『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十八話 侍女の祝杯

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第二十八話 侍女の祝杯

 ヨアヒム・ベルナールが帰ったあと、部屋には妙にやわらかい静けさが残った。

 さっきまで確かにそこにいた人の気配が、まだ空気の中へ薄く混ざっているような感じだ。扉は閉まり、足音も遠ざかって、物音としては何も残っていないのに、言葉だけがちゃんと部屋に留まっている。

 あなたと話している時間がいちばん気が楽です。

 不器用で、飾り気がなくて、でもまっすぐな言葉だった。

 思い返すたびに、サビーネは少しだけ困ったような気持ちになる。

 もっと華やかな口説き文句なら、たぶんここまで胸へ残らなかった。社交界の男たちは、とかく言葉を磨きすぎる。甘さを足し、気障さを混ぜ、あとで誰にでも同じことを言っていそうな形へ整えてしまう。

 でも彼は違った。

 整っていない。
 なのに、嘘もない。

 だから困るのだ。

「お嬢様」

 その静けさを、きっちり壊しにくる声がした。

 マルゴである。

 サビーネはまだ余韻の残る顔のまま振り向いた。

「何かしら」

「少々、相談がございます」

「今?」

「はい。できれば至急」

 その言い方に、サビーネは少しだけ眉を寄せる。

「何か問題でも?」

「問題というより、機会です」

 また妙な言い方だ。

 マルゴはきわめて真面目な顔で続けた。

「本日は、ささやかな祝賀を行うべきかと」

「……祝賀?」

「はい」

「何の」

 そこを聞くと、マルゴはほんの一瞬だけ、あきれたように息を吐いた。

「お嬢様」

「何」

「そこからでございますか」

 そこからです、と思う。

「劇場で意味を奪い返し、王子の泣きつきを切り捨て、さらに監督官殿より、かなり質のよいお言葉を頂戴した日でございます」

 かなり質のよいお言葉、という表現に、サビーネは少しだけ頬が熱くなる。

「……あなた、ずいぶんはっきり言うわね」

「本日のわたくしは、かなり気分がよろしいので」

 珍しいこともあるものだ。

 マルゴは両手を前で組み、どこか誇らしげに言った。

「ですので、祝杯を上げるべきかと」

「侍女のくせに、発想がやたら景気いいわね」

「侍女ですので」

 その理屈はよくわからない。

 でも、少しだけ可笑しい。

 サビーネは椅子へ腰を下ろしなおした。

「何をするつもりなの」

「たいしたことではございません」

 その顔は、たいしたことを企んでいる時の顔だった。

「温かいお茶と、甘いものを少々。それから、できれば小さな乾杯を」

「お酒なの?」

「お嬢様が酔って泣かれても困りますので、本日は控えます」

「その前提が失礼だわ」

「ですが可能性はございます」

 ぴしゃりと言われ、サビーネは反論しきれなかった。

 少し前の自分なら、こういう提案に乗る気はあまり起きなかっただろう。まだ何も終わっていないのに祝うなんて、と。王宮との間の問題も残っているし、王都の噂だって静まっていない。オディールもセドリックも、これからまだ動くはずだ。

 でも今は、少しだけ違う気がした。

 全部片づいてからしか息をついてはいけない、なんてことはないのかもしれない。

 勝った日には、少しくらい祝ってもいい。
 少なくとも、今日はそれを許してもよさそうだった。

「……少しだけなら」

 サビーネが言うと、マルゴは即座に一礼した。

「十分でございます」

 その返事の速さに、前から準備していたのではないかと疑いたくなる。

「待って」

「はい」

「まさか、もう何か用意してあるの」

 マルゴは少しも悪びれずに答えた。

「はい」

「あるのね」

「こういう日は、勢いが大切ですので」

 言いながら、彼女はすでに扉の方へ向かっている。完全に段取り済みらしい。

 しばらくして、小卓には湯気の立つ紅茶と、小さな焼き菓子がいくつも並んだ。侯爵家の正式な晩餐のような大仰さはない。けれど、部屋の中へ甘い香りが漂うだけで空気が少しやわらかくなる。

「ずいぶん本格的ね」

 サビーネが言うと、マルゴは平然としている。

「祝杯ですので」

「お茶で」

「本日はそれで十分です」

 たしかに、いま酒など入れたら話が変な方向へ転びそうだ。

 サビーネがカップへ手を伸ばしたその時、控えめなノックが響いた。

 マルゴが眉をひそめる。

「誰かしら」

「確認してまいります」

 扉を開けた先で、マルゴがほんの少しだけ間を置いた。

「……どうぞ」

 その言い方に、サビーネは顔を上げる。

 入ってきたのは、ヨアヒムの補佐官ギスランだった。

 相変わらず無口そうで、威圧感のある男である。黒に近い外套をきっちり着込み、表情もほとんど動かない。だがその手には、大きめの包みが一つあった。

 サビーネは思わず目を瞬いた。

「ギスラン様?」

 呼びかけると、彼は短く一礼した。

「夜分、失礼いたします」

「どうなさいましたの」

「監督官よりではありません」

 開口一番、そこを切る。

 その言い方が少しだけ可笑しくて、サビーネは口元を押さえた。

「そうなの?」

「はい」

 ギスランは包みを両手で持ったまま、続けた。

「ただ、帰路で菓子店の前を通りましたところ、監督官がしばらく立ち止まっておられたので」

 サビーネの頬が、また少しだけ熱くなる。

 どうしてそういうことを正面から言うのだろう、この人たちは。

「……それで?」

「買わずに去られました」

 マルゴが背後で、ふっと小さく息を漏らした。笑ったのかもしれない。

「ですので、余計なお世話かとは存じましたが」

 ギスランは包みを差し出した。

「補佐官判断で、少しばかり追加の甘味を」

 その無表情な言い方があまりにも妙で、サビーネはとうとう吹き出した。

「補佐官判断、なのね」

「はい」

「監督官はご存じないの?」

「おそらく、まだ」

 ひどい。

 でも、少しだけうれしい。

 マルゴが包みを受け取り、丁寧に開く。中から出てきたのは、薄い砂糖をまとった小さな菓子と、ナッツを焼き込んだ香ばしい焼き物だった。

「まあ」

 サビーネが言う。

「ギスラン様は、お甘いものがお好きなのね」

 すると、ほんの一瞬だけ、彼の沈黙が固まった。

 図星らしい。

「……否定はいたしません」

 やがて返ってきた答えに、マルゴが完全に笑いをこらえている顔になった。

「結構でございます」

 どこが結構なのかはわからない。

 でも部屋の空気は、さっきまでよりずっと軽くなっていた。

「ご一緒になさいます?」

 サビーネが聞くと、ギスランは一拍だけ考え、静かに首を横へ振った。

「いえ。本日は届けるのみで」

「残念」

 そう言うと、彼はほんの少しだけ目を伏せた。

「監督官には、何も申しませんので」

「そこはお約束いたします」

 サビーネが笑って答えると、ギスランはもう一度だけ礼をして去っていった。

 扉が閉まるなり、マルゴが振り返る。

「……大変よろしい夜ですね」

「そうね」

「監督官殿は蜂蜜菓子を送り、補佐官殿は補佐官判断で追加の甘味を持ち込む」

「あなた、その整理の仕方やめてくださる?」

「事実でございます」

 はいはい、またそれね、とサビーネは思う。

 でも、今日はその事実がずいぶんおかしく、やさしく見えた。

「では」

 マルゴが改めてカップを手に取る。

「今度こそ、祝杯を」

「お茶で?」

「ええ」

「何に対して?」

 わざと聞くと、マルゴは珍しく少しだけ考えるような顔をした。

「まず、お嬢様がようやく、ご自分の足で立っておいでだということ」

 サビーネは黙って聞く。

「それから、見世物にされた劇場を、ご自身の言葉の場へ変えたこと」

「ええ」

「さらに、殿下の泣きつきに戻らなかったこと」

「それも」

「最後に」

 マルゴはほんの少しだけ、いたずらっぽく言った。

「ずいぶん地味ではございますが、悪くないお相手と、ちゃんと呼吸の合う会話を始められたことに」

 サビーネは頬が熱くなるのを感じた。

「あなた、そこを入れるのね」

「重要事項でございますので」

「本当に?」

「はい。お嬢様が話していて疲れない相手は貴重です」

 その評価が、妙に的確で何も言い返せない。

 サビーネは結局、笑ってカップを持ち上げた。

「……では、ささやかに」

「はい。ささやかに」

 カップの縁が、小さく触れ合う。

 音は本当にかすかだった。華やかな晩餐の乾杯とは比べものにならないほど地味な音。けれど、その小ささが今はちょうどよかった。

 二人で菓子をつまみ、紅茶を飲む。

 マルゴは珍しく饒舌だった。劇場でのデュノワ公爵夫人の一言がいかに痛快だったか、王家の宝石箱がどれほど趣味が悪かったか、ギスランの沈黙は実にわかりやすかったことなどを、いつになく楽しそうに語る。

 サビーネもそれに応じて、つい声を立てて笑ってしまう。

 こんなふうに、ただ甘いものを食べて笑う夜が来るとは思わなかった。

 全部が終わったわけではない。
 王宮との距離も、社交界の流れも、まだ動いている途中だ。
 それでも今日くらいは、少しだけ息をついてもいいのだろう。

「お嬢様」

 マルゴが不意に言った。

「何かしら」

「本日は、よいお顔をしております」

「それは褒めているの?」

「ええ。かなり」

「珍しいわね」

「祝杯の日ですので」

 その理屈もよくわからないが、今日はそれでよかった。

 サビーネは窓の外を見た。夜の庭は静かで、屋敷の灯りがやわらかく芝生を照らしている。昼間に浴びた視線も、王子の泣きつきも、今は少し遠かった。

 代わりに胸の中へ残っているのは、不器用な告白と、補佐官判断の甘い菓子と、それを当然のように祝杯の理由へ組み込む侍女の声だ。

 人生はずいぶん急に、妙な方向へやさしくなるものらしい。

 サビーネはカップの残りを飲み干し、静かに息を吐いた。

 たぶん今夜は、少しだけよく眠れる。
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