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第13話 話さなくていい人
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第13話 話さなくていい人
フォージャー子爵が扉の前に立つようになってから、十日ほどが過ぎていた。
その間、彼は一度も約束を破らなかった。
同じ時間に来て、同じ距離で立ち、同じように声をかけ、そして帰る。
扉を叩くこともない。
中の様子を探ろうとすることもない。
「返事をしてください」と言ったことも、一度もなかった。
それは、ポーラ・スターにとって、これまで出会ったどんな大人とも違う存在だった。
◇
ポーラは、ベッドの端に腰掛け、毛布を膝にかけたまま、静かに耳を澄ませていた。
廊下の足音。
――来た。
その瞬間、胸が強く締めつけられることは、もうない。
心臓が暴れ出すこともない。
ただ、少しだけ、身体が強張る。
それだけだ。
「こんにちは、ポーラ嬢」
扉越しに届く声は、今日も変わらない。
「今日は、特に変わったことはありません」
それは、情報というよりも、宣言だった。
“あなたに何かを求めていない”という宣言。
「……こうして毎日お邪魔していますが、
私自身は、あまり話すのが得意な方ではありません」
その言葉に、ポーラの指先が、ほんのわずかに動いた。
――話すのが、得意じゃない。
医師であり、大人であり、
堂々とした立場にある人が、そんなことを言う。
「ですから、沈黙は苦ではないんです」
「静かな時間も、嫌いではありません」
フォージャーは、まるで独り言のように続ける。
「むしろ、
無理に言葉を重ねる方が、
人を疲れさせることもあります」
その言葉は、
ポーラの胸の奥に、静かに落ちてきた。
◇
――話さなくていい。
その前提があるだけで、
こんなにも世界が違って見える。
これまで、誰かが来るたびに、
ポーラは「何を言えばいいか」を考え続けてきた。
挨拶をしなければ。
返事をしなければ。
期待に応えなければ。
そのすべてが、恐怖だった。
言葉を選ぶ時間。
声を出す勇気。
相手の反応を想像する苦しさ。
それらを、彼は最初から、要求しない。
「……今日は、庭の木に小さな鳥が来ていました」
「名前は分かりませんが、
とても静かで、
こちらが動かなければ、逃げもしませんでした」
ポーラは、目を閉じる。
鳥の姿を、想像する。
静かに枝に止まり、
誰かが近づいても、
無理に追い払われない場所。
――少し、似ている。
そう思った瞬間、
胸の奥に、かすかな温度が生まれた。
◇
フォージャーは、今日も十分ほど話すと、静かに締めくくった。
「……では、今日はこの辺で」
「また、明日」
足音が遠ざかる。
ポーラは、すぐには動かなかった。
しばらく、その余韻の中に身を置く。
そして、ふと気づく。
――今日は、息が苦しくなっていない。
誰かの声を聞いたのに。
誰かが近くにいたのに。
恐怖で身体が固まることも、
頭が真っ白になることもなかった。
「……」
喉が、わずかに動く。
声は出ない。
出そうともしていない。
だが、
「出してはいけない」という感覚が、
少しだけ薄れていた。
◇
その日の夜、ポーラは机に向かった。
白紙の紙。
ペン。
これまで、扉に貼るメモは、
災害の予告か、最低限の意思表示だけだった。
だが今日は、違う。
書きたいことがある。
誰かに読ませるためではない。
ただ、形にしたかった。
ペン先が、紙に触れる。
震えはある。
だが、止まらない。
――「話さなくていい人」
その言葉を書きかけて、ポーラは手を止めた。
これは、誰に向けた言葉なのか。
扉の向こうの医師か。
それとも、自分自身か。
しばらく考え、
彼女は、その紙を折りたたんだ。
扉には貼らない。
今は、まだ。
でも、確かに分かっている。
ロードリック・フォージャーは、
ポーラ・スターにとって初めての――
話さなくていい人。
それは、
「治してくれる人」でも、
「救ってくれる人」でもない。
ただ、
沈黙を許してくれる人。
その存在が、
どれほど大きな意味を持つのかを、
ポーラ自身が理解するのは、
もう少し先のことになる。
だがこの日、
彼女の心の奥で、
確かに一つの扉が――
ほんのわずか、軋む音を立てて動き始めていた。
フォージャー子爵が扉の前に立つようになってから、十日ほどが過ぎていた。
その間、彼は一度も約束を破らなかった。
同じ時間に来て、同じ距離で立ち、同じように声をかけ、そして帰る。
扉を叩くこともない。
中の様子を探ろうとすることもない。
「返事をしてください」と言ったことも、一度もなかった。
それは、ポーラ・スターにとって、これまで出会ったどんな大人とも違う存在だった。
◇
ポーラは、ベッドの端に腰掛け、毛布を膝にかけたまま、静かに耳を澄ませていた。
廊下の足音。
――来た。
その瞬間、胸が強く締めつけられることは、もうない。
心臓が暴れ出すこともない。
ただ、少しだけ、身体が強張る。
それだけだ。
「こんにちは、ポーラ嬢」
扉越しに届く声は、今日も変わらない。
「今日は、特に変わったことはありません」
それは、情報というよりも、宣言だった。
“あなたに何かを求めていない”という宣言。
「……こうして毎日お邪魔していますが、
私自身は、あまり話すのが得意な方ではありません」
その言葉に、ポーラの指先が、ほんのわずかに動いた。
――話すのが、得意じゃない。
医師であり、大人であり、
堂々とした立場にある人が、そんなことを言う。
「ですから、沈黙は苦ではないんです」
「静かな時間も、嫌いではありません」
フォージャーは、まるで独り言のように続ける。
「むしろ、
無理に言葉を重ねる方が、
人を疲れさせることもあります」
その言葉は、
ポーラの胸の奥に、静かに落ちてきた。
◇
――話さなくていい。
その前提があるだけで、
こんなにも世界が違って見える。
これまで、誰かが来るたびに、
ポーラは「何を言えばいいか」を考え続けてきた。
挨拶をしなければ。
返事をしなければ。
期待に応えなければ。
そのすべてが、恐怖だった。
言葉を選ぶ時間。
声を出す勇気。
相手の反応を想像する苦しさ。
それらを、彼は最初から、要求しない。
「……今日は、庭の木に小さな鳥が来ていました」
「名前は分かりませんが、
とても静かで、
こちらが動かなければ、逃げもしませんでした」
ポーラは、目を閉じる。
鳥の姿を、想像する。
静かに枝に止まり、
誰かが近づいても、
無理に追い払われない場所。
――少し、似ている。
そう思った瞬間、
胸の奥に、かすかな温度が生まれた。
◇
フォージャーは、今日も十分ほど話すと、静かに締めくくった。
「……では、今日はこの辺で」
「また、明日」
足音が遠ざかる。
ポーラは、すぐには動かなかった。
しばらく、その余韻の中に身を置く。
そして、ふと気づく。
――今日は、息が苦しくなっていない。
誰かの声を聞いたのに。
誰かが近くにいたのに。
恐怖で身体が固まることも、
頭が真っ白になることもなかった。
「……」
喉が、わずかに動く。
声は出ない。
出そうともしていない。
だが、
「出してはいけない」という感覚が、
少しだけ薄れていた。
◇
その日の夜、ポーラは机に向かった。
白紙の紙。
ペン。
これまで、扉に貼るメモは、
災害の予告か、最低限の意思表示だけだった。
だが今日は、違う。
書きたいことがある。
誰かに読ませるためではない。
ただ、形にしたかった。
ペン先が、紙に触れる。
震えはある。
だが、止まらない。
――「話さなくていい人」
その言葉を書きかけて、ポーラは手を止めた。
これは、誰に向けた言葉なのか。
扉の向こうの医師か。
それとも、自分自身か。
しばらく考え、
彼女は、その紙を折りたたんだ。
扉には貼らない。
今は、まだ。
でも、確かに分かっている。
ロードリック・フォージャーは、
ポーラ・スターにとって初めての――
話さなくていい人。
それは、
「治してくれる人」でも、
「救ってくれる人」でもない。
ただ、
沈黙を許してくれる人。
その存在が、
どれほど大きな意味を持つのかを、
ポーラ自身が理解するのは、
もう少し先のことになる。
だがこの日、
彼女の心の奥で、
確かに一つの扉が――
ほんのわずか、軋む音を立てて動き始めていた。
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