世界の現実は、理不尽で残酷だ――平等など存在しない

鷹 綾

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第三十八話 沈黙が選ばれる理由

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第三十八話 沈黙が選ばれる理由

王都では、変化が起きていた。

それは革命でも改革でもない。声高な主張が消え、誰もが一歩引いた場所から物事を見るようになった、というだけの変化だ。

かつてなら、貴族たちは競うように正義を語った。教会は救済を掲げ、王家は理想を示し、人々はそれに拍手を送った。だが今、同じ光景はない。

沈黙が、選ばれている。

王宮の会議室では、議論の進め方が変わった。発言者は、言葉を選び、結論を急がない。誰かが「それは正しい」と言い切ろうとすると、必ず別の誰かが問いを挟む。

「正しいと判断する基準は、どこにありますか」

それは批判ではない。確認だ。

誰もが、あの失敗を覚えている。正義を疑わなかったことが、どれほどの混乱を生んだかを。

新王フィリップは、その空気を否定しない。

彼自身、決断を下すとき、以前よりも時間をかけるようになっていた。感情を排し、数字と前例と影響範囲を確認する。即断即決は、美徳ではなくなった。

「急がなかったからといって、責められる時代ではない」

彼は、そう明言した。

それは逃げではない。慎重さを制度として認める宣言だった。

一方、王都の外では、別の静けさが広がっている。

学園では、かつてのような「理想論」が語られなくなった。教師たちは、平等を否定はしないが、条件を必ず添える。

「法の前では平等です。ただし、責任の重さは立場で変わります」

その言葉に、学生たちは戸惑いながらも頷く。以前なら反発が起きただろう。だが今は、反論が出ない。

マリアの件は、誰も名指ししない。それでも、彼女の存在は教材として残っている。

――知らなかったでは、済まされない。

それが、この国の共通認識になりつつあった。

エノー公爵領では、アリエノールが一通の報告書に目を通していた。内容は、王都近郊で起きた小さな揉め事についてだ。正義感の強い若い貴族が、教会関係者と衝突したという。

彼女は、報告を読み終えると、短く指示を出す。

「処分は不要です。ただし、当人に三つ質問を」

「なぜ行動したのか。
 誰の権限で動いたのか。
 結果責任を負う覚悟があるか」

その答え次第で、次の対応を決める。

罰よりも、自覚を求める。それが彼女のやり方だった。

「世界は変わっていませんわ」

側近がそう言うと、アリエノールは首を横に振った。

「いいえ。変わりました」

「人が、自分の言葉を疑うようになった。それだけで十分です」

彼女にとって、最大の脅威は無自覚な善意だった。それが抑制され始めた今、国は少しだけ安定に向かっている。

修道院では、マリアが書物を写していた。内容は、神学ではない。古い法文書だ。

彼女は、文字をなぞりながら、理解できなかった一文に何度も戻る。

――権限なき者の善行は、罪になり得る。

かつてなら、納得できなかっただろう。だが今は、違う。

彼女は思う。

もし、あの時立ち止まっていれば。
もし、自分が象徴であることを理解していれば。

だが、考えても意味はない。

後悔は、修正できない選択のあとにしか生まれない。そして修正は、もう終わった。

王太子ルイスもまた、同じ沈黙の中にいる。彼は、何も語らない。だが、かつての自分の言葉が、どれほど軽かったかを、ようやく理解していた。

王国全体が、声を潜めている。

だがそれは、恐怖ではない。

理解のための沈黙だ。

誰かを救えなかった事実を、物語にせず、英雄譚にもしない。その選択こそが、この国が学んだ唯一の教訓だった。

沈黙は、逃げではない。

それは、次に同じ過ちを繰り返さないために選ばれた、最も現実的な態度だった。
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