白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾

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第五話 神に身を預ける日

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第五話 神に身を預ける日

 婚姻無効の裁定が公示された翌日、王都の空気は妙に澄んでいた。

 まるで嵐の後の静寂。

 だがそれは、私の内側とは正反対だった。胸の奥には、長く張りつめていた糸がようやく緩んだあとの、静かな疲労が残っている。

 私は公爵家の自室で、書簡の束を前にしていた。

 祝いでも慰めでもない。

 問い合わせだ。

 「再婚の可能性は」
 「今後のご予定は」
 「社交界復帰はいつ頃か」

 どれも礼儀正しい文面だが、行間に透けて見えるのは計算だ。

 未完成婚。
 純潔の証明。
 持参金の全額回収。

 市場価値は、むしろ上がっている。

 私は一通ずつ目を通し、すべて脇に避けた。

「ご返答はいかがなさいますか」

 マルタが静かに問う。

「必要ありません」

「……では、やはり」

「ええ」

 私は立ち上がる。

「修道院へ参ります」

 その言葉に、マルタの瞳が揺れた。だが驚きではない。彼女はすでに察していた。

 ◇

 聖マリアンヌ修道院は、王都の外れにある。白い石造りの建物は質素だが、威厳がある。

 門をくぐると、空気が変わる。

 男の視線がない。

 競争も、噂も、計算も、ここでは別の形を取る。

 迎えに出たのは院長——アデライード修道院長。

 銀髪をきちんとまとめた、静かな威圧感を持つ女性だ。

「エルミナ様。裁定の件、拝見いたしました」

「お世話になります」

「……本当に、よろしいのですか」

 その問いは、確認だ。

 逃げではないか。傷心ではないか。

 私は首を横に振る。

「選択です」

 院長はわずかに微笑む。

「持参金は」

「全額、寄進いたします」

 沈黙が流れる。

 それがどれほどの額か、院長は理解している。

 鉄鉱山の三年分採掘権。

 港湾通行税の半分。

 国家予算に匹敵する規模。

「……神の御心に適う決断でしょう」

「いえ」

 私は静かに訂正する。

「これは、私の意思です」

 ◇

 入会式は簡素だった。

 豪奢な衣装は脱ぎ、白と灰色の修道服に袖を通す。装飾はなく、宝石もない。

 だが、不思議と軽い。

 三年間、触れられなかった身体。

 今度は誰にも触れられないと誓う。

 それは孤独ではない。

 自由だ。

 祈りの時間。

 鐘の音。

 石床に膝をつく。

 神への誓いは、あの結婚式よりも静かで、確かだった。

 ◇

 数日後、王都の社交界では新たな噂が立った。

 ——エルミナは聖女になった。
 ——未完成のまま神に身を捧げた。
 ——持参金をすべて寄進したらしい。

 元夫レオナルトの屋敷では、帳簿の数字が赤く染まり始めていた。

 返還命令。

 運用益清算。

 流動資金の不足。

 彼は私に手紙を書こうとしたらしい。

 だが、修道院は外界との直接的な私信を制限している。

 門前払いだ。

 ◇

 修道院の生活は規律に満ちている。

 祈り、労働、読書。

 私は図書室に通い、教会法と会計帳簿を読み込んだ。

 寄進金は膨大だ。

 院長が言う。

「エルミナ様。これほどの資金、眠らせるのは惜しい」

「活かしましょう」

「どうやって」

 私は帳簿を閉じる。

「修道院は免税特権を持っています」

「ええ」

「ならば、医療と薬草事業を拡充いたしましょう。港湾を経由すれば輸出も可能です」

 院長の瞳が光る。

「……お若いのに、恐ろしいほど冷静ですね」

「三年間、考える時間がございましたので」

 ◇

 夜、独房で静かに目を閉じる。

 豪奢な寝台はない。

 だが空白もない。

 あの寝室の中央にあった、触れられない距離。

 それはもう存在しない。

 私は誰の妻でもない。

 だが、何者でもないわけでもない。

 私は、自分の選択の結果の上に立っている。

 遠くで鐘が鳴る。

 祈りの合図。

 その音は、三年前の結婚式よりも、はるかに清らかに聞こえた。

 白い誓約は、神に返された。

 そして私は、白のまま、新しい権力の中へ歩き出す。
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