婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第3話 国境の向こう側で、氷は静かに目を覚ました

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第3話 国境の向こう側で、氷は静かに目を覚ました

 王国と隣国を隔てる国境線は、冷たい風が吹き抜ける高原にあった。
 エルフレイド・ヴァルシュタインは、揺れる馬車の中で静かに帳簿を閉じる。

 ――やはり、数値が合わない。

 それはすでに“過去の仕事”であるはずだったが、彼女の思考は習慣的に計算を続けてしまう。魔導障壁の負荷、予算削減後の耐用年数、魔石価格の変動率。どれも、王国に残したままの問題だ。

「……いけないわね」

 小さく呟き、首を振る。
 もう、関係のない国だ。

 馬車が停止した。

「ヴァルシュタイン嬢。国境検問所に到着しました」

 御者の声に応じ、エルフレイドは外へ降りる。
 王国側の検問所とは比べ物にならないほど、簡素で実務的な造りだ。無駄な装飾はなく、兵士たちの動きも機敏だった。

「身分証を」

 淡々とした声。
 エルフレイドは、公爵家の紋章が刻まれた証明書を差し出す。

 検問官は一瞥し――次の瞬間、明らかに目の色を変えた。

「……失礼しました」

 背筋を伸ばし、姿勢を正す。

「ヴァルシュタイン嬢ですね。お待ちしておりました」

「……?」

 エルフレイドは、わずかに眉を動かした。

「通行手続きは不要です。こちらへ」

 そう言って案内されたのは、検問所の奥にある応接室だった。
 温かい茶が用意され、兵士たちは一歩距離を取る。

「少々、お待ちください」

 検問官はそう告げると、すぐに退出した。

 ――待たされる理由が分からない。

 亡命者としてならともかく、追放された元婚約者に、ここまでの待遇をする理由はないはずだ。

 数分後、扉が静かに開いた。

「エルフレイド・ヴァルシュタイン」

 低く、よく通る声。

 現れた男は、噂に違わぬ存在感を放っていた。
 銀に近い白髪、氷のような青眼。無駄のない軍服に身を包み、その立ち姿には一切の迷いがない。

 ――ゼノス・フォン・バルドール。

 隣国を統べる皇帝。
 冷酷、合理主義、感情を持たない氷の支配者――そう評される男。

「お初にお目にかかります」

 エルフレイドは、自然な所作で一礼した。

「エルフレイド・ヴァルシュタインと申します」

「知っている」

 ゼノスは即答した。

「君が、あの王国の魔導予算と運用を七年間、単独で回していた人物だ」

 一瞬、室内の空気が張り詰める。

「……どこまで、ご存じで?」

「概ねすべてだ」

 ゼノスは、椅子に腰を下ろすよう促す。

「君の提出した王国向け魔導障壁改善案。
 魔導炉の効率化計算式。
 そして、却下された理由も」

 エルフレイドは、内心で息を呑んだ。

 ――なぜ、それを。

「無駄がない。理論が美しい」

 ゼノスは続ける。

「感情に流されず、数字だけで最適解を導く。
 ……私は、そういう人間を高く評価する」

 それは、これまで一度も向けられたことのない言葉だった。

 エルフレイドは慎重に口を開く。

「それで……私を呼び止めた理由は?」

「単刀直入に言おう」

 ゼノスは、視線を逸らさずに告げる。

「我が国の魔導予算を、見てほしい」

 エルフレイドは、言葉を失った。

「現在、我が国の魔導関連支出は無駄が多い。
 理論上は成立しているが、運用が破綻している」

「……それを、私に?」

「そうだ」

 ゼノスは、少しだけ口元を緩めた。

「君は今、無職だろう」

 ――合理的すぎる誘いだった。

「試用期間は?」

「不要」

「権限は?」

「必要なだけ与える」

「責任は?」

「私が取る」

 あまりにも、話が早い。

 だが同時に――これほど明確な評価を、エルフレイドは初めて受けていた。

「……一つだけ、条件があります」

「聞こう」

「私の個人研究と設計思想に、口出しはしないこと」

 ゼノスは、即座に頷いた。

「当然だ。
 理解できないものに、干渉する趣味はない」

 その返答に、エルフレイドはわずかに笑った。

「では、お引き受けします」

 ゼノスの視線が、ほんの一瞬、熱を帯びる。

「よろしい」

 彼は立ち上がり、扉の方を見た。

「君の執務室は、私の執務室の隣だ」

「……それは、少し近すぎませんか?」

「効率がいい」

 間髪入れない答えだった。

 こうして。

 王国では「無能」と切り捨てられた女は、
 隣国で「必要不可欠な存在」として迎え入れられた。

 そして、氷の皇帝はまだ気づいていない。

 この出会いが、
 合理性を超えた執着へと変わる未来を。
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