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第三十一話 誰も見ていない場所で
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第三十一話 誰も見ていない場所で
王都の噂というものは、燃え上がる時は派手なのに、冷める時は驚くほどそっけない。
第二王子セドリックの名は、まだ消えてはいなかった。
オディール・メルヴィの話も、完全に忘れられたわけではない。
けれど、少しずつ人々の関心は別の話題へ移り始めていた。
新しい舞踏会。
季節の催し。
別の家の婚約。
王都という場所は、誰か一人の失態だけを永遠に見続けるほど暇ではない。
その変化を、サビーネは静かに感じていた。
侯爵家へ届く探りの手紙は減り、代わりに“以前から約束していたような顔をした”普通の社交の文面が増え始めている。王宮からのやり取りも、ようやく感情の後処理ではなく、形式の整理へ寄ってきた。
表面だけ見れば、事態は落ち着き始めていた。
でも、サビーネの内側では、別のものがまだ静かに動いていた。
劇場で意味を取り返し、セドリックに最後の言葉を返し、オディールの崩れも見届けた。そこまで来ても、人生が突然すべて綺麗に片づくわけではないらしい。
むしろそのあとで、ようやく“自分はこの先どうしたいのか”を考える時間がやってくる。
それは少し怖くて、でも悪くない時間だった。
その日の夕方、サビーネは屋敷の奥にある小さな庭園へ一人で出ていた。
昼の賑わいが引き、夜の帳が落ちる前のほんの短い時間。薔薇の香りも噴水の音も、日中より少しだけやわらかい。屋敷の中庭よりさらに奥まった場所で、人もほとんど来ない。
最近、サビーネはこの場所を気に入っていた。
劇場みたいに意味を定める必要もなければ、応接間みたいに誰かの視線を受けることもない。ただ、自分の呼吸の音だけがきちんと聞こえる。
石造りの細い道をゆっくり歩きながら、サビーネは空を見上げた。
薄青から群青へ移る途中の色。
まだ一番星も出ていない。
「……静かね」
思わず口に出す。
誰に聞かせるわけでもない、独り言だった。
昔の自分なら、こういう時間を持て余していたかもしれない。誰かの予定を確認し、招待状を整え、次の行事へ備えていないと落ち着かなかった。
でも今は違う。
“何もしない時間”が、少しだけ自分のものになっている気がする。
「そのようですね」
低い声が返ってきて、サビーネは足を止めた。
振り向けば、庭園の入口近くにヨアヒム・ベルナールが立っていた。
今日も相変わらず地味だった。濃い灰色の上着に、飾り気のない手袋。夕暮れの庭に立っていても、華やかな風景の一部になるというより、輪郭のはっきりした影みたいに見える。
でも今のサビーネには、その姿が妙にしっくりきた。
「……監督官」
「ごきげんよう、侯爵令嬢」
「どうしてここに?」
「侯爵閣下へご報告がありまして」
それはもう、最近のお決まりみたいなものだった。
「それで、お父様は?」
「書斎へ戻られました」
「では、もうお帰りになるところ?」
ヨアヒムは一瞬だけ考えるような顔をした。
「本来なら」
その答え方に、サビーネは少しだけ笑った。
「本来なら、ね」
「ええ」
「でも、まだいらっしゃるの?」
「はい」
そこまで言われると、意味がわからないほど鈍くはない。
サビーネは小さく息を吐いた。
「……なら、少しだけ歩かない?」
ヨアヒムはわずかに目を細めた。
「喜んで」
それだけで十分だった。
二人で庭園の石道をゆっくり歩き出す。
並んでいるのに、妙に息が楽だった。会話を急がなくていい。沈黙が落ちても、それを埋めるために余計なことを言わなくていい。
こういう静けさを、サビーネは少し前まで知らなかった気がする。
「最近は、どうですか」
先に口を開いたのはヨアヒムだった。
「どう、とは」
「王都の空気です」
ずいぶん彼らしい聞き方だ。
「そうね……」
サビーネは少し考えた。
「少しずつ、離れている気がするわ」
「何から」
「痛かった場所から」
自分でも、思ったより自然に言えた。
「前は、王子やオディールの名前を聞くだけで、胸のどこかが引きつる感じがあったの。でも今は、遠くで聞く物語みたい」
「それはよいことです」
「ええ。たぶん」
少し間を置いてから、サビーネは続ける。
「ただ、そのぶん、空いたところへ何を置くのかはまだわからないの」
ヨアヒムはすぐには答えなかった。
たぶん、それでいいのだろう。
こういう時に安易な答えを差し出さないところが、この人の好きなところなのかもしれない、とサビーネはふと思う。
「急いで埋める必要はないかと」
やがて彼が言った。
「そうかしら」
「ええ。無理に何かを置くと、あとでまた整え直しが必要になります」
その言い方に、サビーネは少しだけ肩を揺らして笑った。
「本当に、何でも整えの話になるのね」
「職業柄」
「でも、今日は少しだけわかるわ」
庭の奥では、まだ咲ききらない蕾が夕暮れに溶けて見える。
急いで開かせようとすれば、たぶんうまくいかない。
そういうものなのかもしれない。
「監督官」
「はい」
「あなたは、どうしてそんなに落ち着いていられるの」
唐突な問いだった。
でも、前から少し不思議だったのだ。
「劇場でも、王宮のやり取りでも、私が妙な顔をしている時でも……いつも、必要なことしか言わないでしょう」
ヨアヒムは少しだけ視線を前へ向けたまま答える。
「必要以上のことを言うと、たいてい役に立たないからです」
「そういう意味ではなくて」
「では?」
「……どうして、そんなに焦らないの」
自分で言いながら、それが聞きたかったのだと気づく。
自分はずっと焦っていた。婚約者として失敗を埋める時も、劇場で意味を取り返す時も、王都の空気に追いつかれまいとする時も。
でもヨアヒムは違う。
急がないのに遅くない。
騒がないのに間に合う。
あれは、どういう強さなのだろうと思っていた。
ヨアヒムは少し考えてから言った。
「焦っていた時期があったからかもしれません」
その答えは意外だった。
サビーネは思わず足を緩める。
「あなたにも?」
「ええ」
「想像しづらいわ」
「よく言われます」
少しだけ可笑しい。
「若い頃、早く結果を出さねばならないと思っていた時期があります」
彼は淡々と続けた。
「その時分は、急ぐことが有能さだと勘違いしておりました」
「でも違ったのね」
「ええ。急いで整えたものは、崩れるのも早かった」
その言葉が、ひどく静かに胸へ落ちる。
サビーネはふと立ち止まった。
噴水のそば。
誰も見ていない、小さな庭の奥。
「私」
ぽつりと言う。
「少し前まで、誰かに見られていないと不安だったのかもしれない」
ヨアヒムがそちらを見る。
「見られていないと?」
「ええ。ちゃんと婚約者らしくしているか、ちゃんと侯爵家の娘らしくしているか、ちゃんと傷つくべき時に傷ついているか、ちゃんと強く見えているか……」
自分で口にしていて、可笑しくなる。
どれだけ“ちゃんと”が多いのだろう。
「でも、いまここは」
サビーネは周囲を見た。
「誰も見ていないでしょう?」
「ええ」
「なのに、変に息がしやすいわ」
ヨアヒムは少しだけ目を細めた。
「それは、よい場所だということです」
場所、ね。
たしかにそうかもしれない。
でも、場所だけではない気がした。
ここにいる相手が、この人だからというのもたぶんある。
黙っていてもいい。
整っていなくても、すぐに何かの役へ押し込まれない。
そういう相手の前では、人は少し正直になれるらしい。
「あなたといると」
サビーネは静かに言った。
「誰も見ていないみたいな気持ちになるの」
言ってから、少し遅れて頬が熱くなる。
これはずいぶん率直すぎるのではないかしら、と。
でもヨアヒムは、驚いた顔はしなかった。
ただ、いつもより少しだけやわらかい目をした。
「それは」
彼はゆっくり答える。
「おそらく、見ていても、測っていないからでしょう」
サビーネは少しだけ目を見開いた。
そうかもしれない、と思った。
劇場では見られていた。
夜会でも、王宮でも、茶会でも。
でもそこにはいつも、測る目があった。価値、態度、傷つき方、強さ、品位、家格。そういうものを秤にかける目。
ヨアヒムには、それがない。
いや、観察はする。よく見る。
でも、測らない。
だから息が楽なのだ。
「……ずるいわね」
思わずそう言うと、ヨアヒムが珍しく少し困ったような顔をした。
「どうしてでしょう」
「そういうことを、そんなに静かに言うからよ」
サビーネは少しだけ笑う。
「私が動揺するでしょう?」
その言い方に、ヨアヒムの口元がわずかに動いた。笑ったのだとわかるには、少し注意が必要なくらい小さな変化だった。
「それは失礼しました」
「本当にそう思ってる?」
「半分ほど」
その返しが、少し可笑しい。
二人はまた、ゆっくり歩き出した。
庭園の奥は、もうかなり暗くなっている。屋敷の灯りが遠くに見え、噴水の水音だけが近い。誰も見ていない場所。誰にも聞かれていない時間。
サビーネはふと思った。
劇場で意味を奪い返し、王都の空気に立ち向かい、王子の泣きつきを切り捨てた。そういう強い場面ばかりが、自分の物語になるわけではないのかもしれない。
こういう、誰も見ていない場所で、ただ息がしやすいと思えることの方が、本当はずっと大切なのではないかと。
「侯爵令嬢」
ヨアヒムが呼ぶ。
「何かしら」
「そろそろ戻りましょう」
「ええ」
「夜はまだ冷えますので」
最後まで色気のない言い方だ、とサビーネは思う。
でも、それが嬉しい。
守るために大げさな言葉を使わず、ただ“冷えるから戻ろう”と言う。その実務みたいな優しさが、今は何より落ち着く。
屋敷の灯りへ向かいながら、サビーネは静かに思う。
誰も見ていない場所で、ちゃんと笑えること。
誰かの前で、強くなくても呼吸が楽なこと。
そういうものを、自分はこれから少しずつ増やしていきたいのかもしれない。
もう、舞台の中央へ立つことだけが幸せではないと知ってしまったから。
王都の噂というものは、燃え上がる時は派手なのに、冷める時は驚くほどそっけない。
第二王子セドリックの名は、まだ消えてはいなかった。
オディール・メルヴィの話も、完全に忘れられたわけではない。
けれど、少しずつ人々の関心は別の話題へ移り始めていた。
新しい舞踏会。
季節の催し。
別の家の婚約。
王都という場所は、誰か一人の失態だけを永遠に見続けるほど暇ではない。
その変化を、サビーネは静かに感じていた。
侯爵家へ届く探りの手紙は減り、代わりに“以前から約束していたような顔をした”普通の社交の文面が増え始めている。王宮からのやり取りも、ようやく感情の後処理ではなく、形式の整理へ寄ってきた。
表面だけ見れば、事態は落ち着き始めていた。
でも、サビーネの内側では、別のものがまだ静かに動いていた。
劇場で意味を取り返し、セドリックに最後の言葉を返し、オディールの崩れも見届けた。そこまで来ても、人生が突然すべて綺麗に片づくわけではないらしい。
むしろそのあとで、ようやく“自分はこの先どうしたいのか”を考える時間がやってくる。
それは少し怖くて、でも悪くない時間だった。
その日の夕方、サビーネは屋敷の奥にある小さな庭園へ一人で出ていた。
昼の賑わいが引き、夜の帳が落ちる前のほんの短い時間。薔薇の香りも噴水の音も、日中より少しだけやわらかい。屋敷の中庭よりさらに奥まった場所で、人もほとんど来ない。
最近、サビーネはこの場所を気に入っていた。
劇場みたいに意味を定める必要もなければ、応接間みたいに誰かの視線を受けることもない。ただ、自分の呼吸の音だけがきちんと聞こえる。
石造りの細い道をゆっくり歩きながら、サビーネは空を見上げた。
薄青から群青へ移る途中の色。
まだ一番星も出ていない。
「……静かね」
思わず口に出す。
誰に聞かせるわけでもない、独り言だった。
昔の自分なら、こういう時間を持て余していたかもしれない。誰かの予定を確認し、招待状を整え、次の行事へ備えていないと落ち着かなかった。
でも今は違う。
“何もしない時間”が、少しだけ自分のものになっている気がする。
「そのようですね」
低い声が返ってきて、サビーネは足を止めた。
振り向けば、庭園の入口近くにヨアヒム・ベルナールが立っていた。
今日も相変わらず地味だった。濃い灰色の上着に、飾り気のない手袋。夕暮れの庭に立っていても、華やかな風景の一部になるというより、輪郭のはっきりした影みたいに見える。
でも今のサビーネには、その姿が妙にしっくりきた。
「……監督官」
「ごきげんよう、侯爵令嬢」
「どうしてここに?」
「侯爵閣下へご報告がありまして」
それはもう、最近のお決まりみたいなものだった。
「それで、お父様は?」
「書斎へ戻られました」
「では、もうお帰りになるところ?」
ヨアヒムは一瞬だけ考えるような顔をした。
「本来なら」
その答え方に、サビーネは少しだけ笑った。
「本来なら、ね」
「ええ」
「でも、まだいらっしゃるの?」
「はい」
そこまで言われると、意味がわからないほど鈍くはない。
サビーネは小さく息を吐いた。
「……なら、少しだけ歩かない?」
ヨアヒムはわずかに目を細めた。
「喜んで」
それだけで十分だった。
二人で庭園の石道をゆっくり歩き出す。
並んでいるのに、妙に息が楽だった。会話を急がなくていい。沈黙が落ちても、それを埋めるために余計なことを言わなくていい。
こういう静けさを、サビーネは少し前まで知らなかった気がする。
「最近は、どうですか」
先に口を開いたのはヨアヒムだった。
「どう、とは」
「王都の空気です」
ずいぶん彼らしい聞き方だ。
「そうね……」
サビーネは少し考えた。
「少しずつ、離れている気がするわ」
「何から」
「痛かった場所から」
自分でも、思ったより自然に言えた。
「前は、王子やオディールの名前を聞くだけで、胸のどこかが引きつる感じがあったの。でも今は、遠くで聞く物語みたい」
「それはよいことです」
「ええ。たぶん」
少し間を置いてから、サビーネは続ける。
「ただ、そのぶん、空いたところへ何を置くのかはまだわからないの」
ヨアヒムはすぐには答えなかった。
たぶん、それでいいのだろう。
こういう時に安易な答えを差し出さないところが、この人の好きなところなのかもしれない、とサビーネはふと思う。
「急いで埋める必要はないかと」
やがて彼が言った。
「そうかしら」
「ええ。無理に何かを置くと、あとでまた整え直しが必要になります」
その言い方に、サビーネは少しだけ肩を揺らして笑った。
「本当に、何でも整えの話になるのね」
「職業柄」
「でも、今日は少しだけわかるわ」
庭の奥では、まだ咲ききらない蕾が夕暮れに溶けて見える。
急いで開かせようとすれば、たぶんうまくいかない。
そういうものなのかもしれない。
「監督官」
「はい」
「あなたは、どうしてそんなに落ち着いていられるの」
唐突な問いだった。
でも、前から少し不思議だったのだ。
「劇場でも、王宮のやり取りでも、私が妙な顔をしている時でも……いつも、必要なことしか言わないでしょう」
ヨアヒムは少しだけ視線を前へ向けたまま答える。
「必要以上のことを言うと、たいてい役に立たないからです」
「そういう意味ではなくて」
「では?」
「……どうして、そんなに焦らないの」
自分で言いながら、それが聞きたかったのだと気づく。
自分はずっと焦っていた。婚約者として失敗を埋める時も、劇場で意味を取り返す時も、王都の空気に追いつかれまいとする時も。
でもヨアヒムは違う。
急がないのに遅くない。
騒がないのに間に合う。
あれは、どういう強さなのだろうと思っていた。
ヨアヒムは少し考えてから言った。
「焦っていた時期があったからかもしれません」
その答えは意外だった。
サビーネは思わず足を緩める。
「あなたにも?」
「ええ」
「想像しづらいわ」
「よく言われます」
少しだけ可笑しい。
「若い頃、早く結果を出さねばならないと思っていた時期があります」
彼は淡々と続けた。
「その時分は、急ぐことが有能さだと勘違いしておりました」
「でも違ったのね」
「ええ。急いで整えたものは、崩れるのも早かった」
その言葉が、ひどく静かに胸へ落ちる。
サビーネはふと立ち止まった。
噴水のそば。
誰も見ていない、小さな庭の奥。
「私」
ぽつりと言う。
「少し前まで、誰かに見られていないと不安だったのかもしれない」
ヨアヒムがそちらを見る。
「見られていないと?」
「ええ。ちゃんと婚約者らしくしているか、ちゃんと侯爵家の娘らしくしているか、ちゃんと傷つくべき時に傷ついているか、ちゃんと強く見えているか……」
自分で口にしていて、可笑しくなる。
どれだけ“ちゃんと”が多いのだろう。
「でも、いまここは」
サビーネは周囲を見た。
「誰も見ていないでしょう?」
「ええ」
「なのに、変に息がしやすいわ」
ヨアヒムは少しだけ目を細めた。
「それは、よい場所だということです」
場所、ね。
たしかにそうかもしれない。
でも、場所だけではない気がした。
ここにいる相手が、この人だからというのもたぶんある。
黙っていてもいい。
整っていなくても、すぐに何かの役へ押し込まれない。
そういう相手の前では、人は少し正直になれるらしい。
「あなたといると」
サビーネは静かに言った。
「誰も見ていないみたいな気持ちになるの」
言ってから、少し遅れて頬が熱くなる。
これはずいぶん率直すぎるのではないかしら、と。
でもヨアヒムは、驚いた顔はしなかった。
ただ、いつもより少しだけやわらかい目をした。
「それは」
彼はゆっくり答える。
「おそらく、見ていても、測っていないからでしょう」
サビーネは少しだけ目を見開いた。
そうかもしれない、と思った。
劇場では見られていた。
夜会でも、王宮でも、茶会でも。
でもそこにはいつも、測る目があった。価値、態度、傷つき方、強さ、品位、家格。そういうものを秤にかける目。
ヨアヒムには、それがない。
いや、観察はする。よく見る。
でも、測らない。
だから息が楽なのだ。
「……ずるいわね」
思わずそう言うと、ヨアヒムが珍しく少し困ったような顔をした。
「どうしてでしょう」
「そういうことを、そんなに静かに言うからよ」
サビーネは少しだけ笑う。
「私が動揺するでしょう?」
その言い方に、ヨアヒムの口元がわずかに動いた。笑ったのだとわかるには、少し注意が必要なくらい小さな変化だった。
「それは失礼しました」
「本当にそう思ってる?」
「半分ほど」
その返しが、少し可笑しい。
二人はまた、ゆっくり歩き出した。
庭園の奥は、もうかなり暗くなっている。屋敷の灯りが遠くに見え、噴水の水音だけが近い。誰も見ていない場所。誰にも聞かれていない時間。
サビーネはふと思った。
劇場で意味を奪い返し、王都の空気に立ち向かい、王子の泣きつきを切り捨てた。そういう強い場面ばかりが、自分の物語になるわけではないのかもしれない。
こういう、誰も見ていない場所で、ただ息がしやすいと思えることの方が、本当はずっと大切なのではないかと。
「侯爵令嬢」
ヨアヒムが呼ぶ。
「何かしら」
「そろそろ戻りましょう」
「ええ」
「夜はまだ冷えますので」
最後まで色気のない言い方だ、とサビーネは思う。
でも、それが嬉しい。
守るために大げさな言葉を使わず、ただ“冷えるから戻ろう”と言う。その実務みたいな優しさが、今は何より落ち着く。
屋敷の灯りへ向かいながら、サビーネは静かに思う。
誰も見ていない場所で、ちゃんと笑えること。
誰かの前で、強くなくても呼吸が楽なこと。
そういうものを、自分はこれから少しずつ増やしていきたいのかもしれない。
もう、舞台の中央へ立つことだけが幸せではないと知ってしまったから。
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