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第三話 静かな令嬢と、騒がしい王太子
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第三話 静かな令嬢と、騒がしい王太子
王都に、噂が流れ始めたのは、その日の夕刻だった。
――王太子コンラートが、婚約破棄を宣言したらしい。
――しかも相手は、長年支えてきた侯爵令嬢エヴァレット・ノクティア。
――代わりに選ばれたのは、平民出身の“聖女”エマだという。
人は噂を好む。
特に、王族の不祥事と恋愛沙汰は、酒場でも貴族のサロンでも、これ以上ない肴だった。
「やはり、時代は変わるのね」 「ええ、平民の聖女様が王太子妃だなんて、素敵じゃない?」 「でも……ノクティア様はどうなるのかしら」
囁きは、好意と不安と、そして微かな嘲りを含んで王都を巡る。
それらすべてが、エヴァレット・ノクティアの耳にも、自然と届いていた。
だが、彼女は動かない。
ノクティア侯爵家の執務室で、エヴァレットは淡々と書類に目を通していた。
窓から差し込む午後の光が、整えられた机と、無駄のない文字の列を照らしている。
「……予想通り、ですわね」
そう呟いた声に、感情はない。
書類の一枚一枚は、王宮各所から届いた報告書だった。税収、備蓄、地方の情勢。
どれも、王太子が「理解しているつもり」になっている分野だ。
――だが、理解と把握は違う。
エヴァレットはペンを取り、必要な箇所にだけ印を付けていく。
これは侯爵家としての通常業務だ。婚約が破棄されようと、彼女の役割は変わらない。
その様子を、控えめに見守っていた侍女が、躊躇いがちに口を開いた。
「お嬢様……王宮から、招待状が届いております」
「招待、ですか?」
「はい。王太子殿下主催の小規模な晩餐会だそうで……エマ様のお披露目、とのことです」
その言葉に、侍女は一瞬、言葉を濁した。
無礼であることは、彼女自身がよく理解している。
エヴァレットは、招待状に目を落とし、すぐに封を閉じた。
「辞退します」
即答だった。
「理由は?」
「“体調不良”で結構ですわ。事実、騒がしい場は好みませんので」
それだけ言って、再び書類へと視線を戻す。
侍女は一礼し、静かに部屋を出て行った。
――行かない。
それが、最も効く。
王太子コンラートは、エヴァレットが来ると信じていた。
いや、正確には“来ざるを得ない”と思い込んでいた。
自分が選ばれた側であり、捨てた側である。
その優位を、周囲に誇示するための舞台。それが晩餐会だ。
「……来ない?」
報告を受けた瞬間、コンラートは眉を吊り上げた。
「はい。ノクティア侯爵令嬢は、体調不良を理由に欠席とのことです」
「体調不良だと? あれほど丈夫そうな女が?」
苛立ちを隠そうともせず、コンラートは舌打ちした。
隣にいたエマが、慌てて取り繕う。
「き、きっと……お辛いのだと思います。突然のことでしたし……」
その言葉に、コンラートは満足げに頷いた。
「そうだな。無理もない。彼女は、まだ現実を受け入れられていないのだろう」
だが、その言葉は、どこか空虚だった。
エヴァレットが取り乱す姿を想像していたからこそ、彼女の不在が、妙に胸に引っかかる。
晩餐会は、予定通り開催された。
エマは純白のドレスに身を包み、控えめに微笑む。貴族たちは口々に賛辞を述べ、彼女を持ち上げた。
――だが、視線の端で、誰もが気づいている。
そこに“ノクティア侯爵令嬢”がいないことを。
主役が一人欠けた舞台は、どうしても締まらない。
一方、宰相府では、別の動きが進んでいた。
「王太子は、完全に舞い上がっているな」
ヴォルフガング・ハルトマンは、提出された報告書を机に投げ置いた。
「ええ。晩餐会で支持を得たつもりのようですが……」
補佐官の言葉に、ヴォルフガングは鼻で笑う。
「支持ではない。好奇心と、迎合だ。あれは民意ではない」
彼は、別の書類を手に取る。
そこには、エヴァレット・ノクティアの署名があった。
「彼女は動かない。だが、動かないという選択が、最も状況を変えている」
王太子が騒げば騒ぐほど、比較対象としてエヴァレットの“静けさ”が浮き彫りになる。
それが、どれほど恐ろしいことかを、当の本人だけが理解していない。
その頃、ノクティア侯爵邸の庭では、エヴァレットが一人、散策をしていた。
夕暮れの空気は穏やかで、王宮の喧騒など、遠い世界の出来事のようだ。
「……焦り始めましたわね」
そう呟いた声には、確かな手応えがあった。
エマは持ち上げられている。
コンラートは、選んだ自分に酔っている。
だが、基盤は何一つ、整っていない。
「本当に崩れるのは……これから」
エヴァレットは、空を見上げた。
星が、ひとつ、またひとつと灯り始めている。
静かな夜の始まりとともに、
王太子の足元では、確実に亀裂が広がっていた。
王都に、噂が流れ始めたのは、その日の夕刻だった。
――王太子コンラートが、婚約破棄を宣言したらしい。
――しかも相手は、長年支えてきた侯爵令嬢エヴァレット・ノクティア。
――代わりに選ばれたのは、平民出身の“聖女”エマだという。
人は噂を好む。
特に、王族の不祥事と恋愛沙汰は、酒場でも貴族のサロンでも、これ以上ない肴だった。
「やはり、時代は変わるのね」 「ええ、平民の聖女様が王太子妃だなんて、素敵じゃない?」 「でも……ノクティア様はどうなるのかしら」
囁きは、好意と不安と、そして微かな嘲りを含んで王都を巡る。
それらすべてが、エヴァレット・ノクティアの耳にも、自然と届いていた。
だが、彼女は動かない。
ノクティア侯爵家の執務室で、エヴァレットは淡々と書類に目を通していた。
窓から差し込む午後の光が、整えられた机と、無駄のない文字の列を照らしている。
「……予想通り、ですわね」
そう呟いた声に、感情はない。
書類の一枚一枚は、王宮各所から届いた報告書だった。税収、備蓄、地方の情勢。
どれも、王太子が「理解しているつもり」になっている分野だ。
――だが、理解と把握は違う。
エヴァレットはペンを取り、必要な箇所にだけ印を付けていく。
これは侯爵家としての通常業務だ。婚約が破棄されようと、彼女の役割は変わらない。
その様子を、控えめに見守っていた侍女が、躊躇いがちに口を開いた。
「お嬢様……王宮から、招待状が届いております」
「招待、ですか?」
「はい。王太子殿下主催の小規模な晩餐会だそうで……エマ様のお披露目、とのことです」
その言葉に、侍女は一瞬、言葉を濁した。
無礼であることは、彼女自身がよく理解している。
エヴァレットは、招待状に目を落とし、すぐに封を閉じた。
「辞退します」
即答だった。
「理由は?」
「“体調不良”で結構ですわ。事実、騒がしい場は好みませんので」
それだけ言って、再び書類へと視線を戻す。
侍女は一礼し、静かに部屋を出て行った。
――行かない。
それが、最も効く。
王太子コンラートは、エヴァレットが来ると信じていた。
いや、正確には“来ざるを得ない”と思い込んでいた。
自分が選ばれた側であり、捨てた側である。
その優位を、周囲に誇示するための舞台。それが晩餐会だ。
「……来ない?」
報告を受けた瞬間、コンラートは眉を吊り上げた。
「はい。ノクティア侯爵令嬢は、体調不良を理由に欠席とのことです」
「体調不良だと? あれほど丈夫そうな女が?」
苛立ちを隠そうともせず、コンラートは舌打ちした。
隣にいたエマが、慌てて取り繕う。
「き、きっと……お辛いのだと思います。突然のことでしたし……」
その言葉に、コンラートは満足げに頷いた。
「そうだな。無理もない。彼女は、まだ現実を受け入れられていないのだろう」
だが、その言葉は、どこか空虚だった。
エヴァレットが取り乱す姿を想像していたからこそ、彼女の不在が、妙に胸に引っかかる。
晩餐会は、予定通り開催された。
エマは純白のドレスに身を包み、控えめに微笑む。貴族たちは口々に賛辞を述べ、彼女を持ち上げた。
――だが、視線の端で、誰もが気づいている。
そこに“ノクティア侯爵令嬢”がいないことを。
主役が一人欠けた舞台は、どうしても締まらない。
一方、宰相府では、別の動きが進んでいた。
「王太子は、完全に舞い上がっているな」
ヴォルフガング・ハルトマンは、提出された報告書を机に投げ置いた。
「ええ。晩餐会で支持を得たつもりのようですが……」
補佐官の言葉に、ヴォルフガングは鼻で笑う。
「支持ではない。好奇心と、迎合だ。あれは民意ではない」
彼は、別の書類を手に取る。
そこには、エヴァレット・ノクティアの署名があった。
「彼女は動かない。だが、動かないという選択が、最も状況を変えている」
王太子が騒げば騒ぐほど、比較対象としてエヴァレットの“静けさ”が浮き彫りになる。
それが、どれほど恐ろしいことかを、当の本人だけが理解していない。
その頃、ノクティア侯爵邸の庭では、エヴァレットが一人、散策をしていた。
夕暮れの空気は穏やかで、王宮の喧騒など、遠い世界の出来事のようだ。
「……焦り始めましたわね」
そう呟いた声には、確かな手応えがあった。
エマは持ち上げられている。
コンラートは、選んだ自分に酔っている。
だが、基盤は何一つ、整っていない。
「本当に崩れるのは……これから」
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星が、ひとつ、またひとつと灯り始めている。
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