引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第11話 扉の前に立つ医師

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第11話 扉の前に立つ医師

 その日、スター公爵家の屋敷には、いつもとは違う緊張が漂っていた。

 使用人たちは、朝から落ち着かない様子で行き交い、廊下の空気はひどく張りつめている。
 誰もが、今日訪れる人物の名を知っていた。

 ロードリック・フォージャー子爵。
 精神医療を専門とする医師であり、王侯貴族の間では「最後に頼る男」として知られている人物だ。

 スター公爵は、応接間で一人、静かに待っていた。

 窓の外では、風が弱く吹いている。
 昨日ほど荒れてはいないが、空はどこか重く、雲は低い。

 ――やはり、落ち着かない。

 公爵は、そう感じていた。

 天候の異変。
 婚約破棄の後に始まった、不安定な日々。

 それらすべてを、彼は一つの原因に結びつけてしまっている。

 娘が、深く傷ついた。
 その心が、無意識に世界へ影響を及ぼしている。

 理性では、断定できないと分かっている。
 だが、父親としての感情は、そう考えずにはいられなかった。

 ◇

 馬車の到着を告げる音が響く。

 スター公爵は立ち上がり、玄関へと向かった。

 現れたフォージャー子爵は、噂に違わぬ人物だった。

 年齢は四十代半ば。
 派手さのない、落ち着いた身なり。
 鋭すぎない眼差しと、柔らかな物腰。

 「お招きいただき、ありがとうございます。スター公爵」

 深く、しかし形式ばらない一礼。

 「こちらこそ……お忙しいところ、感謝します」

 公爵は、心からそう言った。

 応接間に通され、簡単な挨拶が済むと、公爵は本題に入る。

 「娘の件ですが……」

 フォージャーは、黙って頷いた。

 「書簡は拝見しました。
 婚約破棄と聖女解任。
 それは、相当な精神的負荷でしょう」

 その言葉に、公爵は深く息を吐いた。

 「ええ……あの子は、もともと対人恐怖症で……
 今回の件で、さらに悪化しているのではないかと」

 「実際に、お嬢様の様子は?」

 「……変わらないのです」

 それが、最も不安だった。

 泣き崩れるわけでも、荒れるわけでもない。
 ただ、いつも通り、部屋に籠もっている。

 「変わらない、というのは」

 フォージャーは、静かに言葉を選ぶ。

 「良くも悪くも、危険な兆候です」

 公爵は、思わず身を乗り出した。

 「……やはり」

 「感情を外に出せない方ほど、
 内側で深く傷を負います」

 フォージャーは断定せず、だが曖昧にもせず、そう述べた。

 「まずは、無理のない形で接触を試みましょう」

 「接触……?」

 「顔を合わせる必要はありません。
 むしろ、今は避けるべきでしょう」

 フォージャーは、穏やかに微笑んだ。

 「扉越しで構いません。
 声を届けるだけでいい」

 その言葉に、公爵は目を見開いた。

 「それだけで……?」

 「ええ。
 治療とは、必ずしも“治す行為”ではありません」

 「まずは、害を与えないこと。
 そして、安全だと感じてもらうこと」

 公爵は、ゆっくりと頷いた。

 それは、彼自身が、これまでできなかったことでもあった。

 ◇

 二人は、屋敷の最奥へと向かった。

 長い廊下の突き当たり。
 分厚い扉。

 そこが、ポーラ・スターの世界だった。

 フォージャーは、扉の前で足を止める。

 「……ここですね」

 「はい」

 公爵は、緊張した面持ちで頷いた。

 フォージャーは、深く息を吸い、扉に向かって穏やかな声をかける。

 「ポーラ・スター嬢。
 私は、ロードリック・フォージャーと申します」

 返事はない。

 だが、それを気にする様子もなく、フォージャーは続けた。

 「今日は、あなたの様子を伺いに来ただけです」

 「扉を開ける必要はありません。
 声を出さなくても構いません」

 「ただ……
 聞こえているかどうかだけ、確かめさせてください」

 沈黙。

 公爵は、息を詰める。

 だが、フォージャーは動じない。

 「……聞こえていれば、それで十分です」

 その言葉は、扉の向こうにいるポーラだけでなく、
 傍らに立つ公爵の心にも、静かに染み込んだ。

 ◇

 扉の向こう。

 ポーラは、ベッドの上で膝を抱えていた。

 知らない声。
 だが、威圧はない。

 命令でも、非難でもない。

 ただ、そこに「いる」と伝える声。

 胸の奥が、わずかに揺れる。

 ――聞こえている。

 そう思った瞬間、
 不思議と、息がしやすくなった。

 声を出さなくていい。
 返事をしなくていい。

 その前提が、彼女を少しだけ楽にした。

 扉の前に立つ医師は、
 まだ何も治していない。

 だが、この日、確かに一つだけ変わったことがある。

 ポーラ・スターの世界に、
 押しつけではない声が、初めて届いたのだ。

 それは、治療の始まりというよりも――
 「侵入しない」という選択だった。

 そしてその選択こそが、
 彼女にとって、何より必要なものだった。
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