『婚約破棄された公爵令嬢は、線を引く』――戻れない場所で、判断する席に座りました

鷹 綾

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第二十話 責任の名前

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第二十話 責任の名前

 王城の鐘が、正午を告げていた。
 だが、その音はいつもより重く響いた。人々が集まる中庭には、貴族、官吏、そして招かれた商人たちの姿がある。今日の場は、祝賀でも儀礼でもない。――公表のための場だ。

 壇上に立つヴァルターの表情は、硬かった。
 手にした文書は薄い。だが、その一枚が持つ意味は、王城の壁よりも重い。

「諸君」

 静まり返る。

「本日より、特定案件に関する最終判断権を、文書に基づき委任する」

 ざわめきが走る。
 “委任”。その言葉が、耳に引っかかった者は多い。

「名義は、――エヴァリーナ・フォン・クロイツ」

 一瞬、空気が止まった。
 その名は、すでに囁かれてはいた。だが、公の場で、王太子の口から告げられるのは初めてだ。

「期限、範囲、責任の所在は、すべて明記される。
 成果は名義人の功績であり、失敗は名義人の責任である」

 言い切る声に、迷いはない。
 それは、彼自身が選んだ線でもあった。

 群衆の中で、商人たちが視線を交わす。
 誰に話を通せばいいのか――その答えが、今、形になった。

 一方、クロイツ公爵家の書斎で、エヴァリーナは報告書を受け取っていた。
 公表の内容。文言。反応の概要。

「……正式に、名が出ましたわね」

 声は落ち着いている。だが、胸の奥で何かが確かに切り替わった。

「これで、“影で動く”ことはできません」

 マティアスが言う。

「望んでおりません」

 エヴァリーナは即答した。

「影は、責任を曖昧にします」

 机上には、新しい案件の束が並ぶ。
 地方の水路整備。通商税の暫定見直し。軍需の支払い条件。

 どれも、利害が鋭くぶつかるものばかりだ。

「……まずは、水路から」

 彼女は、指先で資料を整えた。

「期限を切り、検証を入れます。
 反発が出る前に、数字を出す」

 数日後。
 最初の決断が、動いた。

 水路整備は、既存の請負先を見直し、遅延の原因を切り分ける。
 通商税は、期間限定で軽減し、流通量の回復を優先する。
 軍需の支払いは、分割に切り替え、現場の停止を防ぐ。

 反発は、当然あった。

「勝手に決めるな」
「王城の承認はどうなっている」

 だが、その声には、即座に返答が返る。

「名義は、エヴァリーナ・フォン・クロイツ。
 期限は三十日。検証は第三者が行う」

 責任の名前が、前に出る。
 それだけで、議論の質が変わった。

 王城では、ヴァルターがその報告を受けていた。

「……速いな」

「はい。
 反発はありますが、止まってはいません」

 彼は、短く頷いた。

「それでいい」

 胸の奥で、何かが静かに落ち着く。
 自分が抱え込んでいた“決めなければならない恐怖”が、外に出たのだ。

 夜、エヴァリーナは書斎で灯りを落とさず、資料に向かっていた。
 疲労はある。だが、迷いはない。

「……責任の名前、ですか」

 呟き、ペンを走らせる。

 名が出るということは、矢が飛んでくるということ。
 称賛も、非難も、すべて自分に向く。

 それでも。

「……隠れるより、ずっと健全ですわ」

 マティアスが、静かに言った。

「名が出たことで、味方も増えています」

「味方は、期待で動く」

 エヴァリーナは、淡々と返す。

「期待は、結果で裏切られることもあります」

「では?」

「だから、約束しかしません。
 期限と、検証と、撤回条件」

 その言葉は、強がりではない。
 自分を縛るための、現実的な策だ。

 数日後、最初の検証結果が出た。
 水路整備の遅延は改善し、通商量は回復傾向。
 数字は、嘘をつかない。

 王城の回廊で、誰かが言った。

「……名が出ると、こんなにも早いのか」

 別の誰かが、答える。

「違う。
 名に、責任が付いたからだ」

 エヴァリーナ・フォン・クロイツ。
 その名は、もう噂ではない。

 決断と結果が結びついた、
 責任の名前として、王都に刻まれ始めていた。

 そして彼女は知っている。
 名が刻まれた以上、消えるのも、残るのも――結果次第だ。

 だからこそ、今日も机に向かう。
 誰かのためではない。
 自分が引いた線を、守るために。

 ――それが、席に座る者の仕事なのだから。
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