『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第十七話 王子の逆上

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第十七話 王子の逆上

 侯爵家の文書控えが前列からゆっくりと広がっていくにつれ、劇場の空気はさらに重くなっていった。

 紙というものは不思議だ、とサビーネは思う。

 声だけなら、あとでいくらでも“感情的だった”“少し大げさだった”と薄められる。けれど、文字になった要点は厄介だ。見た者の手元に残り、隣の者へ渡り、帰宅後の食卓にまでついていく。

 あの夜をどう覚えるか。

 その土台が、今この場で紙の形を取って配られている。

 前方の席ではクラヴェル伯爵夫人が文書へ目を落とし、ラングレー侯爵夫人は隣席の夫人へ何事か囁きかけては首を振った。慈善事業に名を連ねる婦人たちは露骨に顔色を変えている。自分たちの名義が、王子の私情の舞台装置に使われた形なのだ。面白がって済ませられる類ではない。

 王家側の一角だけが、妙に静かだった。

 静かだが、その静けさは落ち着きではない。

 耐えている静けさだ。

 サビーネは客席の端へ視線を流した。

 第二王子セドリック。

 あの日と同じ金髪、同じ整った顔立ち。なのに今は、舞台の上から見下ろすと、その輪郭のどこかが頼りなく見えた。華やかな場所に立つ時だけ完成するはずの男が、今日のこの劇場では明らかに居場所を失っている。

 彼は最初、ただ顔を強張らせていた。

 次に、文書が配られ始めると眉をひそめた。

 そして、自分の周囲の視線が少しずつ変わっていくのを感じたのだろう。ついに、その顔が怒りの色へ傾いていく。

 来る、とサビーネは思った。

 感情で押してくる。

 あの人は結局そこへ戻る。

 政務官がわずかに身を乗り出し、何かを囁いて止めようとしたのが見えた。だが遅かった。

 セドリックが、立ち上がった。

 劇場のざわめきが一瞬だけ途切れる。

 王子が席から立つ。
 それだけで、人はまだ反射的に注目してしまう。

「ふざけるな!」

 響いた声は、怒鳴り声だった。

 あの日の壇上で聞いた声と同じ。だが今日は、支える空気がない。

「サビーネ、お前は何を勝手なことを言っている!」

 劇場がしんと静まる。

 ああ、と思う。

 この人は、本当に自分で幕を破ってしまうのだ。

 父が舞台袖で動きかけた気配がしたが、サビーネはわずかに手を上げて制した。

 まだ自分で返せる。

 セドリックは客席の一角から舞台を睨みつけている。立っている位置が半端なのも滑稽だった。壇上へ出る勇気はない。だが黙って座ってもいられない。その中途半端さが、いかにも彼らしい。

「私は、お前をそこまで貶めたつもりはない!」

 その言葉に、あちこちで小さく息を呑む音がした。

 つもりはない。

 なんと便利な言葉だろう。

 サビーネは舞台の中央でまっすぐ立ったまま、静かに答えた。

「では、どういうつもりでしたの」

 怒鳴り返さない。

 問いだけを返す。

 それがいちばん効く。

「どういう……」

 セドリックが一瞬詰まる。

「私は、真実を明らかにしようとしただけだ!」

「真実」

 サビーネは繰り返した。

「どの真実ですの?」

「お前がオディールを苦しめていたことだ!」

 後方の席にいたオディールが、びくりと肩を震わせる。今日は泣き顔の角度を作る余裕もないらしい。

 サビーネは視線を逸らさずに言った。

「ではお尋ねします、殿下。今ここで、もう一度具体をお示しになりますか」

 セドリックの顔が強張る。

 やはりそこだ。

 彼には“空気”は語れても、具体は語れない。

「先日も申し上げましたわね」

 サビーネは続ける。

「どの場で、どの言葉で、何をもって、わたくしがメルヴィ嬢を害したのかと」

「お前は、いつも冷たかった!」

「冷たいことと、婚約者を公衆の面前で断罪してよいことは、同じではありませんわ」

 ざわめきが広がる。

 その通りだ。

 皆、顔にそう書いている。

 セドリックはさらに声を荒らげた。

「お前は嫉妬深く、狭量で、自分以外の女が私のそばにいるのを許さなかった!」

「婚約者でしたもの」

 サビーネは即答した。

 それだけで、空気が止まる。

「許さなかった、ではなく、不快に思いましたの」

 静かに区切る。

「そしてそれは、当然ではありませんか」

 前方で、クラヴェル伯爵夫人が小さく扇を鳴らした。

 同意のしるしに近い音だった。

 セドリックはそれに気づいたのだろう。さらに苛立ったように一歩前へ出る。客席の中で立ったまま、舞台との距離だけが妙に目立つ。

「お前はいつもそうだ! 私を正そうとする! 見下したような顔で、いちいち――」

 そこまで言って、彼ははっとしたように口をつぐんだ。

 遅い。

 でももう遅い。

 客席の空気が明らかに変わった。

 王子がいま怒っているのは、婚約者として傷つけられた女に対してではない。
 自分の至らなさを知っていた相手に対してだ。
 そのことが、誰の目にも見えてしまった。

 サビーネはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。

「なるほど」

 その二文字だけで、さらに劇場が静まる。

「つまり殿下は、わたくしの冷酷さや傲慢さより、“自分の失態を知っている者が黙っていなかったこと”に腹を立てておいでなのですね」

「違う!」

「では、違うと示してくださいませ」

 また問いを返す。

 セドリックの息が乱れる。

「お前は……っ、あの日、あんな場で私に恥をかかせた!」

 ついに言った。

 サビーネは胸の奥で冷たく笑う。

 ああ、やっぱり。

 この人にとって、あの夜の中心はそこなのだ。

「恥をかいた?」

 サビーネは静かに言う。

「殿下ご自身が、あの夜、何をなさったかではなく?」

 またざわめき。

 しかも今度は、笑いに近い揺れが混じっている。

 セドリックは気づいていないのかもしれない。怒れば怒るほど、彼は“真実の愛のために立ち上がった王子”ではなく、“想定外の反撃に逆上している未熟な男”へ変わっていく。

「私は……!」

 言葉が続かない。

「私は、正しいと思ったから――」

「正しいと?」

 サビーネは一歩だけ前へ出る。

「慈善晩餐会を私的婚約破棄の舞台に使い、侯爵家へ通達なく、別の令嬢を隣へ置き、わたくしへ説明も準備もないまま壇上へ上げたことを?」

 セドリックが息を呑む。

「それを本当に、今でも正しいと思っておいでですの?」

 劇場全体が、彼の答えを待つ沈黙へ変わる。

 誰も助けない。

 政務官も、女官長も、侍従も。
 いまここで下手に口を挟めば、王家ごと巻き添えになるとわかっているのだろう。

 セドリックは立ったまま、拳を握っていた。

 怒りか、羞恥か、その両方か。顔は赤くなり、次に青ざめ、また赤くなる。見ている方が苦しくなるくらい、感情が露わだった。

 あの夜、彼が自分へ求めたのは、この姿だったのだろう。
 取り乱し、視線を集め、恥をさらす姿。

 皮肉なものだ。

 いまその役をやっているのは、彼自身なのだから。

 しばらくして、セドリックは絞り出すように言った。

「……少なくとも、あそこまで大ごとにする必要はなかった」

 劇場の空気が、ぴんと張る。

 それはつまり、“やり方はともかく、するつもりはあった”と認めたに近い。

 サビーネはその言葉を逃さなかった。

「では、婚約解消をあの場で行う意思はあったのですね」

「私は……!」

「大ごとにするつもりはなかった、というのは」

 サビーネは冷静に重ねる。

「わたくしが黙って恥を引き受ける想定だった、という意味かしら」

 前方の席で、誰かが小さく息を呑む。

 セドリックは言葉を失った。

 正面から言われると、さすがにそれがどう聞こえるかはわかるのだろう。

 だがもう遅い。

 今日の劇場には、皆が見ている。
 そして彼は、自分で自分の未熟さを上演している。

「殿下」

 サビーネはそこで声を少しだけ落とした。

「わたくしは、あの日、婚約を壊されたことだけで立ったのではありません」

 静かに言う。

「壊すにしても、やってはならないやり方があったから立ったのです」

 セドリックは唇を噛んだまま、動かない。

「ですが殿下が今ここでお示しになったのは、そのやり方の是非より、“ご自分が恥をかいたこと”への怒りでした」

 誰も否定しない。

 できないのだ。

 すでに、皆見てしまったから。

 王子の逆上が、何に向いていたのかを。

 その時、前列にいたデュノワ公爵夫人が、はっきり聞こえる声で言った。

「もう、およしなさいませ」

 それはサビーネではなく、セドリックへ向けられた言葉だった。

 劇場の空気が、また少し変わる。

 王子を止める声が、ついに客席の上位夫人から出たのだ。

「これ以上は、殿下ご自身の品位を損ねるだけですわ」

 セドリックの顔が真っ赤になる。

 けれど、反論できない。

 相手は王家にとっても軽んじられない公爵夫人だ。ここで食ってかかれば、本当に終わる。

 クラヴェル伯爵夫人も続く。

「侯爵令嬢は、今、整えて話しておいでです。少なくとも、殿下よりは」

 その一言は、思った以上に辛辣だった。

 客席のあちこちで視線が動く。

 誰がどちらへつくのか。

 いや、もうその段階ではないのかもしれない。
 どちらが“見苦しいか”が決まりつつあるのだ。

 セドリックは何か言おうとしたが、喉のところで詰まり、結局言葉にならなかった。

 そして、立ったままでは居場所がないことに、ようやく気づいたらしい。

 彼は荒い呼吸のまま席へ腰を落とした。

 舞台から見れば、その動きは敗走に近かった。

 サビーネはその姿を見下ろしながら、奇妙なくらい静かな気持ちだった。

 痛快、ではない。

 少し違う。

 むしろ、“やっぱりこうなるのね”という冷えた納得に近い。

 あの人は、自分を捨てたことを後悔しているのではない。
 自分を捨てたあと、都合よく黙っていてくれなかったことに腹を立てている。
 今日、それが誰の目にも見えた。

 それだけでもう十分だった。

 父が舞台袖から一歩進み出る。

「以上で、侯爵家からの説明は終える」

 低い声が、劇場を締め直す。

「本日ここで起きたことも含め、皆様にはそれぞれお持ち帰りいただきたい」

 それは事実上の終幕宣言だった。

 誰も拍手しない。

 だが沈黙の重みが、何より雄弁だった。

 セドリックはうつむいたまま動かず、オディールは青ざめて膝の上で指を絡めている。王家側の政務官は、もはや何一つ場を回収できない顔だった。

 サビーネはゆっくり一礼した。

 あの日、彼が自分へ押しつけようとした“みっともなさ”は、今日、まるごと彼のもとへ返った。

 無理に奪い取ったわけではない。

 彼が自分で引き受けたのだ。

 だからこそ、痛い。
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