『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第二十九話 最後の悪あがき

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第二十九話 最後の悪あがき

 祝杯の翌朝は、驚くほど穏やかに始まった。

 穏やか、といっても問題が消えたわけではない。王宮はまだ完全に沈黙してはいないし、王都の噂は相変わらず人の口から口へ渡り歩いている。第二王子セドリックも、オディール・メルヴィも、このまま静かに沈んで終わるような性格ではないだろう。

 けれど、それでも朝の空気だけは少し違っていた。

 昨夜、サビーネはちゃんと笑った。
 甘いものを食べて、マルゴの毒舌に笑って、ギスランの“補佐官判断”に肩を揺らして、そして最後には、自分が少しだけ前へ進んだことをちゃんと祝えた。

 その余韻が、朝の光と一緒にまだ部屋のどこかへ残っている気がする。

「お嬢様」

 窓を開け放ちながら、マルゴが言った。

「はい」

「本日はずいぶん、まともなお顔でございます」

「褒め言葉として受け取っていいのかしら」

「はい。かなり」

 珍しいこともあるものだ。

 サビーネは鏡台の前で髪を整えながら、少しだけ口元をゆるめた。自分でもわかる。今日は顔が軽い。何もかも解決したわけではないのに、不思議なくらい呼吸がしやすい。

「昨日の夜、お茶で乾杯したからかしら」

「それもございます」

 マルゴは衣装箪笥から淡い青灰のドレスを取り出した。

「ですが一番は、お嬢様が“祝ってよいもの”を祝えたからでは」

 その言い方が、妙にしっくりくる。

 劇場で意味を取り返したこと。
 王子の泣きつきを切り捨てたこと。
 そして、自分が話していて息のしやすい相手へ、ちゃんと“私も”と返せたこと。

 そういうものは、終わってからしか祝ってはいけないわけではないのだ。

「あなた」

 サビーネがふと振り向く。

「最近、時々まともなことを言うわね」

「“時々”が余計です」

 ちょうどその時、扉が控えめに叩かれた。

 返事をすると、若い侍女が少し困ったような顔で入ってくる。

「お嬢様」

「何かしら」

「家令より、少々お時間をいただきたいと」

 その言い方で、サビーネは直感した。

 穏やかな朝は、ここまでらしい。

 家令が待っていたのは小応接間だった。父もすでにそこにいて、机の上には見覚えのない書状が一通置かれている。封は切られており、父の顔色はいつも以上に冷えていた。

「おはようございます、お父様」

「ああ」

「何がございましたの」

 父は机上の書状を指先で叩いた。

「侯爵家ではなく、王宮ではなく、メルヴィ嬢の悪あがきだ」

 悪あがき。

 その単語の選び方が、父らしくて少しだけ嫌な予感を深くする。

 サビーネは椅子へ腰を下ろした。

「どういうことですの」

 家令が一礼し、整然と説明を始める。

「本日未明、王都の複数の家へ、匿名に近い形の文書が届けられました」

「匿名に近い?」

「差出人の名はございません。ですが文面と使われた便箋、それに侍女を通じて落ちた話を繋げますと、メルヴィ嬢周辺の動きと見てほぼ間違いないかと」

 サビーネの眉が寄る。

「内容は」

 家令は一枚の控えを差し出した。

 そこには、妙に哀れっぽい筆致でこう書かれていた。

 “ドルレアン侯爵令嬢は、劇場での一件以来、わたくしのような弱い立場の者を追い詰め、王家との関係を利用して、無実の娘を社交界から排除しようとしております”

 その先にも、似たような言葉が続いていた。
 サビーネが自分を脅した。
 劇場の説明会も、すべてはオディールを辱めるためだった。
 侯爵家の力で自分を消そうとしている――。

 読んでいるうちに、怒りより先に妙な感心が来た。

「……ずいぶん雑ね」

 思わずそう言ってしまう。

 父が低くうなずく。

「雑だ。感情だけで書いている」

「でも、放置はできませんわね」

「当然だ」

 ここで見逃せば、また別の形で“可哀想な娘”の物語が息を吹き返す。しかも今度は、侯爵家が弱い娘を潰そうとしているという、もっと厄介な形で。

 マルゴが控えめに、しかし遠慮なく言う。

「ついに自分で墓穴を掘り始めましたね」

「あなた、表現がひどいわ」

「ですが事実です」

 それもまた否定しづらい。

 サビーネは改めて文書へ目を落とした。
 文章は一見やわらかいが、実際にはひどく幼い。自分がどれほど傷ついているかばかりを訴え、なぜその位置へ立ったのか、先日の劇場で何が起きたのかには一切触れない。

 要するに、被害者札だけで押し切ろうとしているのだ。

「どこまで広がっておりますの」

 家令が答える。

「現時点で確認できたのは七家です。ただし、そのうち三家はすでに侯爵家へ照会を寄越しております」

 父が鼻で笑った。

「つまり、全面的に信じたわけではない」

「はい」

 そこが救いだった。

 劇場での説明会が効いているのだろう。以前なら、“可哀想な男爵令嬢が高位貴族に潰される”という話はそれなりに魅力的だったはずだ。だが今は違う。オディールはすでに一度、短気さと甘えを見せている。

 そこへ感情だけの文書が来れば、むしろ“やっぱり”と思う者も多いだろう。

「でも」

 サビーネはゆっくり言った。

「だからといって、放っておいていい内容ではございませんわ」

「もちろんだ」

 父が即座に答える。

「どうなさいますの」

「まず、受け取った家へは侯爵家より簡潔な返答を送る」

 父は机へ手を置いた。

「“そのような文書が流れていることは把握した。侯爵家としては一切関与しておらず、必要があれば直接説明する”と」

「それだけでよろしいの?」

「十分だ。感情的に否定しすぎると、かえって同じ土俵へ降りることになる」

 たしかにそうだ。

 相手は感情で騒いでいる。こちらまで感情の量を増やせば、ただの泥仕合になる。

 必要なのは、整った否定と、必要ならすぐ説明できるという余裕。

「メルヴィ家へは」

 サビーネが問う。

 父の目が少しだけ冷える。

「正式に抗議する」

「侯爵家から?」

「当然だ」

 短い一言に、怒りの温度がきちんと宿っていた。

「娘を劇場で並ばせておいて、今度は匿名まがいの文書でこちらを刺す。家としての統制がないにもほどがある」

 父がそう言うと、サビーネは胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。

 オディール個人の浅はかさだけでは済まない。
 侯爵家に向けて、“高位の家が弱い娘を潰している”という印象を流そうとしたのだ。
 それは十分に、家同士の礼を踏み外している。

「それに」

 父が続ける。

「こういう文は、王家にとっても迷惑だ」

「どうして」

「第二王子殿下の隣へ立った娘が、“私は何も悪くない、侯爵令嬢が悪い”と騒げば、先日の劇場の件をもう一度蒸し返すことになる。王家はいま、それを一番嫌がっている」

 なるほど。

 つまりオディールは、自分を守ろうとして、王家の火消しまで台無しにしかけているのだ。

 どこまで浅いのかと呆れる一方で、もはやここまで来ると少し気の毒にも思える。
 たぶん彼女は、自分がどこへ石を投げているのか、本当に理解していないのだろう。

 そこへ、再び扉が叩かれた。

 家令が振り返る前に、若い従僕が息を切らせ気味に一礼した。

「旦那様」

「何だ」

「王宮から急ぎの使者が」

 父とサビーネが視線を交わす。

 来た、と思った。

 オディールの悪あがきが、王宮の耳へも届いたのだろう。

 使者はすぐに応接間へ通され、丁重だが明らかに急いだ様子で口を開いた。

「ドルレアン侯爵閣下、侯爵令嬢様。このたび、メルヴィ家周辺より不適切な文書が流れている件につき、王家としても遺憾に存じます」

 ずいぶん早い。

 サビーネは内心で少しだけ感心した。火が自分たちの裾へ飛ぶと判断した途端、王家は動きが速い。

「王家としては」

 使者が続ける。

「第二王子殿下と侯爵令嬢様の件を、これ以上不本意な形で蒸し返すことを望んでおりません」

「存じております」

 父の返しは低く冷たい。

「ですが今回の文書は、侯爵家への明確な印象操作であると同時に、王家のご意向とも相反するものでは」

 使者の顔が一瞬だけ強張る。

 図星なのだろう。

 サビーネはそこで初めて口を開いた。

「メルヴィ嬢は、王家より何らかのご指示を受けておいでですの?」

 使者がすぐに首を振る。

「そのようなことはございません」

「でしたら、なおさら困ったことですわね」

 静かに言う。

「わたくしを悪役に戻したいのでしょうけれど、いまさらそのために匿名文書をばらまくのは、ずいぶん稚拙ですもの」

 使者は返す言葉を選べなかった。

 父が低く言う。

「侯爵家としては、メルヴィ家へ正式抗議を行う。王家としても異論はあるまい」

「……ございません」

 即答できなかったのが、すべてだった。

 王家はオディールをもう庇い切れない。
 いや、庇う理由も薄いのだろう。セドリックの隣へ置いておくには、あまりにも危うすぎる。

 使者が去ったあと、部屋の空気が少しだけ軽くなる。

 サビーネは自分の膝の上で手を組み直した。

「本当に、最後の悪あがきだったのね」

 ぽつりとこぼすと、マルゴが言う。

「はい。かなり見苦しい部類の」

「そこまで言わなくても」

「でも事実でございます」

 もうそれはよく知っている。

 父が椅子へもたれた。

「これでメルヴィ家はさらに苦しくなる」

「王家からも?」

「ええ」

 父は短くうなずく。

「自分を守るために勝手な文をばらまく娘は、もはや“可愛いだけの無害な娘”ではない。第二王子殿下の隣に置くには不都合だ」

 その言葉は、ひどく冷たかった。
 でも、これが貴族社会の現実なのだろう。

 夢は崩れ、可憐さの札も剥がれ、最後に残るのは“扱いやすいかどうか”の判断。そこでオディールは、自分から“扱いにくい”側へ転げ落ちた。

「お嬢様」

 マルゴが静かに言う。

「何」

「これで、あの方の“可哀想な娘”はほぼ終わりかと」

 サビーネは少しだけ目を伏せた。

 劇場で意味を変え、昼食会で短気さが見え、そして今回の文書。

 三度も続けば、もう偶然では済まない。
 社交界の婦人たちは、そういうところだけは驚くほどよく学習する。

「……そうね」

 それだけ言う。

 勝った、とは思わなかった。

 でも、あの夜の舞台へ自分を上げた片割れが、自分で自分の足元を崩していくのを見て、何も感じないわけでもない。

 少しだけ、哀れだ。
 少しだけ、腹も立つ。
 そして今は、ただ遠い。

 もうそこへ手を伸ばす気にはならなかった。
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