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第一話 白い誓約
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第一話 白い誓約
結婚式の日、私は自分がどのような表情をしていたのか、いまでも正確には思い出せない。
王都最大の大聖堂。高い天井を満たす聖歌。色硝子から差し込む光が、私とレオナルト様の肩を等しく照らしていた。人々はそれを祝福の光だと囁いたけれど、私にはただ、冷静な観察の対象でしかなかった。
これは恋ではない。政略だ。
アウラリア公爵家とヴァルケン公爵家の同盟。港湾徴税権と鉄鉱山採掘権を結ぶための契約。その中心に、私という駒が置かれただけのこと。
祭壇の前で誓いの言葉を述べるとき、レオナルト様の声はよく通った。自信に満ち、迷いがない。社交界で「若き獅子」と呼ばれるだけはある。野心と才気に満ちた横顔は美しく、誰もが羨む花婿だった。
ただし、その視線が私に向けられた時間は、ほんの一瞬だったけれど。
式は滞りなく終わり、祝宴が始まる。貴族たちの笑顔は完璧で、祝辞は過不足なく整えられていた。私は淑女らしく微笑み、杯を掲げ、祝福を受ける。
そして夜。
誰もが当然のように期待する「初夜」の時間が訪れた。
広い寝室。重厚な天蓋付きの寝台。香が焚かれ、侍女たちは下がる。
扉が閉まった。
沈黙。
レオナルト様は外套を脱ぎながら、淡々と告げた。
「今日は疲れた。式典は想像以上に長い」
私は頷いた。
「承知いたしました」
それだけで会話は終わった。
彼は寝台の片側に横たわり、背を向けた。私も反対側に横になる。広すぎる寝台の中央には、触れられない空間が残されたまま。
それが、私たちの結婚の始まりだった。
翌朝、侍女のマルタが私の身支度を整えながら、遠慮がちに問いかけた。
「……奥様、ご体調は」
「良好よ」
それ以上の説明は不要だった。
彼女は聡明だ。理解している。
その日から、私は記録をつけさせることにした。
夜、旦那様がどこにいるか。誰と会っているか。帰宅時刻は何時か。私の部屋に滞在した時間は何分か。
淡々と。感情を交えず。
一週間が過ぎ、一か月が過ぎる。
寝室の中央の空白は、埋まらない。
社交界では、すでに噂が立っていた。
レオナルト様の傍らに、ある伯爵令嬢が寄り添っている、と。
私はその話を聞いても動じなかった。
怒りも悲しみも湧かない。湧かせない。
なぜなら、私は最初から理解していたからだ。
この結婚は契約。
そして契約には条件がある。
三か月目の夜、私は初めて自ら口を開いた。
「旦那様」
「何だ」
「お忙しいご様子ですが、今後の方針についてお話ししてもよろしいでしょうか」
彼は不機嫌そうに眉を寄せる。
「方針?」
「はい。公爵家同士の同盟として、後継の問題は重要です」
沈黙。
彼は視線を逸らした。
「時期を見て考える」
「承知いたしました」
それ以上は言わない。
その返答で、十分だった。
私は確信した。
この婚姻は、完成しない。
夜ごと、侍女は記録を重ねる。医師には健康診断を依頼し、私の身体が「手つかず」であることを公式に確認させる。診断書は封印し、私の書庫の奥へ保管。
誰にも悟られないように。
静かに。
半年後、レオナルト様はほとんど寝室に現れなくなった。
一年後、社交界では「仲睦まじい仮面夫婦」と囁かれる。
二年後、彼の愛人は事実上の公然の存在となる。
三年後。
ある夜会の帰り、馬車の中で彼は唐突に告げた。
「エルミナ。そろそろ整理を考えるべきだ」
「整理、とは」
「互いのためにならない関係を続ける意味はない」
私は月明かりに照らされた窓の外を見つめながら、穏やかに答えた。
「離婚でございますか」
「ああ」
声は迷いなく、冷たい。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
歓喜ではない。
勝利の確信でもない。
ただ、計算式が完成した音。
「承知いたしました」
彼が怪訝な顔をする。
「……随分あっさりだな」
「契約が双方に利益をもたらさないのであれば、見直すのは合理的です」
私はそこで初めて、彼を正面から見た。
「ただし、一点だけ条件がございます」
「条件?」
「離婚ではなく、教会の裁定を」
馬車の車輪が石畳を踏みしめる音が、やけに大きく響いた。
彼の表情がわずかに変わる。
「なぜそこまで大事にする」
「婚姻は神の前で結ばれたものです。であれば、神の前で解かれるべきかと」
それは正論。
否定できない理屈。
だが彼は気づいていない。
この三年間、一度も触れられていないという事実が、どれほど重い意味を持つかを。
大聖堂で交わした誓いは存在する。
しかし、完成していない。
私は泣かない。責めない。叫ばない。
ただ、静かに積み上げただけだ。
記録を。
証明を。
時間を。
馬車が屋敷に到着する。
扉が開き、彼は先に降りた。
「後日、正式に話を進める」
「はい」
私は裾を持ち上げ、ゆっくりと地面に足を下ろす。
夜風が冷たい。
だが、不思議と寒くはなかった。
三年間、触れられなかった花は、まだ無傷だ。
白い誓約は、まだ白いまま。
私は胸の奥で静かに呟く。
――神よ、この契約を、正しい形にお戻しくださいませ。
鐘の音が、遠くで鳴った気がした。
結婚式の日、私は自分がどのような表情をしていたのか、いまでも正確には思い出せない。
王都最大の大聖堂。高い天井を満たす聖歌。色硝子から差し込む光が、私とレオナルト様の肩を等しく照らしていた。人々はそれを祝福の光だと囁いたけれど、私にはただ、冷静な観察の対象でしかなかった。
これは恋ではない。政略だ。
アウラリア公爵家とヴァルケン公爵家の同盟。港湾徴税権と鉄鉱山採掘権を結ぶための契約。その中心に、私という駒が置かれただけのこと。
祭壇の前で誓いの言葉を述べるとき、レオナルト様の声はよく通った。自信に満ち、迷いがない。社交界で「若き獅子」と呼ばれるだけはある。野心と才気に満ちた横顔は美しく、誰もが羨む花婿だった。
ただし、その視線が私に向けられた時間は、ほんの一瞬だったけれど。
式は滞りなく終わり、祝宴が始まる。貴族たちの笑顔は完璧で、祝辞は過不足なく整えられていた。私は淑女らしく微笑み、杯を掲げ、祝福を受ける。
そして夜。
誰もが当然のように期待する「初夜」の時間が訪れた。
広い寝室。重厚な天蓋付きの寝台。香が焚かれ、侍女たちは下がる。
扉が閉まった。
沈黙。
レオナルト様は外套を脱ぎながら、淡々と告げた。
「今日は疲れた。式典は想像以上に長い」
私は頷いた。
「承知いたしました」
それだけで会話は終わった。
彼は寝台の片側に横たわり、背を向けた。私も反対側に横になる。広すぎる寝台の中央には、触れられない空間が残されたまま。
それが、私たちの結婚の始まりだった。
翌朝、侍女のマルタが私の身支度を整えながら、遠慮がちに問いかけた。
「……奥様、ご体調は」
「良好よ」
それ以上の説明は不要だった。
彼女は聡明だ。理解している。
その日から、私は記録をつけさせることにした。
夜、旦那様がどこにいるか。誰と会っているか。帰宅時刻は何時か。私の部屋に滞在した時間は何分か。
淡々と。感情を交えず。
一週間が過ぎ、一か月が過ぎる。
寝室の中央の空白は、埋まらない。
社交界では、すでに噂が立っていた。
レオナルト様の傍らに、ある伯爵令嬢が寄り添っている、と。
私はその話を聞いても動じなかった。
怒りも悲しみも湧かない。湧かせない。
なぜなら、私は最初から理解していたからだ。
この結婚は契約。
そして契約には条件がある。
三か月目の夜、私は初めて自ら口を開いた。
「旦那様」
「何だ」
「お忙しいご様子ですが、今後の方針についてお話ししてもよろしいでしょうか」
彼は不機嫌そうに眉を寄せる。
「方針?」
「はい。公爵家同士の同盟として、後継の問題は重要です」
沈黙。
彼は視線を逸らした。
「時期を見て考える」
「承知いたしました」
それ以上は言わない。
その返答で、十分だった。
私は確信した。
この婚姻は、完成しない。
夜ごと、侍女は記録を重ねる。医師には健康診断を依頼し、私の身体が「手つかず」であることを公式に確認させる。診断書は封印し、私の書庫の奥へ保管。
誰にも悟られないように。
静かに。
半年後、レオナルト様はほとんど寝室に現れなくなった。
一年後、社交界では「仲睦まじい仮面夫婦」と囁かれる。
二年後、彼の愛人は事実上の公然の存在となる。
三年後。
ある夜会の帰り、馬車の中で彼は唐突に告げた。
「エルミナ。そろそろ整理を考えるべきだ」
「整理、とは」
「互いのためにならない関係を続ける意味はない」
私は月明かりに照らされた窓の外を見つめながら、穏やかに答えた。
「離婚でございますか」
「ああ」
声は迷いなく、冷たい。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
歓喜ではない。
勝利の確信でもない。
ただ、計算式が完成した音。
「承知いたしました」
彼が怪訝な顔をする。
「……随分あっさりだな」
「契約が双方に利益をもたらさないのであれば、見直すのは合理的です」
私はそこで初めて、彼を正面から見た。
「ただし、一点だけ条件がございます」
「条件?」
「離婚ではなく、教会の裁定を」
馬車の車輪が石畳を踏みしめる音が、やけに大きく響いた。
彼の表情がわずかに変わる。
「なぜそこまで大事にする」
「婚姻は神の前で結ばれたものです。であれば、神の前で解かれるべきかと」
それは正論。
否定できない理屈。
だが彼は気づいていない。
この三年間、一度も触れられていないという事実が、どれほど重い意味を持つかを。
大聖堂で交わした誓いは存在する。
しかし、完成していない。
私は泣かない。責めない。叫ばない。
ただ、静かに積み上げただけだ。
記録を。
証明を。
時間を。
馬車が屋敷に到着する。
扉が開き、彼は先に降りた。
「後日、正式に話を進める」
「はい」
私は裾を持ち上げ、ゆっくりと地面に足を下ろす。
夜風が冷たい。
だが、不思議と寒くはなかった。
三年間、触れられなかった花は、まだ無傷だ。
白い誓約は、まだ白いまま。
私は胸の奥で静かに呟く。
――神よ、この契約を、正しい形にお戻しくださいませ。
鐘の音が、遠くで鳴った気がした。
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