白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾

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第十話 頭を下げる男

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第十話 頭を下げる男

 修道院の門番が、私のもとへ静かに知らせを持ってきたのは、午後の祈祷が終わった直後だった。

「ヴァルケン公爵が、面会を求めております」

 私は一瞬だけ、指先を止めた。

 予想していなかったわけではない。
 書簡の文面からして、時間の問題だった。

「正式な申請書は」

「提出済みでございます。財務相談として」

 規則は守られている。

 私は頷いた。

「応接室へ」

 ◇

 石造りの応接室は、外界の豪奢とは無縁だ。木の長机と簡素な椅子、壁にかけられた十字架。

 そこに座るレオナルトは、かつてよりも痩せて見えた。

 公爵としての威厳はまだ残っている。だが、疲労が隠せていない。

「……久しいな」

 彼の声は低い。

「神の平和が貴方に」

 私は形式通りに応じる。

 彼は苦笑した。

「相変わらずだ」

「本日は財務のご相談と伺っております」

 私は椅子に腰を下ろす。

 私情は挟まない。

 彼は一瞬、視線を落とした。

「資金が足りぬ」

「承知しております」

 彼は驚いた顔をする。

「承知している、だと」

「市場の動向は把握しております」

 南方領の売却。
 追加の借入失敗。
 信用格付けの低下。

 修道院は、王都の帳簿を読んでいる。

「融資を頼みたい」

 率直だった。

「担保は」

 彼は言葉を詰まらせる。

「北方の森林権」

「評価額は低い」

「……」

 私は静かに帳面を開く。

「返済計画は」

「五年で」

「収益予測は」

 沈黙。

 彼はようやく理解する。

 ここでは肩書きは効かない。

 契約のみ。

 彼は深く息を吐いた。

「条件を言え」

 私は顔を上げる。

「森林権の半分を修道院名義へ移管」

「半分だと?」

「担保ではなく、共同管理」

「それでは私の権限が」

「信用は共有で回復できます」

 私は淡々と続ける。

「修道院が関与すれば、銀行は再評価します」

 それは事実だ。

 教会の後ろ盾は強い。

 彼はしばらく黙り込んだ。

「……お前は」

 声がわずかに揺れる。

「恨んでいないのか」

 その問いに、私は少しだけ目を細めた。

「恨む理由はございません」

「婚姻無効で、私は失った」

「私は得ました」

 事実を述べただけ。

「三年間、触れなかったのは貴方です」

 空気が凍る。

 だが責める響きはない。

 ただの確認。

「完成しなかった契約は、無効になる」

 彼は拳を握る。

 怒りではない。

 悔恨でもない。

 ただ、選択の結果を受け止める重さ。

「……条件を受ける」

 静かな決断。

 私は書面を差し出す。

「修道院は利息を取りません。その代わり、収益の一部を医療基金へ」

 彼は署名する。

 かつて、祭壇で誓いに署名した手で。

 今度は契約書。

 ◇

 面会が終わり、彼は立ち上がる。

「一つだけ」

「何でしょう」

「もし……あの時、完成していたら」

 私は答えない。

 代わりに言う。

「それは存在しない未来です」

 彼は小さく笑う。

「そうだな」

 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。

 私は窓辺へ歩み寄る。

 かつての獅子は、頭を下げた。

 だが完全に倒れたわけではない。

 共同管理の森林は、新たな収益源になるだろう。

 修道院もまた強くなる。

 祈りと契約。

 白い誓約は終わった。

 だが新たな契約は始まる。

 鐘が鳴る。

 私は静かに目を閉じる。

 神の前で交わした誓いは、未完成のまま消えた。

 だが人の前で交わす契約は、完成している。

 今度は、私が主導する番だ。
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