40 / 42
第三十九話 選ばれなかった未来
しおりを挟む
第三十九話 選ばれなかった未来
王都に、春の気配が差し始めていた。
街路樹の芽はまだ固く、花が咲くには早い。それでも人々は、冬が終わりつつあることを感覚で理解している。市場には活気が戻り、子どもたちの声が通りに響く。
表面だけを見れば、王国は完全に立ち直ったように見えた。
だが――
その裏で、静かに失われ続けているものがある。
それは、「語られなかった未来」だった。
王宮の書庫では、古い婚姻契約書や条約文書が整理されていた。不要と判断された文書は、破棄ではなく、封印箱へと移される。そこには、発効することのなかった協定、成立寸前で白紙に戻された縁談が収められていく。
その中に、かつて王太子ルイスとアリエノールを結ぶはずだった婚約文書もあった。
書記官は、その文書を手に取ったまま、しばらく動かなかった。
もし、この契約が結ばれていたら。
もし、誰も感情を優先しなかったら。
その先にあった未来は、もう確認できない。
未来とは、選ばれた瞬間に、それ以外のすべてが消えるものだからだ。
新王フィリップは、その箱の存在を知っている。だが、開けようとはしない。
「起きなかったことに意味を与えるのは、政治ではない」
彼はそう言い切る。
王とは、結果だけを引き受ける存在だ。選ばれなかった可能性に心を割く余裕は、最初から与えられていない。
それでも、夜の執務室で一人になると、彼は時折考えてしまう。
兄が王になっていた未来。
自分が、補佐として裏に回っていた未来。
だが、それらはすべて「存在しない歴史」だ。
「……想像は、罪ではないが、責任を生まない」
そう呟いて、彼は書類に視線を戻す。
一方、地方では、小さな変化が積み重なっていた。
貴族たちは、子女の教育方針を変え始めている。学園では、以前よりも早い段階で「身分と責任」が教えられるようになった。
理想を語る前に、立場を知れ。
善意を持つ前に、権限を理解しろ。
それは冷たい教えだ。だが、誰も否定しなかった。
否定できるだけの余裕を、この国はもう持っていない。
エノー公爵領で、アリエノールは新たな婚約準備を進めていた。ブリテン王国との関係は、順調に深化している。交わされる書簡は多く、内容はすべて具体的だ。
兵の数。
物資の流れ。
有事の際の対応。
そこに、夢や理想は書かれていない。
だが、彼女はそれでいいと思っている。
「未来は、選び続けるものですわ」
そう語る彼女の表情は、穏やかだ。
もし、あの時別の選択をしていたら――
そんな問いは、もう自分には不要だ。
選ばなかった未来に縛られるほど、彼女は無責任ではない。
修道院では、マリアが庭の整備をしていた。土に触れ、雑草を抜き、水をやる。単純な作業だが、彼女はそこに集中している。
かつて、彼女は未来を語るのが好きだった。
皆が平等な世界。
善意が報われる社会。
だが今、彼女は未来を語らない。
代わりに、今日の作業を終わらせることだけを考えている。
未来は、考えるものではなく、生き延びた者にだけ与えられる時間なのだと、ようやく理解したからだ。
王太子ルイスもまた、選ばれなかった未来の中にいる。
剣の稽古を終え、汗を拭きながら、彼は空を見る。もし王であったなら、今頃どんな判断をしていただろうか。
――その問いに、答えは出ない。
なぜなら、彼は選ばれなかったからだ。
王国は、前に進んでいる。
だがそれは、すべてを抱えたままではない。切り捨て、選別し、忘却した上での前進だ。
選ばれなかった未来は、誰にも救われない。
だが、救われなかったからこそ、今の現実が成立している。
それが、この国が支払った、正確な代償だった。
王都に、春の気配が差し始めていた。
街路樹の芽はまだ固く、花が咲くには早い。それでも人々は、冬が終わりつつあることを感覚で理解している。市場には活気が戻り、子どもたちの声が通りに響く。
表面だけを見れば、王国は完全に立ち直ったように見えた。
だが――
その裏で、静かに失われ続けているものがある。
それは、「語られなかった未来」だった。
王宮の書庫では、古い婚姻契約書や条約文書が整理されていた。不要と判断された文書は、破棄ではなく、封印箱へと移される。そこには、発効することのなかった協定、成立寸前で白紙に戻された縁談が収められていく。
その中に、かつて王太子ルイスとアリエノールを結ぶはずだった婚約文書もあった。
書記官は、その文書を手に取ったまま、しばらく動かなかった。
もし、この契約が結ばれていたら。
もし、誰も感情を優先しなかったら。
その先にあった未来は、もう確認できない。
未来とは、選ばれた瞬間に、それ以外のすべてが消えるものだからだ。
新王フィリップは、その箱の存在を知っている。だが、開けようとはしない。
「起きなかったことに意味を与えるのは、政治ではない」
彼はそう言い切る。
王とは、結果だけを引き受ける存在だ。選ばれなかった可能性に心を割く余裕は、最初から与えられていない。
それでも、夜の執務室で一人になると、彼は時折考えてしまう。
兄が王になっていた未来。
自分が、補佐として裏に回っていた未来。
だが、それらはすべて「存在しない歴史」だ。
「……想像は、罪ではないが、責任を生まない」
そう呟いて、彼は書類に視線を戻す。
一方、地方では、小さな変化が積み重なっていた。
貴族たちは、子女の教育方針を変え始めている。学園では、以前よりも早い段階で「身分と責任」が教えられるようになった。
理想を語る前に、立場を知れ。
善意を持つ前に、権限を理解しろ。
それは冷たい教えだ。だが、誰も否定しなかった。
否定できるだけの余裕を、この国はもう持っていない。
エノー公爵領で、アリエノールは新たな婚約準備を進めていた。ブリテン王国との関係は、順調に深化している。交わされる書簡は多く、内容はすべて具体的だ。
兵の数。
物資の流れ。
有事の際の対応。
そこに、夢や理想は書かれていない。
だが、彼女はそれでいいと思っている。
「未来は、選び続けるものですわ」
そう語る彼女の表情は、穏やかだ。
もし、あの時別の選択をしていたら――
そんな問いは、もう自分には不要だ。
選ばなかった未来に縛られるほど、彼女は無責任ではない。
修道院では、マリアが庭の整備をしていた。土に触れ、雑草を抜き、水をやる。単純な作業だが、彼女はそこに集中している。
かつて、彼女は未来を語るのが好きだった。
皆が平等な世界。
善意が報われる社会。
だが今、彼女は未来を語らない。
代わりに、今日の作業を終わらせることだけを考えている。
未来は、考えるものではなく、生き延びた者にだけ与えられる時間なのだと、ようやく理解したからだ。
王太子ルイスもまた、選ばれなかった未来の中にいる。
剣の稽古を終え、汗を拭きながら、彼は空を見る。もし王であったなら、今頃どんな判断をしていただろうか。
――その問いに、答えは出ない。
なぜなら、彼は選ばれなかったからだ。
王国は、前に進んでいる。
だがそれは、すべてを抱えたままではない。切り捨て、選別し、忘却した上での前進だ。
選ばれなかった未来は、誰にも救われない。
だが、救われなかったからこそ、今の現実が成立している。
それが、この国が支払った、正確な代償だった。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
【完結】「私は善意に殺された」
まほりろ
恋愛
筆頭公爵家の娘である私が、母親は身分が低い王太子殿下の後ろ盾になるため、彼の婚約者になるのは自然な流れだった。
誰もが私が王太子妃になると信じて疑わなかった。
私も殿下と婚約してから一度も、彼との結婚を疑ったことはない。
だが殿下が病に倒れ、その治療のため異世界から聖女が召喚され二人が愛し合ったことで……全ての運命が狂い出す。
どなたにも悪意はなかった……私が不運な星の下に生まれた……ただそれだけ。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します。
※他サイトにも投稿中。
※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」
※小説家になろうにて2022年11月19日昼、日間異世界恋愛ランキング38位、総合59位まで上がった作品です!
欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜
水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。
魔王乱立の時代。
王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。
だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。
にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。
抗議はしない。
訂正もしない。
ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。
――それが、誰にとっての不合格なのか。
まだ、誰も気づいていない。
欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。
婚約破棄の後始末 ~息子よ、貴様何をしてくれってんだ!
タヌキ汁
ファンタジー
国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢と政略結婚が決められていた王子。だが政略結婚を嫌がり、自分の好き相手と結婚する為に取り巻き達と共に、公爵令嬢に冤罪をかけ婚約破棄をしてしまう、それが国を揺るがすことになるとも思わずに。
これは馬鹿なことをやらかした息子を持つ父親達の嘆きの物語である。
強制力がなくなった世界に残されたものは
りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った
令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達
世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか
その世界を狂わせたものは
悪役令嬢は手加減無しに復讐する
田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。
婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる