26 / 40
第26話 「名を呼ばれる意味」
しおりを挟む
第26話 「名を呼ばれる意味」
昼下がりの回廊に、柔らかな足音が響いていた。
ノインは、手にした書類の束を胸に抱えながら、執務室へと向かっていた。 ――とはいえ、それは「仕事」と呼べるほどのものではない。 フェルディナンドに頼まれ、届いた書簡を整理していただけだ。
それでも、ノインの胸は少し高鳴っていた。
(……誰かに頼られるの、初めてかもしれない)
孤児院では「余分」。 伯爵家では「身代わり」。 そこにあったのは命令か、無視か、利用だけだった。
けれど今は違う。 頼まれたのは些細なことでも、それは「あなたがいて助かる」という合図だった。
執務室の扉をノックすると、すぐに低い声が返る。
「入れ」
中に入ると、フェルディナンドは机に向かっていた。 だがノインの姿を見た瞬間、視線がふっと和らぐ。
「……来てくれたか」 「はい。こちら、北領からの書簡です」
机に書類を置いた、そのときだった。
「ありがとう、ノイン」
何気ない一言。 だが、ノインの動きがぴたりと止まる。
「……え?」
「どうした?」 「い、いえ……その……」
彼女は、思わず胸元を押さえた。
(今……名前を……)
フェルディナンドは首を傾げる。
「呼んだが」 「……はい。でも……」
ノインは、少し困ったように笑う。
「名前を“普通に”呼ばれたの、久しぶりで……」
彼は、その言葉の意味をすぐに理解した。 そして、ほんのわずかに眉をひそめる。
「……呼ばれてこなかったのか」 「はい。大抵は、“おい”とか、“そこの”とか……」
責めるつもりはない。 ただ事実として述べただけなのに、 フェルディナンドの表情が、静かに冷えていった。
「それは……許しがたいな」
ノインは慌てて首を振る。
「で、でも……今はいいんです。ここでは、ちゃんと……」
言葉の続きを探すノインを、彼はじっと見つめた。
「……ノイン」 「は、はい」 「お前は、“呼ばれる存在”だ」
はっきりとした声だった。
「名前とは、存在を認めるためのものだ。
お前がここにいる理由でも、価値でもない。
ただ――“お前”だから呼ぶ」
ノインの喉が、ひくりと鳴る。
「……名前を呼ばれるだけで、こんなに……」 「不思議か?」 「……はい。でも……嬉しいです」
その答えに、フェルディナンドは微かに微笑んだ。
「なら、何度でも呼ぼう。
お前が、そう思わなくなるまで」
ノインは、そっと息を吸った。
「……フェルディナンド様」 「ん?」 「私も……名前で呼んでも、いいですか」
一瞬の沈黙。
そして彼は、ゆっくりと頷いた。
「許可する。
……いや、望む」
ノインは、少しだけ緊張しながら口を開く。
「……フェルディナンド」 「……ああ」
たったそれだけのやり取り。 けれど、空気が変わった。
主と従ではない。 命じる者と従う者でもない。
“名を呼び合う”という、対等な距離。
ノインは気づく。
(……私、ここで“人”として扱われてる)
それは大きな愛情表現でも、劇的な出来事でもない。 ただ――自然に、当たり前のように。
フェルディナンドは書類に視線を戻しながら、ぽつりと言った。
「ノイン」 「はい」 「……そこにいてくれ」
それは命令ではなく、 理由を必要としない言葉だった。
ノインは、小さく微笑む。
「……はい。ここにいます」
名を呼ばれる。 そして、名を呼び返す。
それだけで、 世界が少し、優しくなった気がした。
ノインは静かに思う。
――この名前は、もう“番号”じゃない。
誰かのために使い捨てられる札でもない。
これは、
ここに生きる私自身の名前なのだと。
午後の光が、二人の影をゆっくりと重ねていた。
昼下がりの回廊に、柔らかな足音が響いていた。
ノインは、手にした書類の束を胸に抱えながら、執務室へと向かっていた。 ――とはいえ、それは「仕事」と呼べるほどのものではない。 フェルディナンドに頼まれ、届いた書簡を整理していただけだ。
それでも、ノインの胸は少し高鳴っていた。
(……誰かに頼られるの、初めてかもしれない)
孤児院では「余分」。 伯爵家では「身代わり」。 そこにあったのは命令か、無視か、利用だけだった。
けれど今は違う。 頼まれたのは些細なことでも、それは「あなたがいて助かる」という合図だった。
執務室の扉をノックすると、すぐに低い声が返る。
「入れ」
中に入ると、フェルディナンドは机に向かっていた。 だがノインの姿を見た瞬間、視線がふっと和らぐ。
「……来てくれたか」 「はい。こちら、北領からの書簡です」
机に書類を置いた、そのときだった。
「ありがとう、ノイン」
何気ない一言。 だが、ノインの動きがぴたりと止まる。
「……え?」
「どうした?」 「い、いえ……その……」
彼女は、思わず胸元を押さえた。
(今……名前を……)
フェルディナンドは首を傾げる。
「呼んだが」 「……はい。でも……」
ノインは、少し困ったように笑う。
「名前を“普通に”呼ばれたの、久しぶりで……」
彼は、その言葉の意味をすぐに理解した。 そして、ほんのわずかに眉をひそめる。
「……呼ばれてこなかったのか」 「はい。大抵は、“おい”とか、“そこの”とか……」
責めるつもりはない。 ただ事実として述べただけなのに、 フェルディナンドの表情が、静かに冷えていった。
「それは……許しがたいな」
ノインは慌てて首を振る。
「で、でも……今はいいんです。ここでは、ちゃんと……」
言葉の続きを探すノインを、彼はじっと見つめた。
「……ノイン」 「は、はい」 「お前は、“呼ばれる存在”だ」
はっきりとした声だった。
「名前とは、存在を認めるためのものだ。
お前がここにいる理由でも、価値でもない。
ただ――“お前”だから呼ぶ」
ノインの喉が、ひくりと鳴る。
「……名前を呼ばれるだけで、こんなに……」 「不思議か?」 「……はい。でも……嬉しいです」
その答えに、フェルディナンドは微かに微笑んだ。
「なら、何度でも呼ぼう。
お前が、そう思わなくなるまで」
ノインは、そっと息を吸った。
「……フェルディナンド様」 「ん?」 「私も……名前で呼んでも、いいですか」
一瞬の沈黙。
そして彼は、ゆっくりと頷いた。
「許可する。
……いや、望む」
ノインは、少しだけ緊張しながら口を開く。
「……フェルディナンド」 「……ああ」
たったそれだけのやり取り。 けれど、空気が変わった。
主と従ではない。 命じる者と従う者でもない。
“名を呼び合う”という、対等な距離。
ノインは気づく。
(……私、ここで“人”として扱われてる)
それは大きな愛情表現でも、劇的な出来事でもない。 ただ――自然に、当たり前のように。
フェルディナンドは書類に視線を戻しながら、ぽつりと言った。
「ノイン」 「はい」 「……そこにいてくれ」
それは命令ではなく、 理由を必要としない言葉だった。
ノインは、小さく微笑む。
「……はい。ここにいます」
名を呼ばれる。 そして、名を呼び返す。
それだけで、 世界が少し、優しくなった気がした。
ノインは静かに思う。
――この名前は、もう“番号”じゃない。
誰かのために使い捨てられる札でもない。
これは、
ここに生きる私自身の名前なのだと。
午後の光が、二人の影をゆっくりと重ねていた。
2
あなたにおすすめの小説
余命3ヶ月と言われたので静かに余生を送ろうと思ったのですが…大好きな殿下に溺愛されました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のセイラは、ずっと孤独の中生きてきた。自分に興味のない父や婚約者で王太子のロイド。
特に王宮での居場所はなく、教育係には嫌味を言われ、王宮使用人たちからは、心無い噂を流される始末。さらに婚約者のロイドの傍には、美しくて人当たりの良い侯爵令嬢のミーアがいた。
ロイドを愛していたセイラは、辛くて苦しくて、胸が張り裂けそうになるのを必死に耐えていたのだ。
毎日息苦しい生活を強いられているせいか、最近ずっと調子が悪い。でもそれはきっと、気のせいだろう、そう思っていたセイラだが、ある日吐血してしまう。
診察の結果、母と同じ不治の病に掛かっており、余命3ヶ月と宣言されてしまったのだ。
もう残りわずかしか生きられないのなら、愛するロイドを解放してあげよう。そして自分は、屋敷でひっそりと最期を迎えよう。そう考えていたセイラ。
一方セイラが余命宣告を受けた事を知ったロイドは…
※両想いなのにすれ違っていた2人が、幸せになるまでのお話しです。
よろしくお願いいたします。
他サイトでも同時投稿中です。
夫から『お前を愛することはない』と言われたので、お返しついでに彼のお友達をお招きした結果。
古森真朝
ファンタジー
「クラリッサ・ベル・グレイヴィア伯爵令嬢、あらかじめ言っておく。
俺がお前を愛することは、この先決してない。期待など一切するな!」
新婚初日、花嫁に真っ向から言い放った新郎アドルフ。それに対して、クラリッサが返したのは――
※ぬるいですがホラー要素があります。苦手な方はご注意ください。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
「可愛げがない」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、領地経営をしていたのは私です
希羽
恋愛
「お前のような可愛げのない女との婚約は破棄する!」
卒業パーティの会場で、婚約者である第二王子デリックはそう宣言し、私の義妹ミナを抱き寄せました。 誰もが私が泣き崩れると思いましたが――正直、せいせいしました。 だって、王子の領地経営、借金返済、結界維持、それら全ての激務を一人でこなしていたのは「可愛げのない」私だったのですから。
「承知しました。では、あとはミナと二人で頑張ってください」
私は手切れ金代わりに面倒な仕事を全て置いて国を出ました。 すると、国境で待っていたのは、隣国ガルガディア帝国の冷徹皇太子ことクライド様。なぜか彼は私を溺愛し、帝国で最高の地位と環境を与えてくれて……。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。
灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。
彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。
タイトル通りのおっさんコメディーです。
「お前との婚約はなかったことに」と言われたので、全財産持って逃げました
ほーみ
恋愛
その日、私は生まれて初めて「人間ってここまで自己中心的になれるんだ」と知った。
「レイナ・エルンスト。お前との婚約は、なかったことにしたい」
そう言ったのは、私の婚約者であり王太子であるエドワルド殿下だった。
「……は?」
まぬけな声が出た。無理もない。私は何の前触れもなく、突然、婚約を破棄されたのだから。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる