『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第三十話 舞台から落ちる人たち

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第三十話 舞台から落ちる人たち

 オディールの匿名文書騒ぎが表へ出てから、王都の空気はまた一段冷えた。

 誰かが大声で断罪したわけではない。
 王宮から正式な布告が出たわけでもない。
 けれど、人の扱いというものは、案外そういう静かなところで決まる。

 メルヴィ家へ向かう招待状が減る。
 届いても、席は端へ寄る。
 返礼の文面は整っていても、熱がない。
 そして何より、婦人たちの声が変わる。

 **「可哀想な娘」**ではなく、
 **「少し危うい娘」**として。

 それはオディールにとって、何より残酷な変化だった。

 その日の昼下がり、サビーネは侯爵家の小さな客間で、家令がまとめた最新の一覧に目を通していた。

 劇場以後の招待状の流れ。
 王宮側の出欠調整。
 慈善関連の催しにおける席順の変更。
 そして、第二王子セドリックとオディール・メルヴィの名前が、どこでどう下がっているか。

 数字や日付だけが並んでいるのに、そこには人の温度がよく出る。

「露骨ですわね」

 思わずそうこぼすと、父が机の向こうで答えた。

「社交界はいつも露骨だ。丁寧に包むだけで」

 その通りだ。

 たとえば先週までなら、セドリックの名は王家主催以外の催しでも自然に前列へあった。オディールの名は入らずとも、“同席の可能性あり”として席次が組まれていた家もある。

 だが今は違う。

 セドリック本人の名が、**“王子殿下のご都合がつけば”**という但し書き付きになり、しかも席が後ろへ寄る。オディールにいたっては、最初から名がない。あるいは、あっても“男爵家令嬢の一人”として紛れる形に落ちている。

 舞台の中央に立っていたつもりの二人が、気づけば背景へ押しやられている。

 それが、一覧だけでもわかった。

「お嬢様」

 マルゴが新しい紙を差し出す。

「何かしら」

「本日夕刻の小夜宴についてです。王家より、第二王子殿下はご欠席とのこと」

 サビーネは紙を受け取った。

 欠席。
 理由は体調不良。
 最近、ずいぶん便利に使われる体調だと思う。

「本当に弱っているのかしら」

 ぽつりと言うと、父が鼻で笑った。

「弱ってはいるだろう。精神的にな」

「それを公には言えないので、体調不良」

「そういうことだ」

 サビーネは紙を机へ戻した。

 なんだかもう、少し前までの華やかな王子像がひどく遠い。劇場の壇上で人を断罪したあの勢いはどこへ行ったのか。残ったのは、逆上し、泣きつき、いまは欠席理由の文面へ隠される男だけだ。

 その時、控えめなノックのあとで、若い従僕が一礼した。

「旦那様、奥の応接間へお客様が」

「誰だ」

「デュノワ公爵夫人にございます」

 父とサビーネが視線を交わす。

 珍しい顔だ。
 いや、劇場のあとなら不自然でもないか。

 デュノワ公爵夫人は、以前よりさらに率直な空気をまとって現れた。金糸の刺繍が入った深緑のドレスは上等だが、華やかさより威厳が勝つ。こういう夫人は、機嫌のよしあしだけで周囲の席順が変わる。

「侯爵閣下、侯爵令嬢」

 優雅に一礼してから、彼女はさっそく椅子へ腰を下ろした。

「急でごめんなさいね。でも、今のうちに一度申し上げておいた方がよいと思いましたの」

「何をでしょう」

 父が問うと、夫人は扇を膝へ置いた。

「王宮の周りが、いよいよ第二王子殿下を“お飾りの外側”へ寄せ始めておりますわ」

 外側。
 言い方が容赦ない。

「公に、ですか」

 サビーネが聞くと、夫人は首を振った。

「いいえ。公にはまだ。ただ、出席予定の変更、席順の後退、名代への差し替え、そういう小さなことが続いておりますの。皆、見ていないふりをして、きちんと見ておりますわ」

 それはもう、見切りの完成に近い。

「メルヴィ嬢は」

 サビーネが静かに問う。

 夫人の口元が、少しだけ冷たく動いた。

「ほとんど終わりですわね」

 やはり、そう来る。

「匿名文書の件で、あの娘を庇う声はずいぶん減りましたわ。むしろ、“感情で動きすぎる”“侍女への当たりがきつい”“可憐さにしては荒い”という方が定着してきております」

 ひどく冷静な分析だった。

 でも社交界というのは、こういうものなのだろう。
 一度“可憐”の仮面へひびが入れば、あとはそこばかり見られる。

「そして殿下は」

 夫人が続ける。

「あの娘をもう堂々とは庇えません。庇えば、ご自分の失態とあわせて蒸し返されるからです」

 サビーネは黙って聞いた。

 それが一番効くのだろうと思う。

 オディールが崩れたから見捨てる、というほど単純ではない。セドリックにはその余裕自体がもうないのだ。自分を立て直すだけで精一杯の男に、誰かを抱え続ける力などあるはずがない。

「要するに」

 夫人は言った。

「二人とも、あの夜の舞台から、そろって落ちたのですわ」

 その表現が妙に鮮やかで、サビーネは一瞬だけ息を止めた。

 舞台から落ちた。

 たしかにその通りだった。

 あの夜、セドリックとオディールは自分たちこそが主役だと思っていたはずだ。王子は断罪を宣言し、オディールは守られる可憐な娘として立つ。観客はその筋書きに酔い、サビーネだけが悪役として残る――そういう舞台。

 でも現実には違った。

 サビーネが台本を破り、劇場でもう一度意味を定めなおし、二人は自分の足元を自分で崩し始めた。
 そして今、誰も舞台の中央へ戻してはくれない。

「……少し前までなら」

 サビーネはぽつりと言った。

「そうなっても、まだ何かの拍子に戻るのではと思っていたかもしれません」

 夫人が目を細める。

「今は違う?」

「ええ」

 サビーネは静かに頷く。

「もう、戻らない気がいたします」

 デュノワ公爵夫人は、満足したように少しだけ扇を閉じた。

「それでよろしいのですわ」

 その言い方は、慰めではなく確認だった。

「見切られた者を、こちらが情で拾い上げる必要などございませんもの」

 父が低くうなずく。

「まったくだ」

 その会話を聞きながら、サビーネはふと気づいた。

 以前の自分なら、こういう言葉を少し冷たく感じたかもしれない。あの人たちにも事情があるとか、失った立場の痛みは別の話だとか、どこかで埋めたくなっていたかもしれない。

 でも今は違う。

 もちろん、痛みがわからないわけではない。
 ただ、それと“責任を曖昧にすること”は別だと、ようやく思えるようになったのだ。

 夫人が去ったあと、応接間には短い静けさが落ちた。

 その静けさを破ったのは、またしてもマルゴだった。

「舞台から落ちる、とは、実にぴったりでございますね」

「あなたもそう思う?」

「ええ。もともと高いところへ無理に立っていた方は、落ちる時も派手ですので」

 容赦がない。

 だが今回は、サビーネも否定しなかった。

「でも、派手というより」

 少し考えてから言う。

「今はじわじわ、かしら」

「ええ。落ちたあとに、誰も手を貸さない形で」

 その言い方が、ひどく社交界らしい。

 父が椅子から立ち上がる。

「今後、王家はますます二人を分けて扱うだろう」

「殿下とメルヴィ嬢を?」

「ああ」

 父は短く答える。

「王子は王子として、表へ出すか出さぬかを王家が決める。だがメルヴィ嬢は、もはやそこへ含める価値がない」

 価値。

 冷たい言葉だ。
 でも、今の貴族社会ではそれ以上に正確な言葉もないのかもしれない。

「お嬢様」

 マルゴが少しだけ声を落とす。

「何」

「本日の件、少し気分は悪くなりましたか」

 サビーネは考えた。

 気分が悪い、というよりは――

「遠くなったわ」

「遠く?」

「ええ。あの人たちが、自分と同じ場所にいた頃のことが」

 劇場の壇上。
 婚約者だった時間。
 オディールの涙。
 セドリックの華やかな笑み。
 それらがもう、遠い舞台装置みたいに思える。

 少し前まで、あんなに痛かったのに。

「それはよろしい変化かと」

 マルゴが言う。

「そうね」

 サビーネは窓の外を見た。

 夕方の光が少しずつ薄れ、庭の影が伸びていく。
 舞台から落ちた人たちは、いまどこで何を思っているのだろう。
 王子は見切られ、オディールは札を失い、二人とももう、あの夜の中央には戻れない。

 ざまあみろ、と言い切るには少し疲れていた。
 でも、だからといって手を差し伸べたいとも思わない。

 それがたぶん、終わりということなのだ。

 情ではなく、責任の帰着として。
 怒りではなく、距離の完成として。

 サビーネは静かに息を吐いた。

 舞台から落ちる人たちは、いつも自分の落ちる音ばかり気にする。
 でも本当に怖いのは、そのあと客席が次のものを見始めることなのだろう。

 いま王都は、もう別の風を探している。
 そしてその風の中に、自分はまだ立っている。
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