5 / 30
第5話 空いた席
しおりを挟む
第5話 空いた席
王宮の会議室には、重たい沈黙が落ちていた。
長い楕円形の卓を囲むのは、宰相セヴランをはじめとする重臣たち。
その中央に座る第一王子アレクシオンは、腕を組み、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「……まだ、決裁が終わらないのか」
低い声が響く。
返事はない。
文官たちは手元の書類に視線を落とし、誰一人として口を開こうとしなかった。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
「昨日も同じことを聞いたぞ」
アレクシオンは苛立ちを露わにする。
「この補助金の再配分、なぜまだ案がまとまらない?」
ようやく、若い文官の一人が恐る恐る顔を上げた。
「そ、その……前例が……」
「前例?」
王太子は眉をひそめる。
「前例なら、これまでいくらでもあっただろう」
その言葉に、宰相セヴランが静かに口を開いた。
「……ございました。ですが」
彼は一瞬、言葉を選ぶ。
「これまでは、アウレリア嬢が全体を調整し、矛盾点を洗い出し、最終案をまとめておりました」
その名が出た瞬間、空気がさらに重くなる。
アレクシオンは舌打ちをした。
「またその話か。彼女がいなくとも、仕事は回る」
断言する声。
だが、それを裏付ける現実は、どこにもなかった。
「……では、どなたが代わりを?」
セヴランの問いに、誰も答えない。
沈黙。
それは一瞬ではなく、あまりにも長く続いた。
「……誰か、手を挙げろ」
アレクシオンの声が強まる。
それでも、誰も動かない。
彼らは無能なのではない。
ただ、自分の限界を知っているだけだ。
――アウレリア・ローゼンベルクが担っていた役割は、
一人分の仕事ではなかった。
会議は、結局何一つ決まらないまま終わった。
廊下に出ると、今度は別の問題が待っていた。
「宰相閣下!」
使いの者が駆け寄ってくる。
「隣国への返書ですが……期限が、本日中で……」
「……まだ、まとめられていないのか?」
「はい……草案はありますが、表現が……」
セヴランは目を閉じた。
(これも、だ)
外交文書。
言葉一つで、関係が傾く繊細な文面。
これまで、それを自然に整えていた人物がいた。
――誰にも気づかれぬまま。
「……分かった。私が見る」
そう答えながら、彼の胸に重苦しい疲労が積もっていく。
昼過ぎ。
王太子の私室では、ミレアが不満そうに口を尖らせていた。
「殿下、最近……お忙しすぎません?」
「仕方がない。少し立て込んでいる」
アレクシオンはそう言いながらも、書類の山に目を落とす。
――内容が、頭に入ってこない。
「前は、もっと……」
ミレアは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「前は?」
「……いえ。何でもありません」
だが、その視線は不満を隠しきれていない。
「せっかく一緒にいられるようになったのに……」
「ミレア」
アレクシオンは顔を上げる。
「今は、国のことが――」
「でも、私、寂しいです」
そう言って、彼女はため息をついた。
――以前なら。
アレクシオンは、即座に彼女を宥め、時間を作っただろう。
だが、今日は違った。
「……少し待ってくれ」
そう言った瞬間、ミレアの表情が僅かに歪む。
(……あれ?)
彼女は気づいていない。
自分が、これまでどれほど“余裕の上”に守られていたかを。
夕刻。
王宮の別室で、数人の貴族が集まっていた。
「最近……決定が遅くありません?」 「ええ。補助金の件も、返事が来ない」 「アウレリア様がいらした頃は……」
その名が、自然と出る。
誰かが、ぽつりと呟いた。
「……失ってから、気づくものですね」
誰も否定しなかった。
一方その頃。
アウレリア・ローゼンベルクは、王都を離れる街道を進んでいた。
馬車の中で、静かに書類を整理しながら、彼女は微笑む。
(……もう、私の知るところではありませんわ)
王宮の混乱も、王太子の苛立ちも。
それらは、すでに彼女の人生とは切り離された出来事だ。
ただ一つ、確かなことがある。
――空いた席は、簡単には埋まらない。
その事実が、これから先、
何度も、何度も、王宮を苦しめることになるのだ。
---
王宮の会議室には、重たい沈黙が落ちていた。
長い楕円形の卓を囲むのは、宰相セヴランをはじめとする重臣たち。
その中央に座る第一王子アレクシオンは、腕を組み、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「……まだ、決裁が終わらないのか」
低い声が響く。
返事はない。
文官たちは手元の書類に視線を落とし、誰一人として口を開こうとしなかった。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえる。
「昨日も同じことを聞いたぞ」
アレクシオンは苛立ちを露わにする。
「この補助金の再配分、なぜまだ案がまとまらない?」
ようやく、若い文官の一人が恐る恐る顔を上げた。
「そ、その……前例が……」
「前例?」
王太子は眉をひそめる。
「前例なら、これまでいくらでもあっただろう」
その言葉に、宰相セヴランが静かに口を開いた。
「……ございました。ですが」
彼は一瞬、言葉を選ぶ。
「これまでは、アウレリア嬢が全体を調整し、矛盾点を洗い出し、最終案をまとめておりました」
その名が出た瞬間、空気がさらに重くなる。
アレクシオンは舌打ちをした。
「またその話か。彼女がいなくとも、仕事は回る」
断言する声。
だが、それを裏付ける現実は、どこにもなかった。
「……では、どなたが代わりを?」
セヴランの問いに、誰も答えない。
沈黙。
それは一瞬ではなく、あまりにも長く続いた。
「……誰か、手を挙げろ」
アレクシオンの声が強まる。
それでも、誰も動かない。
彼らは無能なのではない。
ただ、自分の限界を知っているだけだ。
――アウレリア・ローゼンベルクが担っていた役割は、
一人分の仕事ではなかった。
会議は、結局何一つ決まらないまま終わった。
廊下に出ると、今度は別の問題が待っていた。
「宰相閣下!」
使いの者が駆け寄ってくる。
「隣国への返書ですが……期限が、本日中で……」
「……まだ、まとめられていないのか?」
「はい……草案はありますが、表現が……」
セヴランは目を閉じた。
(これも、だ)
外交文書。
言葉一つで、関係が傾く繊細な文面。
これまで、それを自然に整えていた人物がいた。
――誰にも気づかれぬまま。
「……分かった。私が見る」
そう答えながら、彼の胸に重苦しい疲労が積もっていく。
昼過ぎ。
王太子の私室では、ミレアが不満そうに口を尖らせていた。
「殿下、最近……お忙しすぎません?」
「仕方がない。少し立て込んでいる」
アレクシオンはそう言いながらも、書類の山に目を落とす。
――内容が、頭に入ってこない。
「前は、もっと……」
ミレアは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「前は?」
「……いえ。何でもありません」
だが、その視線は不満を隠しきれていない。
「せっかく一緒にいられるようになったのに……」
「ミレア」
アレクシオンは顔を上げる。
「今は、国のことが――」
「でも、私、寂しいです」
そう言って、彼女はため息をついた。
――以前なら。
アレクシオンは、即座に彼女を宥め、時間を作っただろう。
だが、今日は違った。
「……少し待ってくれ」
そう言った瞬間、ミレアの表情が僅かに歪む。
(……あれ?)
彼女は気づいていない。
自分が、これまでどれほど“余裕の上”に守られていたかを。
夕刻。
王宮の別室で、数人の貴族が集まっていた。
「最近……決定が遅くありません?」 「ええ。補助金の件も、返事が来ない」 「アウレリア様がいらした頃は……」
その名が、自然と出る。
誰かが、ぽつりと呟いた。
「……失ってから、気づくものですね」
誰も否定しなかった。
一方その頃。
アウレリア・ローゼンベルクは、王都を離れる街道を進んでいた。
馬車の中で、静かに書類を整理しながら、彼女は微笑む。
(……もう、私の知るところではありませんわ)
王宮の混乱も、王太子の苛立ちも。
それらは、すでに彼女の人生とは切り離された出来事だ。
ただ一つ、確かなことがある。
――空いた席は、簡単には埋まらない。
その事実が、これから先、
何度も、何度も、王宮を苦しめることになるのだ。
---
4
あなたにおすすめの小説
婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話
ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。
リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。
婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。
どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。
死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて……
※正常な人があまりいない話です。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
婚約破棄された令嬢、気づけば王族総出で奪い合われています
ゆっこ
恋愛
「――よって、リリアーナ・セレスト嬢との婚約は破棄する!」
王城の大広間に王太子アレクシスの声が響いた瞬間、私は静かにスカートをつまみ上げて一礼した。
「かしこまりました、殿下。どうか末永くお幸せに」
本心ではない。けれど、こう言うしかなかった。
王太子は私を見下ろし、勝ち誇ったように笑った。
「お前のような地味で役に立たない女より、フローラの方が相応しい。彼女は聖女として覚醒したのだ!」
【完結】お父様の再婚相手は美人様
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
シャルルの父親が子連れと再婚した!
二人は美人親子で、当主であるシャルルをあざ笑う。
でもこの国では、美人だけではどうにもなりませんよ。
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】結婚前から愛人を囲う男の種などいりません!
つくも茄子
ファンタジー
伯爵令嬢のフアナは、結婚式の一ヶ月前に婚約者の恋人から「私達愛し合っているから婚約を破棄しろ」と怒鳴り込まれた。この赤毛の女性は誰?え?婚約者のジョアンの恋人?初耳です。ジョアンとは従兄妹同士の幼馴染。ジョアンの父親である侯爵はフアナの伯父でもあった。怒り心頭の伯父。されどフアナは夫に愛人がいても一向に構わない。というよりも、結婚一ヶ月前に破棄など常識に考えて無理である。無事に結婚は済ませたものの、夫は新妻を蔑ろにする。何か勘違いしているようですが、伯爵家の世継ぎは私から生まれた子供がなるんですよ?父親?別に書類上の夫である必要はありません。そんな、フアナに最高の「種」がやってきた。
他サイトにも公開中。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる