婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第15話 最終条件は、すでに慈悲だった

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第15話 最終条件は、すでに慈悲だった

 王都の夜は、騒がしかった。
 怒号と不安と、眠れぬ人々の気配が、城壁の内側に澱のように溜まっている。

 王宮内、臨時に設けられた評議室。
 アラルガン王太子は、机の中央に置かれた一通の文書を前に、動けずにいた。

 ――隣国からの返書。

 否、正確には返答ではない。

 それは、「交渉の結果」でも「提案」でもなかった。
 通告だった。

 王太子は、喉を鳴らし、ようやく文面を読み上げる。

「……『本条件は、これ以上の修正・交渉を認めない』……」

 声が、わずかに震える。

「『受諾期限は、本日正午まで』……?」

 誰かが息を呑む音がした。

「……半日も、ない……?」

 財務卿が、ゆっくりと首を振る。

「殿下。
 これは、十分な猶予です」

「どこがだ!」

 王太子は、思わず声を荒げた。

「国の存亡が懸かっている決断だぞ!」

「だからです」

 軍務卿が、低く言った。

「これ以上、迷う時間はないと、
 相手は理解している」

 王太子は、歯を食いしばり、文書の続きを読む。

「……『第一条。魔導障壁の応急安定化は、隣国技術顧問エルフレイド・ヴァルシュタインの直接管理下で行う』」

 指が、紙を強く掴む。

「……『第二条。旧王国は、当該期間中、魔導障壁および関連設備に関する一切の決定権を放棄する』……」

 それは、主権の一部放棄に等しかった。

「……『第三条。過去未払い分を含む技術使用料を、指定額にて一括精算する』……」

 財務卿は、目を伏せる。

「金額は……支払えます。
 国庫は、空になりますが」

「空に、なる……?」

 王太子は、笑うような声を出した。

「国庫が空で、国が保つか!」

「結界が崩れれば、
 国庫以前に、国が消えます」

 ローディアスの言葉は、淡々としていた。

「……最後に」

 王太子は、文書の末尾を読む。

「『第四条。本件に関する責任の所在は、旧王国側の判断に帰属する』……?」

 その意味を理解した瞬間、王太子の顔色が変わった。

「……つまり」

 彼は、かすれた声で言う。

「助けはするが、
 その結果について、彼女は一切の責任を負わない……?」

「はい」

 即答だった。

「魔導障壁が安定しようと、
 しなかろうと」

 沈黙が落ちる。

 これは、冷酷な条件だ。
 だが――

「……慈悲だな」

 不意に、軍務卿が呟いた。

 全員が、彼を見る。

「本来なら、
 “何もしない”という選択も、
 彼女には可能だった」

 その言葉が、胸に突き刺さる。

 王太子は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「……なぜだ」

 低い声。

「なぜ、ここまで……」

 誰も、答えなかった。

 だが、答えは明白だ。

 彼女は、感情で動いていない。

 助ける理由も、助けない理由も、
 すべて――合理性だ。

「殿下」

 財務卿が、静かに言った。

「この条件を拒否すれば、
 我々は、民に説明できません」

「……民、か」

 王太子の脳裏に、王宮前の光景が浮かぶ。
 怒り、叫び、泣き声。

「……署名すれば」

 彼は、震える手でペンを見つめる。

「私は、
 あの女に――」

 言葉が、続かない。

 ――頭を、下げる。

 沈黙の中、時計の針の音だけが響く。

 正午まで、あと一刻。

「……」

 王太子は、ゆっくりとペンを取った。

 誇りは、もう残っていない。
 あるのは、責任だけだ。

 震える手で、署名欄に名を書き入れる。

 その瞬間。

 何かが、終わった。

 同時刻。
 隣国皇城。

 エルフレイドは、使者から文書を受け取り、静かに目を通した。

「……署名、確認しました」

 ゼノスは、彼女の表情を窺う。

「感想は?」

「ありません」

 彼女は、淡々と紙を畳む。

「条件を受け入れただけです」

「それでも、助ける」

「はい」

 迷いはなかった。

「民がいる限り、
 結界は、必要ですから」

 ゼノスは、短く笑った。

「君は、最後まで優しいな」

「いいえ」

 エルフレイドは、首を振る。

「私は、
 仕事をしているだけです」

 窓の外、遠く旧王国の方角に、かすかな光が揺れた。

 応急安定化――開始。

 それは、救済であり、同時に――
 完全な立場逆転の証明でもあった。

 王太子は、生き残った。
 国も、ひとまずは。

 だが、代償として、
 彼は永遠に理解することになる。

 あの日、自分が「無能」と切り捨てた女が、
 どれほどの価値を持っていたのかを。

 それを知るのは、
 すべてを失った――その後だ。
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