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第18話 優しさの限界
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第18話 優しさの限界
王宮の空気が、少しずつ重くなっていた。
表立った混乱はない。
政務も滞りなく進んでいる。
だが、沈殿するような違和感が、確実に広がっていた。
「……最近、決裁が遅いな」
「聖女様の確認待ちだそうだ」
「殿下は?」
「……お任せになっている」
小声の会話が、廊下の隅で交わされる。
誰も声を荒げない。
誰も正面から問題を指摘しない。
それが、余計に事態を悪化させていた。
その日の午後。
ミラは、執務室で書類を整理していた。
「……ふぅ」
机の上には、彼女が確認すべき案件が山のように積まれている。
本来なら、王太子自身が目を通すべきものも少なくない。
(……少し、多すぎるかしら)
一瞬、そんな考えがよぎる。
だが、次の瞬間には打ち消した。
(殿下が疲れてしまうよりは、いい)
そう自分に言い聞かせ、ペンを走らせる。
そこへ、控えめなノックが響いた。
「……ミラ様」
入ってきたのは、年配の側近だった。
「殿下がお呼びです」
「今、参ります」
執務室へ向かう途中。
ミラは、胸の奥に、嫌な予感を覚えていた。
「……ミラ」
アークトゥルスは、椅子に深く腰掛けたまま、動こうとしなかった。
「どうしました?」
「……今日は……」
言葉を探すように、視線を彷徨わせる。
「今日は、何も決められない気がするんだ」
その告白は、あまりにも率直だった。
ミラは、言葉を失う。
「……殿下」
しばらく沈黙が落ちる。
「……全部、ミラに任せていい?」
縋るような声。
その瞬間、
ミラの中で、何かがはっきりと軋んだ。
(……これは……)
助けを求める声。
同時に、責任を手放す言葉。
ミラは、ゆっくりと息を吸った。
「……殿下」
優しく、しかし、これまでとは違う声音で。
「それでは、いけません」
アークトゥルスが、目を見開く。
「え……?」
「私は、お支えします」
はっきりと、言葉を選ぶ。
「ですが、殿下の代わりにはなれません」
その言葉は、
これまで一度も口にしなかった“線引き”だった。
「……でも……」
「殿下が決めなければならないことは、
殿下にしか決められません」
アークトゥルスは、俯いた。
「……怖いんだ」
子どものような声。
「間違えたら……
また、誰かを傷つけるかもしれない」
その名前を、彼は口にしなかった。
だが、ミラには分かっていた。
「……それでも」
ミラは、静かに言う。
「決めなければ、
何も変わりません」
その瞬間。
アークトゥルスの肩が、小さく震えた。
逃げ場を失ったような、不安。
そして、ほんのわずかな反発。
「……ミラは……冷たい」
ぽつりと、零れる。
その言葉に、
ミラの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
かつて、デネブが言われた言葉。
今度は、自分が向けられる側。
(……ああ)
ようやく、理解した。
優しさだけでは、
人を支えることはできない。
だが、
優しさを手放す覚悟もまた、
簡単ではない。
「……冷たくても、構いません」
ミラは、そう答えた。
「殿下が、殿下であるために必要なら」
その夜。
王太子は、久しぶりに一人で決裁を行った。
震える手で、
何度も書き直しながら。
一方、ミラは自室で、
静かに天井を見つめていた。
(……私は、どこまで支えるべきなのか)
答えは、まだ見えない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
――優しさには、限界がある。
それを越えたとき、
救いは、
束縛へと姿を変える。
その境界線に、
二人は、ようやく足を踏み入れたのだった。
王宮の空気が、少しずつ重くなっていた。
表立った混乱はない。
政務も滞りなく進んでいる。
だが、沈殿するような違和感が、確実に広がっていた。
「……最近、決裁が遅いな」
「聖女様の確認待ちだそうだ」
「殿下は?」
「……お任せになっている」
小声の会話が、廊下の隅で交わされる。
誰も声を荒げない。
誰も正面から問題を指摘しない。
それが、余計に事態を悪化させていた。
その日の午後。
ミラは、執務室で書類を整理していた。
「……ふぅ」
机の上には、彼女が確認すべき案件が山のように積まれている。
本来なら、王太子自身が目を通すべきものも少なくない。
(……少し、多すぎるかしら)
一瞬、そんな考えがよぎる。
だが、次の瞬間には打ち消した。
(殿下が疲れてしまうよりは、いい)
そう自分に言い聞かせ、ペンを走らせる。
そこへ、控えめなノックが響いた。
「……ミラ様」
入ってきたのは、年配の側近だった。
「殿下がお呼びです」
「今、参ります」
執務室へ向かう途中。
ミラは、胸の奥に、嫌な予感を覚えていた。
「……ミラ」
アークトゥルスは、椅子に深く腰掛けたまま、動こうとしなかった。
「どうしました?」
「……今日は……」
言葉を探すように、視線を彷徨わせる。
「今日は、何も決められない気がするんだ」
その告白は、あまりにも率直だった。
ミラは、言葉を失う。
「……殿下」
しばらく沈黙が落ちる。
「……全部、ミラに任せていい?」
縋るような声。
その瞬間、
ミラの中で、何かがはっきりと軋んだ。
(……これは……)
助けを求める声。
同時に、責任を手放す言葉。
ミラは、ゆっくりと息を吸った。
「……殿下」
優しく、しかし、これまでとは違う声音で。
「それでは、いけません」
アークトゥルスが、目を見開く。
「え……?」
「私は、お支えします」
はっきりと、言葉を選ぶ。
「ですが、殿下の代わりにはなれません」
その言葉は、
これまで一度も口にしなかった“線引き”だった。
「……でも……」
「殿下が決めなければならないことは、
殿下にしか決められません」
アークトゥルスは、俯いた。
「……怖いんだ」
子どものような声。
「間違えたら……
また、誰かを傷つけるかもしれない」
その名前を、彼は口にしなかった。
だが、ミラには分かっていた。
「……それでも」
ミラは、静かに言う。
「決めなければ、
何も変わりません」
その瞬間。
アークトゥルスの肩が、小さく震えた。
逃げ場を失ったような、不安。
そして、ほんのわずかな反発。
「……ミラは……冷たい」
ぽつりと、零れる。
その言葉に、
ミラの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
かつて、デネブが言われた言葉。
今度は、自分が向けられる側。
(……ああ)
ようやく、理解した。
優しさだけでは、
人を支えることはできない。
だが、
優しさを手放す覚悟もまた、
簡単ではない。
「……冷たくても、構いません」
ミラは、そう答えた。
「殿下が、殿下であるために必要なら」
その夜。
王太子は、久しぶりに一人で決裁を行った。
震える手で、
何度も書き直しながら。
一方、ミラは自室で、
静かに天井を見つめていた。
(……私は、どこまで支えるべきなのか)
答えは、まだ見えない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
――優しさには、限界がある。
それを越えたとき、
救いは、
束縛へと姿を変える。
その境界線に、
二人は、ようやく足を踏み入れたのだった。
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