白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾

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第二話 証明の積み上げ

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第二話 証明の積み上げ

 離婚の話が出た夜から、屋敷の空気は目に見えない緊張を帯びた。

 使用人たちは何も知らないふりをしているが、廊下の足音がいつもより静かだ。視線が、わずかに長い。貴族の屋敷というものは、秘密が増えるほど静かになる。

 私は自室の机に向かい、三年間分の記録を広げていた。

 分厚い帳面が五冊。

 日付、時刻、滞在場所、同席者。
 旦那様が私の寝室にいた時間は、すべて分単位で記されている。

 三年間で、合計滞在時間は——二時間三十二分。

 そのうち一時間は、侍医の診察立ち会い。

 残りは、形式的な訪問。

 十分だ。

「奥様」

 侍女のマルタが静かに入室する。

「旦那様が、明後日に正式な話し合いを設けると」

「承知しました」

 私は顔を上げない。

「父上には?」

「すでに使いを出しております。明日にはご返答が」

 父、公爵閣下はこの婚姻の立案者だ。
 だが、私は知っている。

 父は家門の利益を最優先する。

 そしてこの婚姻は——

 完成していない。

 つまり、持参金は「預託状態」にある。

 アウラリア家が差し出したのは、鉄鉱山の三年分採掘権と、港湾通行税の半分。名目上はヴァルケン家管理だが、婚姻が無効となれば話は別。

 私は帳面を閉じる。

「マルタ、侍医を」

「今夜でございますか」

「ええ」

 深夜、屋敷の奥にある医務室。

 侍医ヴァルドは年配で、口が堅い。すでに三年前から定期診察を依頼している。

「奥様、今夜も記録を残しますか」

「はい。形式通りに」

 診察は淡々と終わる。

 そして彼は、羊皮紙に記す。

 ——身体に婚姻の完成を示す痕跡なし。

 三枚目の診断書。

 私はそれを受け取り、封蝋を押させる。

「これは厳重に保管を」

「もちろんでございます」

 不能かどうかを問うのではない。

 私はただ、事実を積み上げる。

 証明できる事実のみを。

 翌日、父から書簡が届いた。

 封を切ると、短い文章。

 ——未完成であるならば、教会裁定が最善。家門は全面支援する。

 私は静かに息を吐く。

 味方は確保した。

 あとは手順だけだ。

 三日後、応接室。

 レオナルト様は窓際に立ち、腕を組んでいた。

「エルミナ。率直に言う。私は別の未来を選ぶ」

「存じております」

「ならば円満に終わらせたい」

「円満、とは」

「離婚だ。慰謝料も用意する」

 私は首を傾げる。

「離婚では、持参金の扱いが曖昧になりますわ」

 彼の眉が動く。

「曖昧?」

「婚姻が有効である前提なら、返還は減額対象になる可能性がございます」

「……つまり」

「教会裁定にいたしましょう。婚姻が未完成であれば、神の前で無効となります」

 沈黙。

 空気が一段冷える。

「お前は……それを主張するつもりか」

「事実のみを」

 彼の視線が鋭くなる。

「それでは、私の名誉が」

「名誉とは、事実の上に築かれるものです」

 私は淡々と続ける。

「三年間、私は妻としての義務を拒んだことは一度もございません」

「……」

「ですが、完成はしておりません」

 彼は言葉を失う。

 私は立ち上がり、一礼する。

「離婚ではなく、婚姻無効。これが最も合理的かと存じます」

 その夜、彼は愛人の屋敷へ向かった。

 マルタが記録をつける。

 時刻、出発、帰宅なし。

 私は書斎で、教会裁判所宛の書簡を整えた。

 申請理由——

 婚姻未完成。

 証拠添付——

 三年間の滞在記録、侍医診断書三通、侍女証言書。

 すべて事実。

 誇張なし。

 虚偽なし。

 封蝋を押す瞬間、私は思う。

 怒りはない。

 悲しみもない。

 これは報復ではなく、清算。

 翌朝、教会の使いが到着した。

「公爵夫人エルミナ様。申請を受理いたします」

 屋敷の使用人たちの視線が揺れる。

 噂は一瞬で広がるだろう。

 だが構わない。

 真実は単純だ。

 三年間、触れられていない。

 それだけ。

 廊下の向こうで、レオナルト様の足音が止まる。

 彼は理解したはずだ。

 これは感情の衝突ではない。

 制度の発動だと。

 私は窓辺に立ち、遠くの大聖堂を見つめる。

 鐘が鳴る。

 神の前で交わした誓いは、神の前で解かれる。

 白いままの誓約は、やがて白紙へ戻る。

 そして私は、その白紙の上に新しい未来を書く。
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