勝手にサインしろと仰いましたので、廃嫡書類に国璽を押して差し上げました

鷹 綾

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第二十話 ご自分で対処しやがれ

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第二十話 ご自分で対処しやがれ

王城・南棟の廊下。

石床に響く足音は、以前よりも軽い。

軽いというより、支えを失った音だ。

アレスは扉の前で立ち止まる。

アルヴェルト公爵家の仮滞在室。

本来ならば彼が訪れる立場ではない。

だが、他に行く場所がない。

扉を叩く。

静かな声が内側から返る。

「どうぞ」

扉が開く。

レイナ・アルヴェルトがそこにいる。

薄い灰色のドレス。

無駄のない佇まい。

王城の騒ぎとは無縁のように、静かだ。

アレスは部屋に入る。

「助けろ」

それが第一声だった。

レイナは視線を上げる。

「何を、でしょうか」

声は穏やかだ。

だが距離がある。

「債権者が来た」

「差押えだ」

「お前の家が保証を戻せば済む話だ」

レイナはしばらく沈黙する。

それから、ゆっくりと答える。

「保証は契約に基づき撤回されました」

「ご確認は、何度もお願い申し上げました」

アレスは机を叩く。

「確認、確認と!」

「形式ばかり並べやがって!」

その瞬間。

レイナの目が、わずかに冷える。

「形式ではありません」

「契約です」

アレスは吐き捨てる。

「女の分際で」

「裏で支えていればよかったものを」

レイナは立ち上がる。

静かに、だが確実に。

「裏で支える義務は、婚約関係に基づくものです」

「その婚約は、舞踏会にて殿下ご自身が破棄なさいました」

その言葉に、アレスは一瞬言葉を失う。

「俺は感情で言っただけだ」

「形式だ」

レイナは首を傾ける。

「形式は重要でございます」

「殿下がお嫌いな“形式”ですが」

空気が張り詰める。

アレスは声を荒げる。

「父上に話せ!」

「公爵家は王家の臣だ!」

レイナは一歩も引かない。

「臣でございます」

「ですが、無限保証人ではございません」

沈黙。

遠くで鐘が鳴る。

アレスは机に手をつき、身を乗り出す。

「俺は王になる男だった!」

レイナは静かに答える。

「いえ」

「今は債務者でいらっしゃいます」

その言葉は、刃のようだ。

アレスの顔が歪む。

「冷たい女だな」

「ここまで仕えてやったのに」

その瞬間。

レイナの敬語が消える。

「仕えて?」

一歩近づく。

瞳は揺れない。

「業務は私が処理しました」

「外交も、財政も、軍備も」

「殿下は何をなさいましたか」

アレスは言い返せない。

レイナは続ける。

声は低い。

はっきりと。

「私は何度も申し上げました」

「条文をご確認くださいと」

「保証範囲をご確認くださいと」

「履行不能条項をご確認くださいと」

一歩、さらに近づく。

「それを“面倒だ”と仰ったのは、どなたでしたか」

沈黙。

空気が重い。

そして。

レイナははっきりと言い放つ。

「ご自分で対処しやがれ」

部屋が凍る。

敬語は戻らない。

アレスは目を見開く。

「何だと」

レイナは淡々と続ける。

「婚約は破棄されました」

「業務も終了しております」

「保証も撤回済みです」

「契約は成立いたしました」

一歩引く。

距離を戻す。

「私に出来ることは、もうございません」

アレスは震える。

怒りか、恐怖か。

「俺を見捨てるのか」

レイナは静かに答える。

「選択は、殿下のものでした」

「結果もまた」

扉の外で足音が止まる。

執行官だ。

差押えの続き。

アレスは振り返る。

助けを求めるように。

だがレイナは動かない。

彼女は紅茶を手に取る。

一口。

「働きたくないと、申し上げましたでしょう」

その声は穏やかだ。

だが完全に切り離されている。

扉が開く。

執行官が入室する。

「差押え対象の追加確認に参りました」

アレスは何も言えない。

レイナは視線を逸らす。

もう彼は、守る対象ではない。

南棟の廊下。

アレスは追い出されるように歩く。

背後で扉が閉まる。

それは静かな音だ。

だが、完全な終わりの音だった。
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