婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第一話 婚約破棄は、王太子殿下のご都合で

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第一話 婚約破棄は、王太子殿下のご都合で

 その日、王宮の謁見の間には、必要以上の人間が集められていた。
 重臣、貴族、聖職者――そして、好奇心を隠しきれない視線。
 まるで見世物だ。エヴァレット・ノクティアは、静かにそう結論づけた。

 正面に立つのは王太子コンラート。金糸をふんだんに使った正装に身を包み、胸を張り、いかにも「正しい決断を下す者」の顔をしている。その隣には、白い法衣をまとった少女――エマが控えめに立っていた。俯きがちに、けれど時折ちらりと上目遣いを向ける仕草は、あまりにも計算されている。

「エヴァレット・ノクティア侯爵令嬢」

 名を呼ばれ、エヴァレットは一歩前に出る。
 背筋を伸ばし、感情を顔に出さぬまま、淡々と王太子を見据えた。

「本日、この場を設けた理由は理解しているな?」

「はい、王太子殿下」

 短く答える。声は冷静で、震えは一切ない。
 この場にいる多くの者が、その反応にわずかな違和感を覚えた。普通なら、婚約者にこのような形で呼び出されれば、不安や動揺を隠せないはずだ。

 だが、エヴァレットは違った。

「単刀直入に言おう」

 コンラートは満足そうに頷き、声を張り上げる。

「私は、君との婚約を破棄する」

 謁見の間がざわめいた。
 予想通りの言葉に、しかし貴族たちの表情は様々だ。驚き、興奮、そして期待。
 ――さあ、泣くか? 取り乱すか?
 そんな空気が満ちる中、エヴァレットはただ静かに瞬きを一つしただけだった。

「理由は、すでに分かっているだろう」

 コンラートはエマの肩に手を置く。

「私は真実の声を聞いた。民の声を、神の導きを。このエマこそが、次代の王妃に相応しい存在だ」

 エマは小さく首を振り、か細い声を出す。

「そ、そんな……殿下。わたしはただ、民のために祈っていただけで……」

 その姿に、数名の貴族令嬢がうっとりと息を呑んだ。
 ――ああ、守ってあげたいタイプね。
 そんな空気が、確実に流れている。

 エヴァレットは、内心で小さくため息をついた。
 ここまで来ると、もはや感想すら浮かばない。

「君は優秀だ」

 コンラートは続ける。

「だが、あまりにも冷たい。理屈ばかりで、民の心が分かっていない。王太子妃に必要なのは、数字ではなく愛だ」

 その言葉に、何人かの重臣が眉をひそめた。
 エヴァレットがこれまで、どれほど王家を支えてきたかを知っている者ほど、この評価が的外れだと理解している。

 それでも、誰も口を挟まない。
 王太子の決断なのだから。

 しばしの沈黙の後、エヴァレットは静かに口を開いた。

「……以上でしょうか」

 その淡々とした問いかけに、コンラートは一瞬言葉を詰まらせた。

「な、何だ、その態度は。婚約破棄だぞ?」

「はい。ですから、確認を」

 エヴァレットは首をわずかに傾ける。

「これは王太子殿下のご意思による、一方的な婚約破棄。そう理解してよろしいですね?」

「当たり前だ。私は王太子だ」

「承知しました」

 エヴァレットは、静かに一礼した。

 ――そして、次の瞬間。

「では、すでに手続きを進めておりますので、ご安心ください」

 謁見の間が、完全に静まり返った。

「……は?」

 間の抜けた声を上げたのは、コンラートだった。

「婚約破棄に伴う書類は、三日前に王国宰相府へ提出済みです。慰謝料、責任の所在、侯爵家と王家の今後の関係についても、すでに条文化しております」

 淡々と告げるエヴァレットの声は、まるで事務報告のようだった。

「な、何を勝手なことを……!」

「勝手ではございません」

 エヴァレットは、初めて王太子を真正面から見据えた。

「王太子殿下が婚約破棄をお考えであることは、以前から察しておりましたので。備えるのは当然かと」

 重臣たちがざわめく。
 その中の一人が、低く呟いた。

「……宰相府、だと?」

 その名を聞いた瞬間、コンラートの顔色が変わった。

「ヴォルフガング・ハルトマン卿には、すでにすべてお伝えしております」

 その名が出た途端、空気が一段階冷えた。
 王国宰相ヴォルフガング・ハルトマン――冷酷無比、だが誰よりも国を動かす男。

「彼は、この件を“非常に合理的だ”と評価してくださいました」

 コンラートは言葉を失い、エマは不安そうに彼の袖を掴む。

「だ、殿下……?」

 その姿を見て、エヴァレットは心の中で静かに告げた。

 ――これで、すべてが始まった。

「それでは、私はこれにて失礼いたします」

 そう言って、エヴァレットは再び一礼し、踵を返した。

 背後で、王太子が何か叫んでいる気がしたが、振り返らない。
 もはや、彼女にとって聞く価値のある言葉ではなかった。

 謁見の間を出た瞬間、エヴァレットは深く息を吸った。
 不思議なことに、胸の奥は驚くほど静かだった。

 悲しみも、怒りもない。
 あるのはただ――

「……予定通り、ですわ」

 小さくそう呟き、彼女は歩き出した。

 王太子が用意したつもりの“破棄の舞台”は、すでに彼の手を離れている。
 本当の裁定が下されるのは、これからだ。

 そしてそれを告げるのは、
 ――ヴォルフガング・ハルトマンという名の、冷酷な現実である。
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