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第3話 亡き母の部屋
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第3話 亡き母の部屋
ヴァルモン公爵邸の奥には、ほとんど人の立ち入らない一角がある。
主屋から少し離れた廊下の先。
厚い扉に守られた、静かな部屋。
先代公爵夫人――アデルエル・ド・ヴァルモンの私室だった。
夫人が亡くなってから、その部屋はほとんど手を付けられていない。
家具も、カーテンも、壁の絵も、すべて生前のまま残されている。
そして今、その扉の前に立っているのは、ただ一人の娘だった。
オルタンス・ド・ヴァルモン。
彼女はしばらく扉を見つめていたが、やがて静かに鍵を回した。
重い音を立てて扉が開く。
中には、わずかに古い香りが残っていた。
香水と、書物と、木製家具の匂い。
懐かしい空気だった。
クロエが後ろで小さく息を呑む。
「……久しぶりですね」
「ええ」
オルタンスはゆっくりと部屋の中へ入った。
窓辺には白い椅子があり、その横には小さな丸机。
その机には、今も一冊の本が置かれている。
まるで、誰かがまた戻ってきて続きを読むかのように。
オルタンスは本に触れない。
ただ、その横を通り過ぎて奥へ進む。
部屋の奥には、大きな衣装棚があった。
公爵夫人が舞踏会や公式儀式で着ていた衣装が保管されている場所だ。
クロエは少し緊張した声で言った。
「舞踏会の準備でいらしたのですか?」
王宮の舞踏会は、もう一月もない。
公爵家の令嬢が出席するなら、当然ここにある衣装が必要になる。
だが、オルタンスは首を横に振った。
「いいえ」
「今日は確認だけです」
彼女は衣装棚の扉を開いた。
中には幾つものドレスが並んでいる。
絹。
金糸。
繊細な刺繍。
どれも王都でも滅多に見られないほどの品だ。
しかし、オルタンスの視線はそれらには向かわない。
さらに奥。
衣装棚の下段にある、小さな箱へ向けられていた。
黒檀で作られた、重厚な箱。
その表面には、ヴァルモン公爵家の紋章が彫り込まれている。
クロエが思わず声を潜めた。
「それは……」
オルタンスは箱を取り出した。
「ええ」
静かな声だった。
「母の衣装箱です」
その箱は普通の衣装箱ではない。
ヴァルモン公爵家では、代々この箱に一着だけ特別な衣装が保管されている。
それは公爵夫人の礼装でも、単なる舞踏会用ドレスでもない。
公爵家直系女子の証。
王宮の大儀式と舞踏会でのみ着用を許される、特別な衣装だった。
オルタンスはゆっくりと蓋を開けた。
中には一着のドレスが収められている。
深い白銀色の絹。
光を受けると、まるで水面のように柔らかく輝く。
袖口には細かな金糸の刺繍。
胸元には小さな紋章が織り込まれていた。
クロエは息を呑んだ。
「……美しい」
それは言葉を失うほどの衣装だった。
王都のどの仕立て屋でも作れない。
このドレスは特別な織物で作られている。
公爵家が代々契約している製糸工房の、最高級の絹。
そして、その意匠には意味がある。
オルタンスは指先で布をなぞった。
「この刺繍を見なさい」
クロエは身を乗り出した。
「紋章……でしょうか」
「ええ」
オルタンスは静かに説明する。
「けれど、ただの紋章ではありません」
彼女は胸元の金糸を指した。
「この配置、この色、この糸の組み方――」
「すべて登録されています」
クロエは戸惑った。
「登録……?」
オルタンスは頷く。
「王宮紋章院に」
その言葉に、クロエの表情が固まった。
つまり、この衣装は単なる家の財産ではない。
国家の記録に登録された意匠なのだ。
オルタンスは続ける。
「この衣装は、公爵家直系女子だけに許されています」
「他の者が着れば」
彼女は一度言葉を止めた。
クロエが恐る恐る聞く。
「……どうなるのですか」
オルタンスは穏やかな声で答えた。
「爵位の僭称になります」
クロエは思わず息を止めた。
それは軽い罪ではない。
公的身分を偽る行為。
しかも公爵家ともなれば、国家秩序にも関わる。
オルタンスはゆっくりと箱を閉じた。
「ですから、この衣装は普段使うものではありません」
「特別な時だけ」
クロエは小さく頷いた。
だが、ふと不安そうに言う。
「……あの」
「もし誰かが知らずに着てしまったら?」
オルタンスは少し考えた。
それから、淡く微笑む。
「知らなかったとしても」
彼女は静かに言った。
「記録は消えません」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
外では風が庭の木々を揺らしている。
やがてクロエが小さく言った。
「お嬢様」
「はい」
「この衣装……」
クロエは言葉を選んだ。
「絶対に誰にも触れさせてはいけませんね」
オルタンスは頷く。
「ええ」
そして、箱を元の場所へ戻した。
「触れる資格があるのは、ただ一人ですから」
クロエは安心したように息をつく。
だが、そのとき。
遠くの廊下から、聞き覚えのある声が響いた。
「ねえ、お母様!」
セレスティーヌの声だった。
「舞踏会のドレス、まだ決めてないのよ!」
クロエの肩がびくりと震える。
オルタンスは扉の方を見た。
そして、静かに部屋の鍵を閉める。
カチリ、と小さな音がした。
「……行きましょう」
クロエは頷いた。
二人は部屋を出る。
亡き公爵夫人の部屋は、再び静寂に包まれた。
その奥の衣装箱の中で。
白銀のドレスが、静かに眠っていた。
ヴァルモン公爵邸の奥には、ほとんど人の立ち入らない一角がある。
主屋から少し離れた廊下の先。
厚い扉に守られた、静かな部屋。
先代公爵夫人――アデルエル・ド・ヴァルモンの私室だった。
夫人が亡くなってから、その部屋はほとんど手を付けられていない。
家具も、カーテンも、壁の絵も、すべて生前のまま残されている。
そして今、その扉の前に立っているのは、ただ一人の娘だった。
オルタンス・ド・ヴァルモン。
彼女はしばらく扉を見つめていたが、やがて静かに鍵を回した。
重い音を立てて扉が開く。
中には、わずかに古い香りが残っていた。
香水と、書物と、木製家具の匂い。
懐かしい空気だった。
クロエが後ろで小さく息を呑む。
「……久しぶりですね」
「ええ」
オルタンスはゆっくりと部屋の中へ入った。
窓辺には白い椅子があり、その横には小さな丸机。
その机には、今も一冊の本が置かれている。
まるで、誰かがまた戻ってきて続きを読むかのように。
オルタンスは本に触れない。
ただ、その横を通り過ぎて奥へ進む。
部屋の奥には、大きな衣装棚があった。
公爵夫人が舞踏会や公式儀式で着ていた衣装が保管されている場所だ。
クロエは少し緊張した声で言った。
「舞踏会の準備でいらしたのですか?」
王宮の舞踏会は、もう一月もない。
公爵家の令嬢が出席するなら、当然ここにある衣装が必要になる。
だが、オルタンスは首を横に振った。
「いいえ」
「今日は確認だけです」
彼女は衣装棚の扉を開いた。
中には幾つものドレスが並んでいる。
絹。
金糸。
繊細な刺繍。
どれも王都でも滅多に見られないほどの品だ。
しかし、オルタンスの視線はそれらには向かわない。
さらに奥。
衣装棚の下段にある、小さな箱へ向けられていた。
黒檀で作られた、重厚な箱。
その表面には、ヴァルモン公爵家の紋章が彫り込まれている。
クロエが思わず声を潜めた。
「それは……」
オルタンスは箱を取り出した。
「ええ」
静かな声だった。
「母の衣装箱です」
その箱は普通の衣装箱ではない。
ヴァルモン公爵家では、代々この箱に一着だけ特別な衣装が保管されている。
それは公爵夫人の礼装でも、単なる舞踏会用ドレスでもない。
公爵家直系女子の証。
王宮の大儀式と舞踏会でのみ着用を許される、特別な衣装だった。
オルタンスはゆっくりと蓋を開けた。
中には一着のドレスが収められている。
深い白銀色の絹。
光を受けると、まるで水面のように柔らかく輝く。
袖口には細かな金糸の刺繍。
胸元には小さな紋章が織り込まれていた。
クロエは息を呑んだ。
「……美しい」
それは言葉を失うほどの衣装だった。
王都のどの仕立て屋でも作れない。
このドレスは特別な織物で作られている。
公爵家が代々契約している製糸工房の、最高級の絹。
そして、その意匠には意味がある。
オルタンスは指先で布をなぞった。
「この刺繍を見なさい」
クロエは身を乗り出した。
「紋章……でしょうか」
「ええ」
オルタンスは静かに説明する。
「けれど、ただの紋章ではありません」
彼女は胸元の金糸を指した。
「この配置、この色、この糸の組み方――」
「すべて登録されています」
クロエは戸惑った。
「登録……?」
オルタンスは頷く。
「王宮紋章院に」
その言葉に、クロエの表情が固まった。
つまり、この衣装は単なる家の財産ではない。
国家の記録に登録された意匠なのだ。
オルタンスは続ける。
「この衣装は、公爵家直系女子だけに許されています」
「他の者が着れば」
彼女は一度言葉を止めた。
クロエが恐る恐る聞く。
「……どうなるのですか」
オルタンスは穏やかな声で答えた。
「爵位の僭称になります」
クロエは思わず息を止めた。
それは軽い罪ではない。
公的身分を偽る行為。
しかも公爵家ともなれば、国家秩序にも関わる。
オルタンスはゆっくりと箱を閉じた。
「ですから、この衣装は普段使うものではありません」
「特別な時だけ」
クロエは小さく頷いた。
だが、ふと不安そうに言う。
「……あの」
「もし誰かが知らずに着てしまったら?」
オルタンスは少し考えた。
それから、淡く微笑む。
「知らなかったとしても」
彼女は静かに言った。
「記録は消えません」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
外では風が庭の木々を揺らしている。
やがてクロエが小さく言った。
「お嬢様」
「はい」
「この衣装……」
クロエは言葉を選んだ。
「絶対に誰にも触れさせてはいけませんね」
オルタンスは頷く。
「ええ」
そして、箱を元の場所へ戻した。
「触れる資格があるのは、ただ一人ですから」
クロエは安心したように息をつく。
だが、そのとき。
遠くの廊下から、聞き覚えのある声が響いた。
「ねえ、お母様!」
セレスティーヌの声だった。
「舞踏会のドレス、まだ決めてないのよ!」
クロエの肩がびくりと震える。
オルタンスは扉の方を見た。
そして、静かに部屋の鍵を閉める。
カチリ、と小さな音がした。
「……行きましょう」
クロエは頷いた。
二人は部屋を出る。
亡き公爵夫人の部屋は、再び静寂に包まれた。
その奥の衣装箱の中で。
白銀のドレスが、静かに眠っていた。
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