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第12話 扉越しの診察
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第12話 扉越しの診察
翌日も、フォージャー子爵はスター公爵家を訪れた。
特別な準備は何もない。
薬も、器具も、書類すら持っていない。
ただ、昨日と同じ時間に、同じ廊下を歩き、同じ扉の前に立つだけだ。
屋敷の使用人たちは、最初こそ不思議そうな顔をしていたが、二日目になると、誰も口を出さなくなった。
この医師が「何もしない」ことが、すでに異様な安心感を生んでいたからだ。
スター公爵は、少し離れた場所からその様子を見守っていた。
――本当に、これでいいのだろうか。
だが、フォージャーは迷わない。
扉の前に立ち、軽く姿勢を正すと、穏やかな声で語りかける。
「こんにちは、ポーラ嬢。
今日も、お話をしに来ました」
返事はない。
だが、フォージャーはそれを当然のこととして受け止める。
「昨日は、突然お邪魔しましたね。
驚かせてしまったなら、すみません」
謝罪から入る声に、スター公爵は思わず目を見開いた。
医師が、患者に“謝る”という発想がなかったからだ。
「今日は、診察というほどのことはしません」
「ただ、私がここにいる、という事実だけを置いていきます」
淡々とした口調。
押しつけがましさは、どこにもない。
「……今日は、少し風が冷たいですね」
「廊下の窓から見た庭では、葉が揺れていました」
それは、まるで独り言のようだった。
だが、その独り言は、確実に“扉の向こう”を意識している。
◇
扉の内側で、ポーラはベッドに座っていた。
昨日聞いた声。
知らないはずなのに、なぜか記憶に残る声。
大きくもなく、低すぎもしない。
命令するでも、問い詰めるでもない。
ただ、そこにある声。
――診察。
その言葉を聞いた瞬間、昨日までは胸が強張ったはずだ。
だが今は、不思議と恐怖が湧いてこない。
「返事をしなくていい」
その前提があるだけで、
世界はこんなにも静かになるのかと、ポーラは思った。
フォージャーは続ける。
「私は、あなたが何を考えているか、当てようとはしません」
「話したくないことを、話させるつもりもありません」
「ただ、あなたが“ここにいる”ことを、確認できれば十分です」
その言葉に、ポーラの胸が、かすかに揺れた。
――確認。
理解でも、評価でもない。
存在の確認。
それは、聖女としても、婚約者としても、
一度も与えられなかった扱いだった。
◇
廊下に立つスター公爵は、息を潜めて聞いていた。
娘の治療が、
こんな形で進むとは思っていなかった。
いや――
これは本当に、進んでいるのだろうか。
「……これで、効果があるのですか」
公爵は、診察が終わった後、低い声で尋ねた。
フォージャーは、少しだけ首を傾ける。
「“効果”を急げば、逆効果になります」
「今は、診るのではなく、
壊さないことが最優先です」
「扉の向こうは、彼女にとって唯一の安全圏でしょう」
「それを無理に開ければ、
心は、さらに奥へ逃げます」
スター公爵は、唇を噛みしめた。
父として、
「何かしてやりたい」という衝動を、
必死に抑える。
フォージャーは、静かに付け加えた。
「今日、彼女は一度も拒絶しませんでした」
「それだけで、十分な進歩です」
◇
三日目、四日目も、同じことが繰り返された。
フォージャーは毎日訪れ、
同じ時間に扉の前に立ち、
同じ距離を保ち続けた。
天気の話。
庭の草花の話。
市場で聞いた他愛のない噂。
決して、婚約破棄の話はしない。
聖女の役目にも触れない。
「今日は、特に話すことがありませんね」
そんな日もあった。
それでも、彼は立ち去らなかった。
◇
ある日、フォージャーが去った後、
ポーラはふと、自分の呼吸が乱れていないことに気づいた。
胸が、苦しくない。
誰かが来たのに。
誰かの声を聞いたのに。
――怖く、なかった。
それは、劇的な変化ではない。
涙が出るほどの感動でもない。
ただ、ほんのわずか、
世界の音が柔らかくなった。
ポーラは、机の上の紙を見つめる。
書くことは、まだできない。
声を出すことも、できない。
それでも、確かに分かる。
――この人は、扉を壊さない。
扉越しの診察は、
治療というよりも、
信頼を壊さない練習だった。
そしてその練習は、
誰にも気づかれないほど静かに、
確実に、ポーラ・スターの心に根を下ろし始めていた。
翌日も、フォージャー子爵はスター公爵家を訪れた。
特別な準備は何もない。
薬も、器具も、書類すら持っていない。
ただ、昨日と同じ時間に、同じ廊下を歩き、同じ扉の前に立つだけだ。
屋敷の使用人たちは、最初こそ不思議そうな顔をしていたが、二日目になると、誰も口を出さなくなった。
この医師が「何もしない」ことが、すでに異様な安心感を生んでいたからだ。
スター公爵は、少し離れた場所からその様子を見守っていた。
――本当に、これでいいのだろうか。
だが、フォージャーは迷わない。
扉の前に立ち、軽く姿勢を正すと、穏やかな声で語りかける。
「こんにちは、ポーラ嬢。
今日も、お話をしに来ました」
返事はない。
だが、フォージャーはそれを当然のこととして受け止める。
「昨日は、突然お邪魔しましたね。
驚かせてしまったなら、すみません」
謝罪から入る声に、スター公爵は思わず目を見開いた。
医師が、患者に“謝る”という発想がなかったからだ。
「今日は、診察というほどのことはしません」
「ただ、私がここにいる、という事実だけを置いていきます」
淡々とした口調。
押しつけがましさは、どこにもない。
「……今日は、少し風が冷たいですね」
「廊下の窓から見た庭では、葉が揺れていました」
それは、まるで独り言のようだった。
だが、その独り言は、確実に“扉の向こう”を意識している。
◇
扉の内側で、ポーラはベッドに座っていた。
昨日聞いた声。
知らないはずなのに、なぜか記憶に残る声。
大きくもなく、低すぎもしない。
命令するでも、問い詰めるでもない。
ただ、そこにある声。
――診察。
その言葉を聞いた瞬間、昨日までは胸が強張ったはずだ。
だが今は、不思議と恐怖が湧いてこない。
「返事をしなくていい」
その前提があるだけで、
世界はこんなにも静かになるのかと、ポーラは思った。
フォージャーは続ける。
「私は、あなたが何を考えているか、当てようとはしません」
「話したくないことを、話させるつもりもありません」
「ただ、あなたが“ここにいる”ことを、確認できれば十分です」
その言葉に、ポーラの胸が、かすかに揺れた。
――確認。
理解でも、評価でもない。
存在の確認。
それは、聖女としても、婚約者としても、
一度も与えられなかった扱いだった。
◇
廊下に立つスター公爵は、息を潜めて聞いていた。
娘の治療が、
こんな形で進むとは思っていなかった。
いや――
これは本当に、進んでいるのだろうか。
「……これで、効果があるのですか」
公爵は、診察が終わった後、低い声で尋ねた。
フォージャーは、少しだけ首を傾ける。
「“効果”を急げば、逆効果になります」
「今は、診るのではなく、
壊さないことが最優先です」
「扉の向こうは、彼女にとって唯一の安全圏でしょう」
「それを無理に開ければ、
心は、さらに奥へ逃げます」
スター公爵は、唇を噛みしめた。
父として、
「何かしてやりたい」という衝動を、
必死に抑える。
フォージャーは、静かに付け加えた。
「今日、彼女は一度も拒絶しませんでした」
「それだけで、十分な進歩です」
◇
三日目、四日目も、同じことが繰り返された。
フォージャーは毎日訪れ、
同じ時間に扉の前に立ち、
同じ距離を保ち続けた。
天気の話。
庭の草花の話。
市場で聞いた他愛のない噂。
決して、婚約破棄の話はしない。
聖女の役目にも触れない。
「今日は、特に話すことがありませんね」
そんな日もあった。
それでも、彼は立ち去らなかった。
◇
ある日、フォージャーが去った後、
ポーラはふと、自分の呼吸が乱れていないことに気づいた。
胸が、苦しくない。
誰かが来たのに。
誰かの声を聞いたのに。
――怖く、なかった。
それは、劇的な変化ではない。
涙が出るほどの感動でもない。
ただ、ほんのわずか、
世界の音が柔らかくなった。
ポーラは、机の上の紙を見つめる。
書くことは、まだできない。
声を出すことも、できない。
それでも、確かに分かる。
――この人は、扉を壊さない。
扉越しの診察は、
治療というよりも、
信頼を壊さない練習だった。
そしてその練習は、
誰にも気づかれないほど静かに、
確実に、ポーラ・スターの心に根を下ろし始めていた。
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