
「ええ。お嬢様はいま、王都で少々人気者ですので」
「嬉しくない人気だわ」
「人気というものは、たいてい半分ほど迷惑です」
それもまた名言のようで、ちっともありがたくない。
馬車が動き出す。
石畳を進む車輪の音は、いつもより少しだけ耳についた。視線を感じるからだろう。窓の外には冬を越えた街路樹の枝、店先へ出た果物、荷車を押す男、そしてこちらへちらちらと目を向ける市井の人々。
王都そのものは変わらない。
変わったのは、自分の見られ方だ。
「お嬢様」
マルゴが窓の外を見ながら言った。
「何」
「いま右手に、昨日の劇場で見た顔がございます」
「夫人?」
「いいえ。夫人の侍女です」
「よく覚えているわね」
「侍女は侍女をよく見ますので」
そういうものなのだろうか。
少しだけ可笑しくなる。
しばらく進んだところで、馬車が不自然に速度を落とした。
サビーネが顔を上げる。
「どうしたの」
外から護衛の声が返る。
「申し訳ございません、お嬢様。前方で小さな混雑が」
窓の隙間から見ると、通りの向こう側で荷車が一台、車輪を石の溝へ取られて立ち往生していた。大きな騒ぎではない。だが、馬車が一度止まるには十分だ。
その瞬間、ヨアヒムが馬を寄せてきた。
「侯爵令嬢」
窓越しの声は低く落ち着いている。
「少々、お静かに」
“お静かに”という言い方に、サビーネは逆に背筋を伸ばした。
「何か」
「左手の角から、こちらをうかがっている男が三人おります」
マルゴがさっと窓の布を引く。
「どのような」
「酔漢ではございません。ですが、見物人にしては視線が近すぎる」
なるほど。
好奇心だけではない、ということだ。
護衛が前へ出る気配がする。ギスランも無言で位置を変えたらしい。馬の蹄の音が近くなった。
「ただちに危険、というほどではありません」
ヨアヒムが続ける。
「ですが、止まっている間に覗き込ませる必要もないでしょう」
「どうするの」
「少々、遠回りいたします」
それだけ言うと、彼は御者へ短く指示を飛ばした。声は大きくないのに、不思議と無駄がない。侯爵家の御者も即座に理解し、馬車がゆっくりと後ろへ下がる。
サビーネは、その一連の動きに目を見張った。
慌てない。
騒がない。
でも、対処は早い。
これが“守る”ということなのかもしれない。舞台の上で庇う芝居とは違う、静かな実務の護衛。
馬車は別の通りへ入り、しばらくすると再び安定した速度へ戻った。
ようやくサビーネが息を吐く。
「……あれは、何だったのかしら」
「断定はできません」
馬を寄せたまま、ヨアヒムが答える。
「ただ、今のお立場で“偶然の好奇心”だけを前提に動くのは危うい」
「そうね」
「本日は来てよかったと思われますか」
唐突な問いだった。
サビーネは少しだけ考える。
「ええ。たぶん」
「理由は」
「自分がどのくらい見られているか、よくわかったから」
ヨアヒムは一瞬だけ目を細めた。
「賢明です」
またその一言か、と少し思う。
でも、それが妙にほっとするのも事実だった。
セヴェール伯爵夫人の屋敷での用件は、思ったより長引いた。
慈善会計の報告書自体は簡潔だったが、伯爵夫人は数字の確認よりも、“先日の劇場での扱いがいかに下品であったか”を丁寧に語ることへ時間を使った。
「あなたが説明会を開いてくださって、本当に助かりましたわ」
彼女はカップを置きながら言った。
「私どもの名も、あの晩餐会に連なっておりましたもの。知らぬふりでは済ませられませんでした」
こういう反応はありがたい。
そして同時に、劇場で意味を定め直したことが間違っていなかったのだと、改めて教えてくれる。
侯爵家を出る頃には、もう夕方だった。
空は紫がかり、街の輪郭が少しずつやわらかくなる時間。帰路の石畳は行きより静かで、昼間の熱が冷めていく気配がした。
馬車の中で、サビーネは少しだけ肩の力を抜く。
「終わったわね」
「はい」
マルゴが答える。
「本日はまずまずです」
「まずまず、ね」
「覗き込まれず、絡まれず、余計な会話もせず、数字の報告も済みました」
「あなたの評価、いつも採点みたいだわ」
「事実確認でございますので」
馬車がゆるやかに屋敷へ近づく。
その時、不意に外で蹄の音が少しだけ近づいた。窓の外へ目を向けると、ヨアヒムがこちらと同じ速度で馬を寄せている。
「侯爵令嬢」
「何かしら」
「正門までお送りいたします」
「途中までではなく?」
「本日は、その方がよろしいかと」
サビーネは思わず小さく笑った。
「随分きっちりしているのね」
「職務ですので」
その返し方が少し可笑しくて、でもありがたかった。
夕暮れの街は、昼よりもずっと正直だ。人通りが減るぶん、視線が見えやすい。さっきの角の男たちのこともあって、今日ばかりは正門まで送るという判断が過剰には思えなかった。
侯爵家の門が見えてくる。
馬車が止まり、扉が開けられる。サビーネが降りようとすると、先にヨアヒムが馬を下りていた。手を差し出すわけでもなく、ただ一歩だけ近くに立つ。
でも、それで十分だった。
足元を気にせずに済むだけで、こんなに楽なのかと思う。
「ありがとうございました、監督官」
サビーネが言うと、ヨアヒムはわずかに目礼した。
「本日は何事もなくて幸いでした」
「何事もなく、ではない気もするけれど」
「ええ」
彼はあっさり認める。
「ですが、何事も起こさせなかったのであれば、それで十分です」
その言葉に、サビーネは少しだけ黙った。
なるほど。
この人はそういう人なのだ。
何かが起きてから格好よく助けるのではなく、起きないように整える。目立たないが、実際にはその方がずっと強い。
たぶん自分がこれまで支えてきたのも、そういう種類の“整え”だった。
ただ違うのは、相手がそれを当然として飲み込んでいたことだ。
でも目の前のこの男は、少なくともそれを職務として認識し、無駄に飾らない。
「……監督官」
「はい」
「今日、少しだけわかった気がするわ」
「何をです」
「地味な人の方が、案外強いのね」
一瞬だけ、ヨアヒムが言葉を失ったように見えた。
ほんの一瞬だ。すぐにいつもの無表情へ戻る。
「褒め言葉として受け取ってよろしいでしょうか」
「たぶん」
「では、そのように」
そのやり取りが、妙に可笑しい。
サビーネは玄関の階段を上がりながら、背中越しに思う。
夜道の護衛というのは、もっと仰々しいものかと思っていた。
でも実際には、馬を寄せ、無駄に喋らず、危ない角を避け、正門まできっちり送る。
それだけなのに、妙に心へ残る。
振り返ると、ヨアヒムはもう馬へ跨がり直していた。
「侯爵令嬢」
「何かしら」
「本日は、よく気を抜きませんでしたね」
不意打ちみたいな言葉だった。
サビーネは少しだけ目を見開く。
「……それは、褒めているの?」
「事実確認です」
そう言って、彼は馬首を巡らせる。
最後まで地味で、最後まで余計なことを言わない。
なのに、その一言は不思議と胸の奥へ残った。
サビーネは玄関の灯りの中へ戻りながら思う。
今日一日で、何かが大きく変わったわけではない。
でも、自分が見られている重さと、それを静かに遮ってくれる存在の強さを、少しだけ知った。
夜道は暗い。
でも、隣に灯りを振り回す人ではなく、足元の石を先に見てくれる人がいるだけで、ずいぶん歩きやすくなるものらしい。
オディールの崩れ方が王都へ広がった翌日、ドルレアン侯爵家には思った以上に静かな朝が来た。
静か、といっても何も起きていないわけではない。
むしろ逆だ。
大きな波が一度打ち寄せたあとの海みたいに、水面だけが妙に落ち着いて見えているだけだった。
王宮からの正式な文はまだない。
第二王子セドリックも表立っては動かない。
オディールも、少なくとも今日は侯爵家へ押しかけてきてはいない。
だからこそ、かえって不気味だった。
朝食後、父はいつものように書類へ目を通しながら言った。
「今日は外へ出る用事があったな」
サビーネはナプキンを整えながらうなずく。
「ええ。慈善会計の報告書を、セヴェール伯爵夫人のもとへ届ける約束がございます」
本来なら家令や使用人へ任せてもよい用件だ。
けれど今回ばかりはそうもいかなかった。先日の劇場騒動のせいで、慈善晩餐会に名を連ねていた人々の中には、自分たちの名前がどう扱われたのかを気にしている者も多い。
サビーネ自身が整理した数字と経緯を、きちんと伝える必要がある。
「延期は?」
「なさらない方がよろしいかと」
サビーネが答える前に、横からマルゴが言った。
父が片眉を上げる。
「理由は」
「今のお嬢様が外へ出ること自体に意味がございます」
相変わらず遠慮がない。
だが、父ももうこの侍女の物言いに慣れているらしい。
「つまり」
「引きこもっておりません、という意味です」
父が短くうなずいた。
「その通りだ」
サビーネは少しだけ苦笑する。
最近の自分は、本当に“出ていくこと”そのものが一つの表明になっている。
面倒な話だ。
でも、そこを避ければまた別の形で使われるのもわかっていた。
「では参ります」
「護衛を増やせ」
父が言う。
「大げさではありませんか」
「そう思っているうちは危うい」
その一言で、サビーネは口を閉ざした。
たしかにそうだ。
いま自分は、王都でかなり目立つ存在になっている。露骨な害意がすぐ向けられるとは思わないが、好奇心だけでも十分に厄介だ。
「家令から二名、それと」
父は少し間を置いた。
「監査局のベルナール監督官にも、今朝、別件でこちらへ来ると連絡があった」
サビーネは顔を上げる。
「監督官が?」
「用件次第では、お前の外出に同道させる」
それは少し意外だった。
いや、意外というより、妙に現実味がない。あの地味で無駄のない男が、侯爵令嬢の訪問に護衛のようについてくる姿が、あまりうまく想像できなかったからだ。
マルゴが、まるで何でもないことのように言う。
「ちょうどよろしいですね」
「何が」
「無駄口の少ない方が一人いると、道中が静かで済みます」
「あなた、それ失礼よ」
「事実でございますので」
もう聞き飽きた返しだった。
午前の終わり頃、ヨアヒム・ベルナールは本当に現れた。
今日もやはり、驚くほど地味だった。濃い灰色の上着に、飾り気のない仕立て。王都の男たちが競うように身につける金や銀の装飾がほとんどない。だがその代わりに、立ち姿だけが異様に整っている。
最初に見た時から思っていたが、この男は“目立たない”のではなく、“余計なものを全部削っている”のだ。
応接間で父と短く話を交わしたあと、ヨアヒムはサビーネへ向かって一礼した。
「侯爵令嬢」
「ごきげんよう、監督官」
「本日、セヴェール伯爵夫人のもとへ向かわれると」
「ええ」
「でしたら、こちらも途中まで同道いたします」
途中まで、という言い方がいかにも彼らしい。
過剰に踏み込まず、必要な分だけを示す。
「監査局のお仕事ではないのではなくて?」
少しだけからかうように言うと、ヨアヒムは表情を変えずに答えた。
「本日王宮側でも複数の使者が動いておりますので」
その一言で、部屋の空気が引き締まる。
「何かございますの」
サビーネが聞くと、彼は簡潔に答えた。
「第二王子殿下とメルヴィ嬢に関する噂が予想以上に早く回っております。王家はそれを抑えたい。となれば、流れを変えるために別の話題を必要とします」
父が低く言う。
「娘か」
「可能性はございます」
それだけで十分だった。
あからさまな危険ではない。けれど、街中で“偶然”誰かが声をかけ、妙な話を吹き込み、あるいは好奇心だけで馬車を囲む――そういう面倒は起こりうる。
「では、お願いしてもよろしいかしら」
サビーネが言うと、ヨアヒムは短くうなずいた。
「もちろんです」
出立は昼すぎになった。
侯爵家の馬車に、サビーネとマルゴ。外には家の護衛が二名。そして並走まではしないが、少し距離を置いて別の馬に乗るヨアヒムと、その補佐官ギスラン。
大げさだと思った。
でも実際に玄関を出た瞬間、その判断は間違っていなかったとわかった。
正門の向こう、通りの少し先に、人だかりとまではいかないまでも、明らかにこちらを見ている者たちが何人かいるのだ。
「……見物ね」
サビーネが小さく言うと、マルゴが平然と返した。
「ええ。お嬢様はいま、王都で少々人気者ですので」
「嬉しくない人気だわ」
「人気というものは、たいてい半分ほど迷惑です」
それもまた名言のようで、ちっともありがたくない。
馬車が動き出す。
石畳を進む車輪の音は、いつもより少しだけ耳についた。視線を感じるからだろう。窓の外には冬を越えた街路樹の枝、店先へ出た果物、荷車を押す男、そしてこちらへちらちらと目を向ける市井の人々。
王都そのものは変わらない。
変わったのは、自分の見られ方だ。
「お嬢様」
マルゴが窓の外を見ながら言った。
「何」
「いま右手に、昨日の劇場で見た顔がございます」
「夫人?」
「いいえ。夫人の侍女です」
「よく覚えているわね」
「侍女は侍女をよく見ますので」
そういうものなのだろうか。
少しだけ可笑しくなる。
しばらく進んだところで、馬車が不自然に速度を落とした。
サビーネが顔を上げる。
「どうしたの」
外から護衛の声が返る。
「申し訳ございません、お嬢様。前方で小さな混雑が」
窓の隙間から見ると、通りの向こう側で荷車が一台、車輪を石の溝へ取られて立ち往生していた。大きな騒ぎではない。だが、馬車が一度止まるには十分だ。
その瞬間、ヨアヒムが馬を寄せてきた。
「侯爵令嬢」
窓越しの声は低く落ち着いている。
「少々、お静かに」
“お静かに”という言い方に、サビーネは逆に背筋を伸ばした。
「何か」
「左手の角から、こちらをうかがっている男が三人おります」
マルゴがさっと窓の布を引く。
「どのような」
「酔漢ではございません。ですが、見物人にしては視線が近すぎる」
なるほど。
好奇心だけではない、ということだ。
護衛が前へ出る気配がする。ギスランも無言で位置を変えたらしい。馬の蹄の音が近くなった。
「ただちに危険、というほどではありません」
ヨアヒムが続ける。
「ですが、止まっている間に覗き込ませる必要もないでしょう」
「どうするの」
「少々、遠回りいたします」
それだけ言うと、彼は御者へ短く指示を飛ばした。声は大きくないのに、不思議と無駄がない。侯爵家の御者も即座に理解し、馬車がゆっくりと後ろへ下がる。
サビーネは、その一連の動きに目を見張った。
慌てない。
騒がない。
でも、対処は早い。
これが“守る”ということなのかもしれない。舞台の上で庇う芝居とは違う、静かな実務の護衛。
馬車は別の通りへ入り、しばらくすると再び安定した速度へ戻った。
ようやくサビーネが息を吐く。
「……あれは、何だったのかしら」
「断定はできません」
馬を寄せたまま、ヨアヒムが答える。
「ただ、今のお立場で“偶然の好奇心”だけを前提に動くのは危うい」
「そうね」
「本日は来てよかったと思われますか」
唐突な問いだった。
サビーネは少しだけ考える。
「ええ。たぶん」
「理由は」
「自分がどのくらい見られているか、よくわかったから」
ヨアヒムは一瞬だけ目を細めた。
「賢明です」
またその一言か、と少し思う。
でも、それが妙にほっとするのも事実だった。
セヴェール伯爵夫人の屋敷での用件は、思ったより長引いた。
慈善会計の報告書自体は簡潔だったが、伯爵夫人は数字の確認よりも、“先日の劇場での扱いがいかに下品であったか”を丁寧に語ることへ時間を使った。
「あなたが説明会を開いてくださって、本当に助かりましたわ」
彼女はカップを置きながら言った。
「私どもの名も、あの晩餐会に連なっておりましたもの。知らぬふりでは済ませられませんでした」
こういう反応はありがたい。
そして同時に、劇場で意味を定め直したことが間違っていなかったのだと、改めて教えてくれる。
侯爵家を出る頃には、もう夕方だった。
空は紫がかり、街の輪郭が少しずつやわらかくなる時間。帰路の石畳は行きより静かで、昼間の熱が冷めていく気配がした。
馬車の中で、サビーネは少しだけ肩の力を抜く。
「終わったわね」
「はい」
マルゴが答える。
「本日はまずまずです」
「まずまず、ね」
「覗き込まれず、絡まれず、余計な会話もせず、数字の報告も済みました」
「あなたの評価、いつも採点みたいだわ」
「事実確認でございますので」
馬車がゆるやかに屋敷へ近づく。
その時、不意に外で蹄の音が少しだけ近づいた。窓の外へ目を向けると、ヨアヒムがこちらと同じ速度で馬を寄せている。
「侯爵令嬢」
「何かしら」
「正門までお送りいたします」
「途中までではなく?」
「本日は、その方がよろしいかと」
サビーネは思わず小さく笑った。
「随分きっちりしているのね」
「職務ですので」
その返し方が少し可笑しくて、でもありがたかった。
夕暮れの街は、昼よりもずっと正直だ。人通りが減るぶん、視線が見えやすい。さっきの角の男たちのこともあって、今日ばかりは正門まで送るという判断が過剰には思えなかった。
侯爵家の門が見えてくる。
馬車が止まり、扉が開けられる。サビーネが降りようとすると、先にヨアヒムが馬を下りていた。手を差し出すわけでもなく、ただ一歩だけ近くに立つ。
でも、それで十分だった。
足元を気にせずに済むだけで、こんなに楽なのかと思う。
「ありがとうございました、監督官」
サビーネが言うと、ヨアヒムはわずかに目礼した。
「本日は何事もなくて幸いでした」
「何事もなく、ではない気もするけれど」
「ええ」
彼はあっさり認める。
「ですが、何事も起こさせなかったのであれば、それで十分です」
その言葉に、サビーネは少しだけ黙った。
なるほど。
この人はそういう人なのだ。
何かが起きてから格好よく助けるのではなく、起きないように整える。目立たないが、実際にはその方がずっと強い。
たぶん自分がこれまで支えてきたのも、そういう種類の“整え”だった。
ただ違うのは、相手がそれを当然として飲み込んでいたことだ。
でも目の前のこの男は、少なくともそれを職務として認識し、無駄に飾らない。
「……監督官」
「はい」
「今日、少しだけわかった気がするわ」
「何をです」
「地味な人の方が、案外強いのね」
一瞬だけ、ヨアヒムが言葉を失ったように見えた。
ほんの一瞬だ。すぐにいつもの無表情へ戻る。
「褒め言葉として受け取ってよろしいでしょうか」
「たぶん」
「では、そのように」
そのやり取りが、妙に可笑しい。
サビーネは玄関の階段を上がりながら、背中越しに思う。
夜道の護衛というのは、もっと仰々しいものかと思っていた。
でも実際には、馬を寄せ、無駄に喋らず、危ない角を避け、正門まできっちり送る。
それだけなのに、妙に心へ残る。
振り返ると、ヨアヒムはもう馬へ跨がり直していた。
「侯爵令嬢」
「何かしら」
「本日は、よく気を抜きませんでしたね」
不意打ちみたいな言葉だった。
サビーネは少しだけ目を見開く。
「……それは、褒めているの?」
「事実確認です」
そう言って、彼は馬首を巡らせる。
最後まで地味で、最後まで余計なことを言わない。
なのに、その一言は不思議と胸の奥へ残った。
サビーネは玄関の灯りの中へ戻りながら思う。
今日一日で、何かが大きく変わったわけではない。
でも、自分が見られている重さと、それを静かに遮ってくれる存在の強さを、少しだけ知った。
夜道は暗い。
でも、隣に灯りを振り回す人ではなく、足元の石を先に見てくれる人がいるだけで、ずいぶん歩きやすくなるものらしい。
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