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第十八話 私が失ったのはあなたではない
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第十八話 私が失ったのはあなたではない
劇場を出る人々の足取りは、入ってきた時よりずっと重かった。
好奇心だけで集まった者は、もういない。
誰もが何かを抱えて帰る顔をしていた。
見たものを、どう解釈し、どこへ運ぶのか。そういう計算をそれぞれの胸の内で始めているのだろう。
王立劇場の正面玄関前には、各家の馬車が整然と並び、従者たちが主の顔色をうかがいながら扉を開けている。夕方の光は少し傾き、石畳へ長い影を落としていた。
舞台から降りたあと、サビーネはすぐには玄関へ出なかった。
父はまだ劇場側の責任者と短く言葉を交わしているし、家令は配布した文書の残部を確認している。マルゴは当然のようにサビーネの横にいる。すべてが終わったようでいて、実際にはまだ“終演後の処理”の最中だった。
「お嬢様」
マルゴが静かに言った。
「何」
「今すぐお帰りになりますか」
その問いの意味はわかった。
劇場前にはまだ人が残る。出ていけば視線を集めるし、何人かは話しかけてくるだろう。労い、探り、あるいは無意味な感想を。
逃げるように帰ることもできる。
でも――
「いいえ」
サビーネは答えた。
「少しだけ、ここにいるわ」
マルゴは小さくうなずいた。
「よろしいかと」
そうして舞台袖に近い廊下で立っていると、何人かの夫人たちが入れ替わりに挨拶へ来た。クラヴェル伯爵夫人は扇の陰で目を細め、「お見事でしたわ」と言った。デュノワ公爵夫人はもっと率直で、「あれだけ見苦しく崩れるなら、もう十分でしょう」と、王子を刺すような一言を残していった。
慈善名義人の婦人の一人は、心底不快そうに「先日の夜会があのようなことに使われたとは、残念です」とだけ言い、短く会釈して去った。
どの言葉も、サビーネにとって甘やかな慰めではなかった。
でも、だからこそよかった。
もう彼女は“かわいそうな娘”として扱われてはいない。
意味のある当事者として見られている。
それだけで十分だった。
やがて人の流れが少し引いた頃、父が戻ってきた。
「帰るぞ」
「ええ」
サビーネがうなずいた、その時だった。
「……サビーネ」
背後から呼ばれた声に、空気が変わる。
低くもなく、高くもない。けれど耳慣れた声。
セドリックだった。
振り返れば、劇場の柱の影に立っている。舞台での逆上の余熱がまだ残っているのか、顔色は悪く、けれど目だけが妙にぎらついていた。王家の政務官たちは少し離れた場所で困りきった顔をしている。止めたいが、公然とは止めづらい、そんな位置取りだ。
父が一歩前へ出ようとしたが、サビーネは小さく首を振った。
ここは自分で終えるべき場面だと、もうわかっていた。
「何かしら、殿下」
わざと平坦に呼ぶ。
もう婚約者ではない。
ただの王子だ。
そのことが、たぶん彼にはいちばん堪える。
「……少し、話がしたい」
セドリックはそう言った。
サビーネは一瞬だけ目を細める。
話。
どんな話だろう。
謝罪か、言い訳か、怒りの続きをぶつけるつもりか。
「ここでよろしければ」
サビーネが返すと、セドリックの眉がぴくりと動いた。
「ここで?」
「ええ。先ほどまで、あれだけ大きな声でお話しなさっていたではありませんか」
皮肉は弱く、でも十分に届く程度で返す。
セドリックは唇を引き結んだ。
「……お前は、本当に変わったな」
「そうかしら」
「昔なら、もっと穏やかに話した」
「昔は、殿下の体面を守る必要がございましたもの」
あっさり言う。
その瞬間、彼の顔が揺れた。
怒りではない。
もっと別の、理解の追いつかなさに近い表情だった。
「私は……」
言いかけて、彼は一度だけ視線を逸らした。
それが妙に珍しくて、サビーネは逆に静かになる。セドリックという男は、普段は視線を逸らさない。逸らす必要のない場だけを選んで立ってきたからだ。
「私は、お前を失うつもりではなかった」
その一言に、サビーネはしばらく何も言えなかった。
あまりにも、自分勝手な言葉だったからだ。
失うつもりではなかった。
では何のつもりだったのだろう。婚約を公に壊し、別の令嬢を隣へ立たせ、悪女役を押しつけておいて、“失うつもりはなかった”とは。
怒るより先に、呆れが来る。
「……殿下」
サビーネは静かに言った。
「婚約を壊しておいて、それは少し不思議なお言葉ですわね」
「そういう意味じゃない!」
すぐに声が荒くなる。
でも先ほど舞台でやったばかりだからか、自分でもはっとしたように息を整え直す。学習しているのか、ただ疲れているのかはわからない。
「私は……」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「お前なら、わかると思っていた」
その瞬間、サビーネは心の底から疲れた気持ちになった。
ああ、やっぱり。
この人は最後までそこなのだ。
「わかる、とは」
「だから、あの場のことだ。少し大きくなりはしたが、あとでいくらでも――」
「整えられると?」
サビーネが言葉を継ぐと、セドリックは口を閉ざした。
「わたくしが、ですの?」
「……お前はいつも、そうしてきただろう」
ついに本音が出る。
声は強くない。
でも、その分だけ露骨だった。
いつもそうしてきただろう。
つまり、今回もそうしてくれると思っていたのだ。
サビーネは、自分の胸の奥が急にすうっと冷えていくのを感じた。
もう怒りでもない。
悲しみとも少し違う。
ただ、はっきりと理解してしまったのだ。
この人は本当に、自分が何をしたのかをわかっていない。
わかっているのは、“自分が今、不便になった”ということだけだ。
「殿下」
サビーネはまっすぐ彼を見た。
「わたくしが失ったのは、あなたではありません」
セドリックの顔がこわばる。
「何だと」
「時間です」
静かに、でもはっきりと言う。
「あなたの後始末に使った時間。あなたの体面を整えるために費やした時間。あなたが少しでもましに見えるように、言葉を選び、手紙を整え、贈り物を考え、人の機嫌を読み続けた時間」
彼は何も言えない。
「わたくしが失ったのは、婚約者ではありません」
サビーネは続ける。
「自分の人生の一部です」
その言葉は、思っていた以上に自分自身へ深く響いた。
そうだ。
たしかに恋もあったかもしれない。情も、期待も、未来への想像も。
でも一番重かったのは、そこではない。
自分が差し出してきた時間と労力、それが“当然のもの”として消費されていたこと。
そして、そのうえで平気で切り捨てられたこと。
それが何より痛かったのだ。
「お前は……」
セドリックが、ようやく絞り出すように言う。
「そんなふうに思っていたのか」
「ええ」
「今まで一度も、そんなこと……」
「申し上げる前に、気づいていただきたかったもの」
サビーネは微笑みもしなかった。
ただ事実として返した。
「婚約者とは、便利な後始末係ではありませんわ」
その一言で、セドリックは完全に言葉を失った。
後ろで控えていた政務官が、いまなら引き剥がせると思ったのだろう、一歩だけ近づく気配がした。だがサビーネはまだ視線を逸らさない。
ここで終えなければならない。
「殿下は、わたくしを失ったことを惜しんでいるのではありません」
最後に言う。
「わたくしがもう、あなたのために何も整えないことを惜しんでいるのです」
静寂。
それはあまりにも正確で、あまりにも残酷な言葉だった。
でも、嘘ではない。
セドリックの顔から血の気が引いていく。怒り返すことも、否定することもできない。たぶん彼自身、胸のどこかでそれが真実に近いとわかってしまったからだろう。
政務官がついに前へ出る。
「殿下、もう」
その声は、助け船というより退場を促すものだった。
セドリックは動かない。
けれど居場所もない。
劇場前の空気は、先ほどまでよりさらに冷えきっていた。誰もあからさまに見てはいない。だが、誰も見ていないわけでもない。
もう十分だ。
「お父様」
サビーネは父へ向き直る。
「帰りましょう」
父は短くうなずいた。
「ああ」
それだけで、会話は終わる。
サビーネはもう一度もセドリックを見なかった。
見なくてもわかる。彼はそこに立ち尽くしたまま、自分が何を失ったのかを、ようやく少しずつ理解し始めている最中なのだろう。
でも遅い。
遅すぎる。
マルゴが外套を整えながら、小さく言った。
「お嬢様」
「何」
「いまのは、かなり効いたと思います」
「そう」
「はい。心当たりのある方ほど、静かになりますので」
言い方が嫌らしい。
でも、その通りでもある。
馬車へ乗り込む直前、サビーネは一度だけ劇場を振り返った。
王立劇場。
あの日、見世物として立たされた場所。
そして今日、自分の言葉で意味を奪い返した場所。
たぶんこれで終わりではない。
王家はまだ動くだろうし、社交界も好き勝手に話を広げるだろう。
でも一つだけ、はっきりしたことがある。
自分はもう、誰かの都合で沈黙する娘ではない。
馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませて動き出す。
その揺れの中で、サビーネは目を閉じた。
少しだけ疲れていた。
でも、胸の奥は不思議と静かだった。
痛みが消えたわけではない。
ただ、その痛みに、やっと正しい名前をつけられた気がしたのだ。
劇場を出る人々の足取りは、入ってきた時よりずっと重かった。
好奇心だけで集まった者は、もういない。
誰もが何かを抱えて帰る顔をしていた。
見たものを、どう解釈し、どこへ運ぶのか。そういう計算をそれぞれの胸の内で始めているのだろう。
王立劇場の正面玄関前には、各家の馬車が整然と並び、従者たちが主の顔色をうかがいながら扉を開けている。夕方の光は少し傾き、石畳へ長い影を落としていた。
舞台から降りたあと、サビーネはすぐには玄関へ出なかった。
父はまだ劇場側の責任者と短く言葉を交わしているし、家令は配布した文書の残部を確認している。マルゴは当然のようにサビーネの横にいる。すべてが終わったようでいて、実際にはまだ“終演後の処理”の最中だった。
「お嬢様」
マルゴが静かに言った。
「何」
「今すぐお帰りになりますか」
その問いの意味はわかった。
劇場前にはまだ人が残る。出ていけば視線を集めるし、何人かは話しかけてくるだろう。労い、探り、あるいは無意味な感想を。
逃げるように帰ることもできる。
でも――
「いいえ」
サビーネは答えた。
「少しだけ、ここにいるわ」
マルゴは小さくうなずいた。
「よろしいかと」
そうして舞台袖に近い廊下で立っていると、何人かの夫人たちが入れ替わりに挨拶へ来た。クラヴェル伯爵夫人は扇の陰で目を細め、「お見事でしたわ」と言った。デュノワ公爵夫人はもっと率直で、「あれだけ見苦しく崩れるなら、もう十分でしょう」と、王子を刺すような一言を残していった。
慈善名義人の婦人の一人は、心底不快そうに「先日の夜会があのようなことに使われたとは、残念です」とだけ言い、短く会釈して去った。
どの言葉も、サビーネにとって甘やかな慰めではなかった。
でも、だからこそよかった。
もう彼女は“かわいそうな娘”として扱われてはいない。
意味のある当事者として見られている。
それだけで十分だった。
やがて人の流れが少し引いた頃、父が戻ってきた。
「帰るぞ」
「ええ」
サビーネがうなずいた、その時だった。
「……サビーネ」
背後から呼ばれた声に、空気が変わる。
低くもなく、高くもない。けれど耳慣れた声。
セドリックだった。
振り返れば、劇場の柱の影に立っている。舞台での逆上の余熱がまだ残っているのか、顔色は悪く、けれど目だけが妙にぎらついていた。王家の政務官たちは少し離れた場所で困りきった顔をしている。止めたいが、公然とは止めづらい、そんな位置取りだ。
父が一歩前へ出ようとしたが、サビーネは小さく首を振った。
ここは自分で終えるべき場面だと、もうわかっていた。
「何かしら、殿下」
わざと平坦に呼ぶ。
もう婚約者ではない。
ただの王子だ。
そのことが、たぶん彼にはいちばん堪える。
「……少し、話がしたい」
セドリックはそう言った。
サビーネは一瞬だけ目を細める。
話。
どんな話だろう。
謝罪か、言い訳か、怒りの続きをぶつけるつもりか。
「ここでよろしければ」
サビーネが返すと、セドリックの眉がぴくりと動いた。
「ここで?」
「ええ。先ほどまで、あれだけ大きな声でお話しなさっていたではありませんか」
皮肉は弱く、でも十分に届く程度で返す。
セドリックは唇を引き結んだ。
「……お前は、本当に変わったな」
「そうかしら」
「昔なら、もっと穏やかに話した」
「昔は、殿下の体面を守る必要がございましたもの」
あっさり言う。
その瞬間、彼の顔が揺れた。
怒りではない。
もっと別の、理解の追いつかなさに近い表情だった。
「私は……」
言いかけて、彼は一度だけ視線を逸らした。
それが妙に珍しくて、サビーネは逆に静かになる。セドリックという男は、普段は視線を逸らさない。逸らす必要のない場だけを選んで立ってきたからだ。
「私は、お前を失うつもりではなかった」
その一言に、サビーネはしばらく何も言えなかった。
あまりにも、自分勝手な言葉だったからだ。
失うつもりではなかった。
では何のつもりだったのだろう。婚約を公に壊し、別の令嬢を隣へ立たせ、悪女役を押しつけておいて、“失うつもりはなかった”とは。
怒るより先に、呆れが来る。
「……殿下」
サビーネは静かに言った。
「婚約を壊しておいて、それは少し不思議なお言葉ですわね」
「そういう意味じゃない!」
すぐに声が荒くなる。
でも先ほど舞台でやったばかりだからか、自分でもはっとしたように息を整え直す。学習しているのか、ただ疲れているのかはわからない。
「私は……」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「お前なら、わかると思っていた」
その瞬間、サビーネは心の底から疲れた気持ちになった。
ああ、やっぱり。
この人は最後までそこなのだ。
「わかる、とは」
「だから、あの場のことだ。少し大きくなりはしたが、あとでいくらでも――」
「整えられると?」
サビーネが言葉を継ぐと、セドリックは口を閉ざした。
「わたくしが、ですの?」
「……お前はいつも、そうしてきただろう」
ついに本音が出る。
声は強くない。
でも、その分だけ露骨だった。
いつもそうしてきただろう。
つまり、今回もそうしてくれると思っていたのだ。
サビーネは、自分の胸の奥が急にすうっと冷えていくのを感じた。
もう怒りでもない。
悲しみとも少し違う。
ただ、はっきりと理解してしまったのだ。
この人は本当に、自分が何をしたのかをわかっていない。
わかっているのは、“自分が今、不便になった”ということだけだ。
「殿下」
サビーネはまっすぐ彼を見た。
「わたくしが失ったのは、あなたではありません」
セドリックの顔がこわばる。
「何だと」
「時間です」
静かに、でもはっきりと言う。
「あなたの後始末に使った時間。あなたの体面を整えるために費やした時間。あなたが少しでもましに見えるように、言葉を選び、手紙を整え、贈り物を考え、人の機嫌を読み続けた時間」
彼は何も言えない。
「わたくしが失ったのは、婚約者ではありません」
サビーネは続ける。
「自分の人生の一部です」
その言葉は、思っていた以上に自分自身へ深く響いた。
そうだ。
たしかに恋もあったかもしれない。情も、期待も、未来への想像も。
でも一番重かったのは、そこではない。
自分が差し出してきた時間と労力、それが“当然のもの”として消費されていたこと。
そして、そのうえで平気で切り捨てられたこと。
それが何より痛かったのだ。
「お前は……」
セドリックが、ようやく絞り出すように言う。
「そんなふうに思っていたのか」
「ええ」
「今まで一度も、そんなこと……」
「申し上げる前に、気づいていただきたかったもの」
サビーネは微笑みもしなかった。
ただ事実として返した。
「婚約者とは、便利な後始末係ではありませんわ」
その一言で、セドリックは完全に言葉を失った。
後ろで控えていた政務官が、いまなら引き剥がせると思ったのだろう、一歩だけ近づく気配がした。だがサビーネはまだ視線を逸らさない。
ここで終えなければならない。
「殿下は、わたくしを失ったことを惜しんでいるのではありません」
最後に言う。
「わたくしがもう、あなたのために何も整えないことを惜しんでいるのです」
静寂。
それはあまりにも正確で、あまりにも残酷な言葉だった。
でも、嘘ではない。
セドリックの顔から血の気が引いていく。怒り返すことも、否定することもできない。たぶん彼自身、胸のどこかでそれが真実に近いとわかってしまったからだろう。
政務官がついに前へ出る。
「殿下、もう」
その声は、助け船というより退場を促すものだった。
セドリックは動かない。
けれど居場所もない。
劇場前の空気は、先ほどまでよりさらに冷えきっていた。誰もあからさまに見てはいない。だが、誰も見ていないわけでもない。
もう十分だ。
「お父様」
サビーネは父へ向き直る。
「帰りましょう」
父は短くうなずいた。
「ああ」
それだけで、会話は終わる。
サビーネはもう一度もセドリックを見なかった。
見なくてもわかる。彼はそこに立ち尽くしたまま、自分が何を失ったのかを、ようやく少しずつ理解し始めている最中なのだろう。
でも遅い。
遅すぎる。
マルゴが外套を整えながら、小さく言った。
「お嬢様」
「何」
「いまのは、かなり効いたと思います」
「そう」
「はい。心当たりのある方ほど、静かになりますので」
言い方が嫌らしい。
でも、その通りでもある。
馬車へ乗り込む直前、サビーネは一度だけ劇場を振り返った。
王立劇場。
あの日、見世物として立たされた場所。
そして今日、自分の言葉で意味を奪い返した場所。
たぶんこれで終わりではない。
王家はまだ動くだろうし、社交界も好き勝手に話を広げるだろう。
でも一つだけ、はっきりしたことがある。
自分はもう、誰かの都合で沈黙する娘ではない。
馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませて動き出す。
その揺れの中で、サビーネは目を閉じた。
少しだけ疲れていた。
でも、胸の奥は不思議と静かだった。
痛みが消えたわけではない。
ただ、その痛みに、やっと正しい名前をつけられた気がしたのだ。
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