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第十九話 評価の反転
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第十九話 評価の反転
王立劇場での説明会から二日後、王都の空気は目に見えて変わっていた。
噂そのものが消えたわけではない。むしろ数は増えているだろう。けれど質が変わった。以前は、**“第二王子が冷たい婚約者を切って、可憐な令嬢を選んだ”**という、いかにも社交界が好みそうな薄甘い物語だった。
今は違う。
“王家が劇場で下品な失態を演じた”
“侯爵令嬢は黙って恥を飲まなかった”
“王子は自分の体面ばかり気にして逆上した”
そういう骨格で語られ始めている。
しかも厄介なことに、それが単なる噂ではなく、見た者がいる話として広がっているのだ。劇場へ来た者たちは、内容を多少盛ったり削ったりはしても、根っこの印象までは変えられない。
あの日、誰が落ち着いていて、誰が見苦しかったか。
それはもう、あまりにも大勢が見てしまった。
ドルレアン侯爵家の応接間では、朝から来客が続いていた。
見舞いという名の探り。
労いという名の観測。
そして、中には本当に距離を測り直しに来た者たちもいる。
サビーネは三組目の客を送り出したあと、ようやく一息ついて長椅子へ腰を下ろした。
「疲れましたか」
マルゴが紅茶を差し出しながら言う。
「少しだけ」
「本日は“少し”が多うございますね」
「かなり、と言うとあなたが満足するのでしょう?」
「ええ。事実に近づきますので」
相変わらずである。
サビーネはカップを受け取り、窓の外へ目を向けた。庭の奥では、植え込みの手入れが進んでいる。春先の柔らかい光の中で、庭師たちが何も知らない顔で枝を揃えているのが、妙に可笑しい。
「でも、不思議ね」
「何がですか」
「前よりずっと人が来るのに、前より苦しくないの」
自分で言ってみて、本当にそうだと思った。
少し前までは、来客というだけで気を張った。誰がどう見るか、どこに傷があるか、何を言えば無難か、そればかり考えていた。
今はもちろん疲れる。
けれど、“何をどう見せるか”が少しは定まっている分だけ、呼吸がしやすい。
「それは、お嬢様が“見られる側”であるだけでなく、“見せる側”にもなったからでは」
マルゴがさらりと言う。
サビーネは少しだけ目を上げた。
「見せる側」
「ええ。以前は皆さまに値踏みされるだけでしたが、今はお嬢様も相手を見ておいででしょう?」
たしかに、その通りだった。
誰が軽い同情を売りに来たのか。
誰が風向きを見て近づいてきたのか。
誰が本気で王家の振る舞いを不愉快だと思っているのか。
見えてきたのだ。
見えるようになると、人は少し強くなれる。
その時、家令が一礼して入ってきた。
「お嬢様。クラヴェル伯爵夫人より、急ぎではございませんが私信が」
「ありがとう」
受け取って封を切ると、短い文面が整った筆で綴られていた。
“王都では、ようやく話が本筋へ戻りつつあります。あなたはおそらく、思っている以上に多くの婦人方の記憶を書き換えたのですよ。”
サビーネは、その一文をしばらく見つめた。
「何と?」
マルゴが聞く。
「……私が、婦人方の記憶を書き換えたって」
マルゴは少しだけ口元を緩めた。
「結構なことではございませんか」
「そんな大げさな」
「大げさではございません」
きっぱり言う。
「社交界の記憶が変わるのは、だいたい一番面倒な時ですので」
誉め言葉としてどうなのかはさておき、間違ってはいないらしい。
サビーネが手紙をたたんだ、その時だった。
廊下の向こうで慌ただしい足音がし、若い侍女が青ざめた顔で扉を叩いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「メルヴィ嬢が……」
サビーネは眉を寄せる。
「オディールが、どうしたの」
「侯爵家へ来ておいでです」
部屋の空気が一瞬で変わった。
マルゴが目を細める。
「一人で?」
「い、いえ……侍女を伴ってはおりますが、ご家族はご一緒ではなく」
サビーネはゆっくりカップを置いた。
ここへ来る。
今、このタイミングで。
それはつまり、向こう側でも空気が変わっている証拠だ。
「応接間に?」
「はい。ですが……」
侍女は少しためらってから続ける。
「かなり、お顔色が悪うございます」
なるほど、とサビーネは思う。
たぶん、劇場のあとから急に世界がやさしくなくなったのだろう。
可哀想なだけでは通らない。
王子の隣に立てばそれで勝ち、というわけでもない。
むしろ今や、彼女は“あの夜、王子の隣にいたもう一人”として見られている。
夢見ていた立場とは、ずいぶん違うはずだ。
「お父様は」
「書斎でございます」
「伝えてある?」
「はい。ですが、お嬢様のご判断に任せると」
父らしい。
追い返せとも、会えとも言わない。
この場の意味を考えれば、娘自身が決めるべきだと思っているのだろう。
サビーネは一度だけ深く息を吸った。
「会うわ」
マルゴがちらりとこちらを見る。
「よろしいのですか」
「ええ」
「泣かれますよ」
「でしょうね」
「面倒ですよ」
「それも、でしょうね」
サビーネは立ち上がった。
「でも、来た理由は聞いておきたいわ」
応接間へ向かう廊下は、やけに静かだった。
足音が石床へ落ちるたび、あの日の劇場前でセドリックへ言い放った言葉が少しだけよみがえる。
私が失ったのはあなたではない。
あれは王子へ向けた言葉だった。
では、オディールには何を言うことになるのだろう。
応接間の扉の前で、マルゴが控えめに言う。
「お嬢様」
「何」
「相手が泣いても、こちらが悪い話にはなりません」
サビーネは少しだけ目を瞬いた。
「……先回りがうまいわね」
「仕事ですので」
本当にそうだろうか、と少し思う。
扉が開かれる。
中にいたオディール・メルヴィは、確かに顔色が悪かった。
今日の彼女は淡いクリーム色のドレスを着ていた。可憐に見える色だ。だが頬の血色が足りず、目元にはうっすらと眠れなかったような影がある。いつものように“守ってあげたくなる角度”を作ろうとしている気配も薄い。
その代わりに見えたのは、混乱だった。
サビーネが入ると、オディールは慌てて立ち上がった。
「サビーネ様……」
その声音は、これまでよりずっと頼りなかった。
サビーネは一定の距離を取ったまま立ち止まる。
「ごきげんよう、メルヴィ嬢」
あえて“オディール”とは呼ばない。
その程度の線引きは必要だと思った。
オディールはその呼び方に少しだけ傷ついたような顔をしたが、すぐにそれどころではないと気づいたらしい。
「き、急に押しかけてしまって、ごめんなさい」
「何かご用件があって?」
「……はい」
そこで彼女は唇を噛んだ。
泣くのかと思った。
けれど、違った。
泣きそうになりながらも、どうにか言葉を探している。
それだけでも、少し前の彼女とは違って見えた。
「わたくし……」
オディールは膝の前で指を組みしめた。
「最近、何をしても、うまくいかなくて」
サビーネは黙って聞いた。
「皆さまのお顔が変わってしまって……殿下も、前みたいに、わたくしを見る余裕がなくて……」
言葉が途切れる。
そしてようやく、彼女は顔を上げた。
「どうしたらいいのか、わからないの」
その一言に、サビーネは返事をしなかった。
かわいそうだと思う気持ちが、まったくないわけではない。
でも同時に、知るか、という気持ちもたしかにあった。
だって、この娘は自分が今いる場所へ、涙と甘えだけで上がってきたわけではない。
少なくともあの夜、彼女は壇上へいた。
そして自分がどう扱われるかを、完全ではなくとも理解していたはずだ。
オディールは震える声で続ける。
「サビーネ様は……どうして、あんなに平然としていられるの」
その問いは、ある意味で残酷だった。
平然としているように見えるのか。
あれだけ傷つき、腹を立て、恥をかき、それでも立ち続けている姿が。
でも、きっとそう見えるのだろう。
立っている人間は、外からは平然に見える。
サビーネはゆっくり言った。
「平然としているわけではありませんわ」
オディールが目を見開く。
「ただ、立っているだけです」
それが答えだった。
誰かに守られて立つのではない。
自分で立つ。
泣きながらでも、悔しくても、みっともないと思っても。
「でも、わたくし……」
「ええ」
サビーネは静かに続ける。
「あなたは、立つより先に守られようとなさったのでしょうね」
オディールの顔が揺れる。
きつい言い方かもしれない。
でも、たぶん嘘ではない。
彼女は王子の隣に立てば、あとは物語が自分を運んでくれると思っていた。
でも現実は違った。
立場だけでは、椅子は安定しない。
「わたくし、そんなつもりじゃ……」
「そうでしょうね」
サビーネは頷いた。
「でも結果としては、そう見えますわ」
オディールは黙った。
泣くでもなく、怒るでもなく、ただそこへ立ち尽くしている。
その姿を見て、サビーネは奇妙な既視感を覚えた。
少し前の自分も、きっと外から見ればこんなふうだったのだろう。
何を失ったのかも整理しきれず、それでも立っていなければならない顔。
ただ違うのは、自分には最初から、立つしかない場所があったことだ。
オディールには、まだそこが曖昧なのだろう。
「……お帰りなさい」
サビーネは最後に言った。
「ここでわたくしがあなたに教えられることは、たぶんありません」
オディールの肩が震える。
冷たいだろうか。
でも、これ以上は違うと思った。
「ただ一つだけ申し上げるなら」
サビーネは少しだけ声を和らげた。
「誰かの隣に立ちたいなら、まず自分の足で立てるようになりなさい」
オディールは、しばらく何も言えなかった。
それから深く頭を下げた。
きれいな礼ではなかった。
でも、最初よりはよほど本物に見えた。
「……失礼いたします」
そうして彼女は帰っていく。
サビーネはその背中を見送りながら、奇妙な感覚を覚えた。
勝った、とは思わない。
ざまあみろ、という気持ちも薄い。
ただ、評価が反転するというのは、こういうことなのだろうと思った。
ついこの前まで、オディールは“可哀想で守られるべき娘”として扱われていた。
今、その物語は崩れている。
代わりに自分は、“黙らない侯爵令嬢”として見られている。
どちらが楽かといえば、たぶん前の方が楽だった。
でも、楽なだけの椅子は、ひっくり返るのも早いのだ。
応接間に戻ってきたマルゴが、小さく言った。
「泣きませんでしたね」
「ええ」
「成長でしょうか」
「どちらの?」
「どちらも、でございます」
それを聞いて、サビーネは少しだけ笑った。
評価は、もう戻らない。
少なくとも、劇場前のあの日までには。
王立劇場での説明会から二日後、王都の空気は目に見えて変わっていた。
噂そのものが消えたわけではない。むしろ数は増えているだろう。けれど質が変わった。以前は、**“第二王子が冷たい婚約者を切って、可憐な令嬢を選んだ”**という、いかにも社交界が好みそうな薄甘い物語だった。
今は違う。
“王家が劇場で下品な失態を演じた”
“侯爵令嬢は黙って恥を飲まなかった”
“王子は自分の体面ばかり気にして逆上した”
そういう骨格で語られ始めている。
しかも厄介なことに、それが単なる噂ではなく、見た者がいる話として広がっているのだ。劇場へ来た者たちは、内容を多少盛ったり削ったりはしても、根っこの印象までは変えられない。
あの日、誰が落ち着いていて、誰が見苦しかったか。
それはもう、あまりにも大勢が見てしまった。
ドルレアン侯爵家の応接間では、朝から来客が続いていた。
見舞いという名の探り。
労いという名の観測。
そして、中には本当に距離を測り直しに来た者たちもいる。
サビーネは三組目の客を送り出したあと、ようやく一息ついて長椅子へ腰を下ろした。
「疲れましたか」
マルゴが紅茶を差し出しながら言う。
「少しだけ」
「本日は“少し”が多うございますね」
「かなり、と言うとあなたが満足するのでしょう?」
「ええ。事実に近づきますので」
相変わらずである。
サビーネはカップを受け取り、窓の外へ目を向けた。庭の奥では、植え込みの手入れが進んでいる。春先の柔らかい光の中で、庭師たちが何も知らない顔で枝を揃えているのが、妙に可笑しい。
「でも、不思議ね」
「何がですか」
「前よりずっと人が来るのに、前より苦しくないの」
自分で言ってみて、本当にそうだと思った。
少し前までは、来客というだけで気を張った。誰がどう見るか、どこに傷があるか、何を言えば無難か、そればかり考えていた。
今はもちろん疲れる。
けれど、“何をどう見せるか”が少しは定まっている分だけ、呼吸がしやすい。
「それは、お嬢様が“見られる側”であるだけでなく、“見せる側”にもなったからでは」
マルゴがさらりと言う。
サビーネは少しだけ目を上げた。
「見せる側」
「ええ。以前は皆さまに値踏みされるだけでしたが、今はお嬢様も相手を見ておいででしょう?」
たしかに、その通りだった。
誰が軽い同情を売りに来たのか。
誰が風向きを見て近づいてきたのか。
誰が本気で王家の振る舞いを不愉快だと思っているのか。
見えてきたのだ。
見えるようになると、人は少し強くなれる。
その時、家令が一礼して入ってきた。
「お嬢様。クラヴェル伯爵夫人より、急ぎではございませんが私信が」
「ありがとう」
受け取って封を切ると、短い文面が整った筆で綴られていた。
“王都では、ようやく話が本筋へ戻りつつあります。あなたはおそらく、思っている以上に多くの婦人方の記憶を書き換えたのですよ。”
サビーネは、その一文をしばらく見つめた。
「何と?」
マルゴが聞く。
「……私が、婦人方の記憶を書き換えたって」
マルゴは少しだけ口元を緩めた。
「結構なことではございませんか」
「そんな大げさな」
「大げさではございません」
きっぱり言う。
「社交界の記憶が変わるのは、だいたい一番面倒な時ですので」
誉め言葉としてどうなのかはさておき、間違ってはいないらしい。
サビーネが手紙をたたんだ、その時だった。
廊下の向こうで慌ただしい足音がし、若い侍女が青ざめた顔で扉を叩いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「メルヴィ嬢が……」
サビーネは眉を寄せる。
「オディールが、どうしたの」
「侯爵家へ来ておいでです」
部屋の空気が一瞬で変わった。
マルゴが目を細める。
「一人で?」
「い、いえ……侍女を伴ってはおりますが、ご家族はご一緒ではなく」
サビーネはゆっくりカップを置いた。
ここへ来る。
今、このタイミングで。
それはつまり、向こう側でも空気が変わっている証拠だ。
「応接間に?」
「はい。ですが……」
侍女は少しためらってから続ける。
「かなり、お顔色が悪うございます」
なるほど、とサビーネは思う。
たぶん、劇場のあとから急に世界がやさしくなくなったのだろう。
可哀想なだけでは通らない。
王子の隣に立てばそれで勝ち、というわけでもない。
むしろ今や、彼女は“あの夜、王子の隣にいたもう一人”として見られている。
夢見ていた立場とは、ずいぶん違うはずだ。
「お父様は」
「書斎でございます」
「伝えてある?」
「はい。ですが、お嬢様のご判断に任せると」
父らしい。
追い返せとも、会えとも言わない。
この場の意味を考えれば、娘自身が決めるべきだと思っているのだろう。
サビーネは一度だけ深く息を吸った。
「会うわ」
マルゴがちらりとこちらを見る。
「よろしいのですか」
「ええ」
「泣かれますよ」
「でしょうね」
「面倒ですよ」
「それも、でしょうね」
サビーネは立ち上がった。
「でも、来た理由は聞いておきたいわ」
応接間へ向かう廊下は、やけに静かだった。
足音が石床へ落ちるたび、あの日の劇場前でセドリックへ言い放った言葉が少しだけよみがえる。
私が失ったのはあなたではない。
あれは王子へ向けた言葉だった。
では、オディールには何を言うことになるのだろう。
応接間の扉の前で、マルゴが控えめに言う。
「お嬢様」
「何」
「相手が泣いても、こちらが悪い話にはなりません」
サビーネは少しだけ目を瞬いた。
「……先回りがうまいわね」
「仕事ですので」
本当にそうだろうか、と少し思う。
扉が開かれる。
中にいたオディール・メルヴィは、確かに顔色が悪かった。
今日の彼女は淡いクリーム色のドレスを着ていた。可憐に見える色だ。だが頬の血色が足りず、目元にはうっすらと眠れなかったような影がある。いつものように“守ってあげたくなる角度”を作ろうとしている気配も薄い。
その代わりに見えたのは、混乱だった。
サビーネが入ると、オディールは慌てて立ち上がった。
「サビーネ様……」
その声音は、これまでよりずっと頼りなかった。
サビーネは一定の距離を取ったまま立ち止まる。
「ごきげんよう、メルヴィ嬢」
あえて“オディール”とは呼ばない。
その程度の線引きは必要だと思った。
オディールはその呼び方に少しだけ傷ついたような顔をしたが、すぐにそれどころではないと気づいたらしい。
「き、急に押しかけてしまって、ごめんなさい」
「何かご用件があって?」
「……はい」
そこで彼女は唇を噛んだ。
泣くのかと思った。
けれど、違った。
泣きそうになりながらも、どうにか言葉を探している。
それだけでも、少し前の彼女とは違って見えた。
「わたくし……」
オディールは膝の前で指を組みしめた。
「最近、何をしても、うまくいかなくて」
サビーネは黙って聞いた。
「皆さまのお顔が変わってしまって……殿下も、前みたいに、わたくしを見る余裕がなくて……」
言葉が途切れる。
そしてようやく、彼女は顔を上げた。
「どうしたらいいのか、わからないの」
その一言に、サビーネは返事をしなかった。
かわいそうだと思う気持ちが、まったくないわけではない。
でも同時に、知るか、という気持ちもたしかにあった。
だって、この娘は自分が今いる場所へ、涙と甘えだけで上がってきたわけではない。
少なくともあの夜、彼女は壇上へいた。
そして自分がどう扱われるかを、完全ではなくとも理解していたはずだ。
オディールは震える声で続ける。
「サビーネ様は……どうして、あんなに平然としていられるの」
その問いは、ある意味で残酷だった。
平然としているように見えるのか。
あれだけ傷つき、腹を立て、恥をかき、それでも立ち続けている姿が。
でも、きっとそう見えるのだろう。
立っている人間は、外からは平然に見える。
サビーネはゆっくり言った。
「平然としているわけではありませんわ」
オディールが目を見開く。
「ただ、立っているだけです」
それが答えだった。
誰かに守られて立つのではない。
自分で立つ。
泣きながらでも、悔しくても、みっともないと思っても。
「でも、わたくし……」
「ええ」
サビーネは静かに続ける。
「あなたは、立つより先に守られようとなさったのでしょうね」
オディールの顔が揺れる。
きつい言い方かもしれない。
でも、たぶん嘘ではない。
彼女は王子の隣に立てば、あとは物語が自分を運んでくれると思っていた。
でも現実は違った。
立場だけでは、椅子は安定しない。
「わたくし、そんなつもりじゃ……」
「そうでしょうね」
サビーネは頷いた。
「でも結果としては、そう見えますわ」
オディールは黙った。
泣くでもなく、怒るでもなく、ただそこへ立ち尽くしている。
その姿を見て、サビーネは奇妙な既視感を覚えた。
少し前の自分も、きっと外から見ればこんなふうだったのだろう。
何を失ったのかも整理しきれず、それでも立っていなければならない顔。
ただ違うのは、自分には最初から、立つしかない場所があったことだ。
オディールには、まだそこが曖昧なのだろう。
「……お帰りなさい」
サビーネは最後に言った。
「ここでわたくしがあなたに教えられることは、たぶんありません」
オディールの肩が震える。
冷たいだろうか。
でも、これ以上は違うと思った。
「ただ一つだけ申し上げるなら」
サビーネは少しだけ声を和らげた。
「誰かの隣に立ちたいなら、まず自分の足で立てるようになりなさい」
オディールは、しばらく何も言えなかった。
それから深く頭を下げた。
きれいな礼ではなかった。
でも、最初よりはよほど本物に見えた。
「……失礼いたします」
そうして彼女は帰っていく。
サビーネはその背中を見送りながら、奇妙な感覚を覚えた。
勝った、とは思わない。
ざまあみろ、という気持ちも薄い。
ただ、評価が反転するというのは、こういうことなのだろうと思った。
ついこの前まで、オディールは“可哀想で守られるべき娘”として扱われていた。
今、その物語は崩れている。
代わりに自分は、“黙らない侯爵令嬢”として見られている。
どちらが楽かといえば、たぶん前の方が楽だった。
でも、楽なだけの椅子は、ひっくり返るのも早いのだ。
応接間に戻ってきたマルゴが、小さく言った。
「泣きませんでしたね」
「ええ」
「成長でしょうか」
「どちらの?」
「どちらも、でございます」
それを聞いて、サビーネは少しだけ笑った。
評価は、もう戻らない。
少なくとも、劇場前のあの日までには。
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