引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第5話 扉に貼られた小さな願い

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第5話 扉に貼られた小さな願い

 その日の朝、ポーラ・スターはいつもより早く目を覚ました。

 理由ははっきりしている。
 胸の奥に、かすかな「欲」が残っていたからだ。

 それは聖女としての予感でも、災厄の兆しでもない。
 もっと個人的で、ささやかなもの。

 ――今日は、少し、温かいものが食べたい。

 ベッドの上で身を起こし、毛布を肩にかけたまま、しばらく考える。
 いつもなら、朝は特に何も考えず、用意された食事を静かに口にするだけだ。味も、温度も、意識しない。

 だが今日は、違った。

 頭の中に浮かんだのは、白い湯気と、貝の香り。
 柔らかい野菜と、とろりとしたスープ。

 ――クラムチャウダー。

 その言葉を思い浮かべた瞬間、胸が少しだけ軽くなった。

 ポーラはゆっくりと机に向かい、ペンを手に取る。
 紙の上に文字を書くのは、彼女にとって「外の世界に触れる」行為だった。

 だから、慎重になる。

 こんなことを書いていいのだろうか。
 聖女として、ふさわしいだろうか。
 わがままだと思われないだろうか。

 ペン先が止まり、しばらく白紙のまま時間が過ぎる。

 それでも、今日は書きたいと思った。

 声に出すことはできない。
 顔を合わせて頼むこともできない。

 だから、これしかない。

 ポーラは小さく息を吸い、文字を綴った。

 ――今日は、クラムチャウダーが食べたいです。

 書き終えたあと、紙をじっと見つめる。
 たった一行。
 災害の予告でも、国を救う言葉でもない。

 ただの、個人的な願い。

 紙を折る手が、わずかに震えた。

 それでも、立ち上がり、扉の前へと進む。
 そっと紙を床に置き、すぐに距離を取る。

 これでいい。
 返事は、いらない。

 ◇

 その紙を最初に見つけたのは、年若い使用人のミーナだった。

 彼女はしゃがみ込み、いつものように紙を拾い上げる。
 内容を読んだ瞬間、目を瞬かせた。

 「……クラムチャウダー?」

 思わず、声に出してしまう。

 隣にいた年長の使用人が、怪訝そうに覗き込む。

 「どうしたの」

 「いえ、その……」

 ミーナは紙を差し出した。
 年長の使用人はそれを読み、わずかに言葉に詰まる。

 「……今日は、クラムチャウダーが食べたい、です……?」

 沈黙が落ちた。

 災害の予告なら、慣れている。
 天候の兆しも、方向も。

 だが、これは違う。

 「……どう、する?」

 ミーナが小声で尋ねる。

 年長の使用人は腕を組み、しばらく考え込んだ。

 「無視するわけにもいかないでしょう」

 「でも……聖女様、ですよ?」

 「ええ。だからこそ、よ」

 声を潜め、周囲を気にしながら言葉を続ける。

 「人前に出られない分、あの方は……本当に、ああいう形でしか意思を伝えられないの」

 ミーナは、はっとしたように口を閉じた。

 確かにそうだ。
 扉に貼られた紙は、ポーラが必死に外とつながろうとした痕跡なのだ。

 「用意しましょう」

 年長の使用人は、そう結論を出した。

 「厨房に伝えてきます」

 ◇

 厨房では、少しした騒ぎになった。

 「クラムチャウダー?」

 料理長が、目を丸くする。

 「今朝の献立は違ったはずだが……」

 事情を説明すると、料理長はしばらく腕を組んで考え込んだ。

 「……まあ、いいか」

 やがて、肩をすくめる。

 「珍しいことでもあるまい。
 聖女様のご要望だ。できる範囲で応えよう」

 周囲の料理人たちは、顔を見合わせる。

 「でも、聖女様って……」

 「引きこもり、だろ?」

 「ええ。姿も見たことがない」

 小声の囁きが交わされる。

 困惑。
 好奇心。
 そして、ほんの少しの戸惑い。

 それでも、鍋に火が入り、貝が用意され、スープが仕上げられていく。

 ◇

 夕方、ポーラの部屋の前に、静かに皿が置かれた。

 ノックはない。
 声もない。

 ただ、いつもと同じ「距離」が守られている。

 ポーラはしばらく動けずにいた。
 扉の向こうに、誰かがいないかを耳で確かめる。

 ――大丈夫。

 そう感じてから、扉をほんの少しだけ開けた。

 誰もいない。

 皿を素早く引き込み、すぐに扉を閉める。

 心臓が、早く打っている。

 だが、皿から立ち上る湯気を見た瞬間、その鼓動は少しだけ落ち着いた。

 スプーンですくい、一口。

 温かい。

 やさしい味が、口の中に広がる。

 胸の奥が、じんわりと緩んでいく。

 ――書いて、よかった。

 たった一行のメモ。
 それだけで、外の世界が少しだけ、怖くなくなった気がした。

 ポーラは静かに食事を終え、空になった皿を扉の前に戻す。

 感謝の言葉を書くことは、まだできない。
 でも、いつか。

 そんな淡い予感を胸に、彼女はベッドに戻った。

 この日、扉に貼られたのは、
 国を救う予言ではなく、
 一人の少女の、小さな願いだった。

 そしてそれは、
 ポーラ・スターが「聖女」である前に、
 一人の人間であることを、
 誰よりも静かに示していた。
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