『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十話 オディールの崩壊

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第二十話 オディールの崩壊

 オディールが帰ったあと、応接間にはしばらく妙な静けさが残った。

 つい先ほどまで、あの娘が立っていた場所。
 頼りなげで、混乱していて、けれど以前のように“泣けば誰かが運んでくれる”顔だけではなかった場所。

 サビーネは長椅子へゆっくり腰を下ろした。

「お疲れさまでした」

 マルゴが紅茶を置く。

「ええ」

「思ったよりお優しかったですね」

 サビーネはカップへ手を伸ばしかけて止まった。

「そうかしら」

「もっと冷たく追い返すかと」

「そんなことしても、あとで面倒でしょう」

「実にお嬢様らしいお答えです」

 褒めているのか、諦めているのかよくわからない言い方だった。

 でも、少しだけわかる。

 オディールに対して、心から憎しみだけを向けることはできなかった。もちろん腹は立つ。あの夜、王子の隣に立っていたことも、その位置を欲しがったことも、全部事実だ。

 けれど同時に、あの娘は“立場”の上澄みだけを夢見て、その重さを知らないまま壇上へ上がってしまったのだとも思う。

 その報いが、いま来ている。

 それだけのことだった。

「お嬢様」

 マルゴが封書を一通差し出した。

「何?」

「今しがた、メルヴィ家の侍女が置いていきました」

「もう?」

 オディールが帰って、まだそれほど時間は経っていない。

 サビーネは封を切った。中には短い紙が一枚だけ入っている。

 “本日は突然失礼いたしました。失礼を重ねましたのに、お言葉をいただきありがとうございました。わたくし、もう少し考えてみます。 オディール・メルヴィ”

 サビーネは読み終え、少しだけ目を伏せた。

「……ずいぶん短いわね」

「余計な飾りがないだけ、前よりましかと」

 マルゴの評価は相変わらず辛い。

 でも、たしかにそうだ。いつものオディールなら、もっと可哀想で、もっと“わたくしは何も悪くないのに”という匂いを滲ませた文にしただろう。

 今回は違う。

 短くて、拙くて、でも少しだけ自分の足で立とうとしているように見える。

「返事は」

 マルゴが聞く。

「いらないわ」

「そうでしょうね」

「でも」

 サビーネは紙をたたんだ。

「捨てないでおく」

「承知いたしました」

 そこへ、廊下の向こうで再び慌ただしい足音が響いた。

 今度は若い従僕ではなく、家令その人が現れる。顔色はいつも通り落ち着いているが、歩幅が少しだけ速い。

「お嬢様」

「どうしました」

「メルヴィ家の件で、少々動きがございました」

 サビーネは姿勢を正した。

「オディールに何か?」

「正確には、オディール嬢の周囲でございます」

 家令は一礼して続けた。

「本日午前、ラングレー侯爵夫人主催の小規模な昼食会にて、オディール嬢が複数の婦人方の前で声を荒らげたとのことです」

 サビーネはまばたきした。

「声を荒らげた?」

「はい。話題は、先日の劇場の件だったそうです」

 なるほど、と思う。

 劇場での説明会のあと、社交界の婦人たちは当然のようにあの話を何度も蒸し返しているだろう。その場にオディールがいたなら、何かしら言われるのは避けられない。

「何を言ったの」

「詳細までは。ただ、“わたくしだけが悪いみたいな言い方はやめてください”と、かなり強い口調で」

 サビーネは思わず小さく息を吐いた。

 あの娘にしては、ずいぶん早い破綻だ。

 いや、破綻というより、ついに“可憐な被害者役”を保てなくなったのかもしれない。

「それだけなら、まだ」

 サビーネが言いかけると、家令は静かに首を振った。

「問題はその後です。侍女に対しても、廊下でかなりきつく当たったところを複数に見られたそうで」

 ああ。

 それは痛い。

 社交界の婦人たちは、自分たちへの反論よりも、格下と見なした相手への当たり方に敏感だ。特に“可憐で心優しい娘”という札で売っていた者が侍女へきつく当たると、一気に化けの皮扱いされる。

 マルゴが容赦なく言った。

「終わりましたね」

「あなた、少しは言い方を選びなさい」

「事実に近いかと」

 近いのは否定できない。

 家令は続けた。

「加えて、昼食会の場で“わたくしだって殿下に望まれてあの場へ立ったのに”といった趣旨の発言もあったようです」

 サビーネは目を閉じそうになった。

 それは悪手だ。

 王子の隣へ自らの意思ではなく“望まれて立った”と言いたいのだろうが、今の空気ではむしろ、“自分もあの演出の中にいた”と認めているように聞こえる。

 傷ついた可憐な娘から、途端に“王子の演出に乗った当事者”へ落ちる。

「誰が聞いていたの」

「ラングレー侯爵夫人、セヴェール伯爵夫人、そのほか四、五名と」

 濃い。

 あまりにも濃い顔ぶれだった。

 しかも全員、舌が軽いだけでなく、言い方がうまい。明日には柔らかい言葉へ包んだまま、オディールの“おや、意外と短気なのね”が王都へ出回るだろう。

 サビーネは窓の方へ視線を向けた。

 庭は変わらず静かだ。
 なのに王都のどこかでは、いままさにオディールの評価が音を立てて崩れている。

「……早かったわね」

 ぽつりとこぼすと、マルゴが答えた。

「ええ。予想より」

「そんなに持たないと思っていたの?」

「ある程度は」

 マルゴは平然としている。

「お嬢様。あの方はこれまで、“か弱く怯えていれば誰かが整えてくれる場所”でしか勝負しておりません」

「ええ」

「ですが今は違います。周囲が助けるのではなく、観察する側へ回っておりますので」

 それがすべてだった。

 前は、オディールが少し困った顔をすれば、誰かが補った。
 今は違う。
 皆、“この娘は本当に王子の隣へ立つ器かしら”という目で見ている。

 その目の前で侍女へ当たり、声を荒らげれば、もう終わりだ。

「殿下はご存じなのかしら」

 サビーネが言うと、家令が答えた。

「おそらく、まもなく耳へ入ります」

「そう」

 セドリックがどう反応するか、少しだけ想像がつく。

 最初は庇うだろう。
 だが、今の彼にその余裕がどれだけあるか。

 王宮で自分の足元もぐらついている最中に、“新しい隣の娘”まで社交界で失点を重ねたら――。

 たぶん、見方が変わる。

 可愛いだけで立たせておいた夢が、急に面倒な荷物へ変わる瞬間が来る。

「お父様は」

 サビーネが聞く。

「書斎でございます。すでに同様の報告を受けておられます」

「私が会いに行くほどではないわね」

「はい。現時点では」

 家令が下がると、部屋にはまた静けさが戻った。

 だがさっきまでとは少し違う静けさだ。
 王都の一角で何かが崩れた、そのあとに残る静けさ。

「お嬢様」

 マルゴが言う。

「何」

「お気の毒ですか」

 唐突だった。

 サビーネは少しだけ考えた。

「……少しだけ」

「どのあたりが」

「夢を見ていたのでしょうね、たぶん」

 自分でも驚くほど、冷静な声で言えた。

「王子の隣へ立てば、それで勝ちだと。でも現実は、そこから先の方が重い」

「ええ」

「その重さを知らないまま上がってしまったのなら、気の毒ではあるわ」

 でも、とサビーネは思う。

 だからといって免罪にはならない。
 あの夜、自分がどんな場所へ立たされたかも消えない。

 気の毒と腹立たしさは、同時に存在するのだ。

「ただ」

 サビーネは続けた。

「もう誰も、“可哀想なだけの娘”としては扱わないでしょうね」

「はい」

 マルゴはうなずく。

「本日の昼食会で、そこは終わったかと」

 終わった。

 ずいぶん静かで、ずいぶん残酷な言葉だった。

 でも、たぶんその通りだ。
 評価が反転する時というのは、何も大きな断罪の言葉だけで起きるのではない。こういう小さな綻びが、ちょうど見られてはいけない相手に見られることで起きる。

「そういう意味では」

 サビーネがぽつりと言う。

「あの娘も、今日から立つしかなくなったのね」

 マルゴが少しだけ目を細めた。

「立てますかね」

「さあ」

 サビーネは正直に答えた。

「でも、立てなければ崩れるでしょうね」

 そして、それはきっとセドリックも同じなのだろう。

 可愛い夢も、華やかな肩書きも、誰かに整えられた見映えも、綻びが見え始めれば急に頼りなくなる。いま王都では、その綻びが二人分、同時に広がっているのだ。

「お嬢様」

 マルゴが静かに言う。

「何かしら」

「だいぶ、お顔が落ち着いてまいりました」

 サビーネは少しだけ首を傾げた。

「そう?」

「はい。少なくとも、最初の頃のように“相手が崩れるたびにご自分まで傷む”感じではなくなりました」

 その言葉に、少しだけ息が止まる。

 そんなふうに見えていたのか。

 でも、否定はできない。

 最初はそうだった。王子が失態をさらせば、かつてそれを支えていた自分の時間まで一緒に否定される気がした。オディールがぐらつけば、あの夜の傷がまた疼くようだった。

 でも今は違う。

 見える。
 わかる。
 痛みもまだある。
 それでも、相手の崩れ方を自分の責任のようには感じなくなっている。

「……そうかもしれないわね」

 サビーネは素直に言った。

「よろしいことです」

「あなた、最近たまに優しいわよね」

「たまにです」

 その“たまに”が絶妙に腹立たしくて、でも少し可笑しい。

 サビーネは窓の外を見た。
 王都のどこかで、いまごろオディールは自分の顔色よりもっと大きなものが崩れていることを知るのだろう。

 可愛らしさだけで守られる時間は、終わった。

 その先に何があるかは、彼女自身が立ってみなければわからない。

 でも少なくとも、もう誰も前みたいには見てくれない。

 それが、崩壊の始まりだった。
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