引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

文字の大きさ
8 / 39

第8話 嬉しい、という文字

しおりを挟む
第8話 嬉しい、という文字

 扉の向こうが、完全に静まり返ってから、どれほどの時間が経ったのか、ポーラには分からなかった。

 王太子リチャードの足音が遠ざかり、護衛たちの気配も消え、屋敷全体がいつもの静けさを取り戻しても、彼女はすぐに動くことができなかった。

 胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。

 恐怖が残っているのは確かだ。
 突然訪れた王太子の声、断定的な宣告、逃げ場のない状況。

 けれど――

 それだけではなかった。

 毛布に包まれたまま、ポーラは天井を見つめる。
 心臓の鼓動は、次第にゆっくりになっていく。

 聖女を解く。
 婚約を破棄する。

 その言葉が、頭の中で反芻されるたびに、胸の奥が少しずつ軽くなっていくのを、彼女ははっきりと感じていた。

 ――終わった。

 それは、切り捨てられた、という意味ではない。
 役目を奪われた、という感覚でもない。

 もっと、別の――
 長い間、背中に押し付けられていた重たいものが、静かに外されたような感覚だった。

 ポーラはゆっくりと体を起こし、机の前に座る。
 白紙の紙とペンが、そこにあった。

 声を出して返事をすることは、できない。
 扉を開けることも、できない。

 けれど、何も返さないままでいるのは、少し違う気がした。

 ――返事、しなきゃ。

 それは義務感ではない。
 誰かに言われたわけでもない。

 ただ、自分の中に生まれた感情を、そのままにしておきたくなかった。

 ペンを握る指は、まだ少し震えている。
 だが、逃げるような震えではなかった。

 ポーラは、深く息を吸い、文字を書き始める。

 まず、一枚目。

 「婚約破棄、了承します」

 丁寧に、ゆっくりと書く。
 読みやすい字であることを意識しながら。

 書き終えたあと、少し迷ってから、小さく括弧を付け足す。

 (嬉)

 その二文字を書いた瞬間、ポーラの胸が、きゅっと締めつけられた。

 不謹慎だろうか。
 聖女として、婚約者として、失格だろうか。

 けれど――

 消す気には、ならなかった。

 これは、本心だ。

 胸の奥から、自然に浮かび上がってきた感情。

 次に、二枚目の紙を取る。

 こちらは、もっとはっきりしている。

 「聖女解任、承りました」

 そして、同じように。

 (嬉)

 書き終えた二枚の紙を並べて見つめる。

 これまで、扉に貼ってきたメモの中で、
 これほど個人的な感情を書いたのは、初めてだった。

 災害の予告でもない。
 注意喚起でもない。

 ただ、自分の気持ち。

 ポーラは立ち上がり、扉へ向かう。
 いつものように、そっと扉を開け、紙を床に置く。

 誰もいないことを確認し、すぐに扉を閉める。

 それだけの動作なのに、今日は不思議と、体が軽かった。

 ◇

 しばらくして、使用人の一人がその紙に気づいた。

 しゃがみ込み、二枚のメモを拾い上げる。

 読み進めた彼女は、思わず言葉を失った。

 「……え?」

 婚約破棄、了承します。
 (嬉)

 聖女解任、承りました。
 (嬉)

 何度か読み返し、首をかしげる。

 「……嬉しい、って……?」

 近くにいた別の使用人も覗き込み、同じように固まった。

 怒りも、悲嘆も、抗議もない。
 あるのは、たった二文字の感情表現。

 「……ショックを受けているんじゃ、ないの?」

 誰かが小さく呟く。

 だが、メモは嘘をつかない。
 書かれた文字は、あまりにも率直だった。

 「……本当に、そう思っていらっしゃるのかしら」

 困惑と戸惑いが、使用人たちの間に広がる。

 誰も、この反応を予想していなかった。

 ◇

 一方、ポーラは部屋の中で、ベッドに腰掛けていた。

 扉の向こうで、どんな反応が起きているのかは、分からない。
 分からなくていい。

 胸の奥は、驚くほど静かだった。

 怖さが消えたわけではない。
 人に会えるようになったわけでもない。

 それでも、確かに一つ、変わったことがある。

 ――もう、聖女じゃない。
 ――もう、婚約者じゃない。

 その事実が、彼女を少しだけ自由にしていた。

 ポーラは毛布を引き寄せ、膝を抱える。

 小さく、小さく、息を吐いた。

 これまでずっと、
 「何かをしなければならない」と思い続けてきた。

 祈らなければ。
 期待に応えなければ。
 役目を果たさなければ。

 でも、今は違う。

 何もしなくていい。
 ただ、ここにいていい。

 扉に貼られた二枚のメモは、
 王太子にとっては予想外の返答であり、
 王国にとっては理解不能な反応かもしれない。

 けれど、ポーラにとっては――

 初めて、自分の気持ちをそのまま外に出せた、
 小さな、しかし確かな一歩だった。

 その日、
 引きこもり聖女ポーラ・スターは、
 誰にも見られない場所で、
 ほんの少しだけ、笑っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです

きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」 5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。 その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?

大好きな旦那様はどうやら聖女様のことがお好きなようです

古堂すいう
恋愛
祖父から溺愛され我儘に育った公爵令嬢セレーネは、婚約者である皇子から衆目の中、突如婚約破棄を言い渡される。 皇子の横にはセレーネが嫌う男爵令嬢の姿があった。 他人から冷たい視線を浴びたことなどないセレーネに戸惑うばかり、そんな彼女に所有財産没収の命が下されようとしたその時。 救いの手を差し伸べたのは神官長──エルゲンだった。 セレーネは、エルゲンと婚姻を結んだ当初「穏やかで誰にでも微笑むつまらない人」だという印象をもっていたけれど、共に生活する内に徐々に彼の人柄に惹かれていく。 だけれど彼には想い人が出来てしまったようで──…。 「今度はわたくしが恩を返すべきなんですわ!」 今まで自分のことばかりだったセレーネは、初めて人のために何かしたいと思い立ち、大好きな旦那様のために奮闘するのだが──…。

旦那様、離婚しましょう ~私は冒険者になるのでご心配なくっ~

榎夜
恋愛
私と旦那様は白い結婚だ。体の関係どころか手を繋ぐ事もしたことがない。 ある日突然、旦那の子供を身籠ったという女性に離婚を要求された。 別に構いませんが......じゃあ、冒険者にでもなろうかしら? ー全50話ー

【完結】薔薇の花をあなたに贈ります

彩華(あやはな)
恋愛
レティシアは階段から落ちた。 目を覚ますと、何かがおかしかった。それは婚約者である殿下を覚えていなかったのだ。 ロベルトは、レティシアとの婚約解消になり、聖女ミランダとの婚約することになる。 たが、それに違和感を抱くようになる。 ロベルト殿下視点がおもになります。 前作を多少引きずってはいますが、今回は暗くはないです!! 11話完結です。 この度改編した(ストーリーは変わらず)をなろうさんに投稿しました。

【完結】裏切られたあなたにもう二度と恋はしない

たろ
恋愛
優しい王子様。あなたに恋をした。 あなたに相応しくあろうと努力をした。 あなたの婚約者に選ばれてわたしは幸せでした。 なのにあなたは美しい聖女様に恋をした。 そして聖女様はわたしを嵌めた。 わたしは地下牢に入れられて殿下の命令で騎士達に犯されて死んでしまう。 大好きだったお父様にも見捨てられ、愛する殿下にも嫌われ酷い仕打ちを受けて身と心もボロボロになり死んでいった。 その時の記憶を忘れてわたしは生まれ変わった。 知らずにわたしはまた王子様に恋をする。

断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる

葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。 アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。 アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。 市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。

役立たずと捨てられた万能建築士、隣国で「聖域」を造って無双する。今さら復興のために戻れ? ご自分たちで瓦礫でも積んでいればよろしいのでは?

しょくぱん
恋愛
「お前の魔法は石を積むだけの土木作業だ」と婚約破棄されたので、城を支えていた『構造維持結界』をすべて解除して出て行きますね。今さら「城が崩れる!」と泣きつかれても、私は隣国で氷結の皇帝陛下と「世界最高の聖域」を造っていますので、一切知りません。 王国唯一の建築魔導師アニエスは、その地味な見た目と能力を理由に、王太子シグムンドから婚約破棄と国外追放を言い渡される。 彼の隣には、派手な光魔法を使う自称聖女の姿があった。 「お前の代わりなどいくらでもいる。さっさと出て行け!」 「……分かりました。では、城にかけていた『自動修復』『耐震』『空調』の全術式を解約しますね」 アニエスが去った直後、王城は音を立てて傾き、噴水は泥水に変わり、王都のインフラは崩壊した。 一方、アニエスは隣国の荒野で、呪われた皇帝レオンハルトと出会う。彼女が何気なく造った一夜の宿は、呪いを浄化するほどの「聖域」だった。 「君は女神か? どうか私の国を救ってほしい」 「喜んで。ついでに世界一快適な住居も造っていいですか?」 隣国がアニエスの力で黄金の国へと発展する一方、瓦礫の山となった母国からは「戻ってきてくれ」と悲痛な手紙が届く。 だが、アニエスは冷ややかに言い放つ。 「お断りします。契約外ですので、ご自分で支えていればよろしいのでは?」 これは、捨てられた万能建築士が隣国で溺愛され、幸せを掴む物語。 そして、彼女を捨てた者たちが、物理的にも社会的にも「崩壊」し、最後には彼女が架ける橋の『礎石』として永遠に踏まれ続けるまでの、壮絶な因果応報の記録。

氷の公爵は、捨てられた私を離さない

空月そらら
恋愛
「魔力がないから不要だ」――長年尽くした王太子にそう告げられ、侯爵令嬢アリアは理不尽に婚約破棄された。 すべてを失い、社交界からも追放同然となった彼女を拾ったのは、「氷の公爵」と畏れられる辺境伯レオルド。 彼は戦の呪いに蝕まれ、常に激痛に苦しんでいたが、偶然触れたアリアにだけ痛みが和らぐことに気づく。 アリアには魔力とは違う、稀有な『浄化の力』が秘められていたのだ。 「君の力が、私には必要だ」 冷徹なはずの公爵は、アリアの価値を見抜き、傍に置くことを決める。 彼の元で力を発揮し、呪いを癒やしていくアリア。 レオルドはいつしか彼女に深く執着し、不器用に溺愛し始める。「お前を誰にも渡さない」と。 一方、アリアを捨てた王太子は聖女に振り回され、国を傾かせ、初めて自分が手放したものの大きさに気づき始める。 「アリア、戻ってきてくれ!」と見苦しく縋る元婚約者に、アリアは毅然と告げる。「もう遅いのです」と。 これは、捨てられた令嬢が、冷徹な公爵の唯一無二の存在となり、真実の愛と幸せを掴むまでの逆転溺愛ストーリー。

処理中です...