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第18話 踏み込めない距離 ノルディス公爵領の朝は、相変わらず静かだった。 前日までの張り詰めた空気が嘘のように、執務館ではいつも通
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第18話 踏み込めない距離
ノルディス公爵領の朝は、相変わらず静かだった。
前日までの張り詰めた空気が嘘のように、執務館ではいつも通りの業務が流れている。
書類の束が運ばれ、報告が交わされ、指示が出される。
――何も、変わっていない。
はずなのに。
(……少し、意識しすぎでしょうか)
アウレリア・ローゼンベルクは、ペンを動かしながら、ふと自分の思考に気づいた。
カルディア・ノルディスの存在を、以前よりも強く感じている。
視線を向ければ、そこにいる。
声を聞けば、心が静まる。
それだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思おうとしても、意識は勝手に向いてしまう。
「……集中しろ」
小さく自分に言い聞かせ、彼女は書類に目を戻した。
しばらくして、扉が控えめにノックされる。
「……入る」
カルディアだった。
アウレリアは顔を上げ、軽く一礼する。
「何かございましたか」
「南部から、追加の報告が来た」
彼は書類を差し出し、彼女の机の端に置く。
距離は、いつもと同じ。
近すぎず、遠すぎず。
だが。
その距離が、以前よりもはっきりと意識される。
「……問題はありませんね」
アウレリアは目を通し、そう答える。
「君の想定通りだ」
カルディアの言葉に、彼女は小さく頷いた。
それ以上、会話は続かない。
――沈黙。
仕事をするには、何の支障もない沈黙。
だが、胸の奥には、わずかな違和感が残る。
(……何か、言うべきでしょうか)
そう思って、言葉を探す。
だが、何を言えばいいのか分からない。
感謝は、もう伝えた。
仕事の話は、十分だ。
それ以上を口にすれば、
この関係の“輪郭”が、崩れてしまう気がした。
カルディアもまた、同じだった。
彼はアウレリアの様子を、無意識に観察している。
疲れていないか。
無理をしていないか。
だが、以前よりも一歩、距離を取っていた。
(……踏み込みすぎるな)
自分に言い聞かせる。
白い婚約。
干渉しない約束。
それを破る理由は、どこにもない。
昼過ぎ。
二人は視察後の総括を行っていた。
「この部分ですが」
アウレリアが指摘すると、カルディアは即座に応じる。
「修正案は?」
「こちらです」
短い言葉の応酬。
息は合っている。
だが、どこか――
慎重すぎる。
互いに、余計な感情が漏れないよう、
意識的に線を引いている。
(……おかしいですわね)
アウレリアは、心の中で苦笑した。
(距離を取ろうとしているのに、
意識は、以前よりも近い)
矛盾している。
だが、それが正直な感覚だった。
夕刻。
業務を終えた後、アウレリアは回廊で足を止めた。
外は、淡い夕焼けに包まれている。
(……少し、風に当たりたいですわね)
そう思って庭へ向かうと、先客がいた。
カルディアだった。
彼は、庭の奥で立ち止まり、空を見上げている。
気配に気づき、振り返る。
「……君か」
「お邪魔でした?」
「いや」
短い返答。
二人の間に、再び沈黙が落ちる。
風が、木々を揺らす音だけが聞こえる。
不思議と、居心地は悪くない。
だが、どこか緊張がある。
アウレリアは、意を決したように口を開いた。
「……距離を取っていらっしゃいますか」
唐突な問いだった。
カルディアは、一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らす。
「……そう見えるか」
「はい」
正直な答え。
「私も……同じです」
その言葉に、彼は再び彼女を見る。
「理由は?」
「踏み込めば、
今の関係が変わってしまう気がして」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
カルディアは、しばらく考えるように沈黙する。
「……同感だ」
低い声。
「今は、この距離が最適だと思っている」
それは、拒絶ではない。
確認だった。
アウレリアは、小さく微笑む。
「でしたら……このままでいましょう」
「ああ」
二人は、再び空を見上げる。
近くもなく、遠くもない。
踏み込まない距離。
だが。
その距離が、
これほど強く意識されるのは、
初めてだった。
夜。
アウレリアは自室で、今日の出来事を思い返していた。
(……踏み込めない、ということは)
踏み込みたい気持ちが、
どこかにあるということ。
それを認めるのは、少し怖い。
一方、カルディアもまた、執務室で一人考えていた。
(……この距離が、最適)
そう判断したはずなのに、
彼女が庭に立っていた姿が、頭から離れない。
白い婚約。
理性的な関係。
それを壊すつもりはない。
だが。
(……感情は、制御できるものではない)
第15話で芽生えた違和感は、
第17話で自覚に変わり、
そして今、第18話で――
抑え込もうとして、はっきりと形を持ち始めていた。
---
こ
ノルディス公爵領の朝は、相変わらず静かだった。
前日までの張り詰めた空気が嘘のように、執務館ではいつも通りの業務が流れている。
書類の束が運ばれ、報告が交わされ、指示が出される。
――何も、変わっていない。
はずなのに。
(……少し、意識しすぎでしょうか)
アウレリア・ローゼンベルクは、ペンを動かしながら、ふと自分の思考に気づいた。
カルディア・ノルディスの存在を、以前よりも強く感じている。
視線を向ければ、そこにいる。
声を聞けば、心が静まる。
それだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思おうとしても、意識は勝手に向いてしまう。
「……集中しろ」
小さく自分に言い聞かせ、彼女は書類に目を戻した。
しばらくして、扉が控えめにノックされる。
「……入る」
カルディアだった。
アウレリアは顔を上げ、軽く一礼する。
「何かございましたか」
「南部から、追加の報告が来た」
彼は書類を差し出し、彼女の机の端に置く。
距離は、いつもと同じ。
近すぎず、遠すぎず。
だが。
その距離が、以前よりもはっきりと意識される。
「……問題はありませんね」
アウレリアは目を通し、そう答える。
「君の想定通りだ」
カルディアの言葉に、彼女は小さく頷いた。
それ以上、会話は続かない。
――沈黙。
仕事をするには、何の支障もない沈黙。
だが、胸の奥には、わずかな違和感が残る。
(……何か、言うべきでしょうか)
そう思って、言葉を探す。
だが、何を言えばいいのか分からない。
感謝は、もう伝えた。
仕事の話は、十分だ。
それ以上を口にすれば、
この関係の“輪郭”が、崩れてしまう気がした。
カルディアもまた、同じだった。
彼はアウレリアの様子を、無意識に観察している。
疲れていないか。
無理をしていないか。
だが、以前よりも一歩、距離を取っていた。
(……踏み込みすぎるな)
自分に言い聞かせる。
白い婚約。
干渉しない約束。
それを破る理由は、どこにもない。
昼過ぎ。
二人は視察後の総括を行っていた。
「この部分ですが」
アウレリアが指摘すると、カルディアは即座に応じる。
「修正案は?」
「こちらです」
短い言葉の応酬。
息は合っている。
だが、どこか――
慎重すぎる。
互いに、余計な感情が漏れないよう、
意識的に線を引いている。
(……おかしいですわね)
アウレリアは、心の中で苦笑した。
(距離を取ろうとしているのに、
意識は、以前よりも近い)
矛盾している。
だが、それが正直な感覚だった。
夕刻。
業務を終えた後、アウレリアは回廊で足を止めた。
外は、淡い夕焼けに包まれている。
(……少し、風に当たりたいですわね)
そう思って庭へ向かうと、先客がいた。
カルディアだった。
彼は、庭の奥で立ち止まり、空を見上げている。
気配に気づき、振り返る。
「……君か」
「お邪魔でした?」
「いや」
短い返答。
二人の間に、再び沈黙が落ちる。
風が、木々を揺らす音だけが聞こえる。
不思議と、居心地は悪くない。
だが、どこか緊張がある。
アウレリアは、意を決したように口を開いた。
「……距離を取っていらっしゃいますか」
唐突な問いだった。
カルディアは、一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を逸らす。
「……そう見えるか」
「はい」
正直な答え。
「私も……同じです」
その言葉に、彼は再び彼女を見る。
「理由は?」
「踏み込めば、
今の関係が変わってしまう気がして」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
カルディアは、しばらく考えるように沈黙する。
「……同感だ」
低い声。
「今は、この距離が最適だと思っている」
それは、拒絶ではない。
確認だった。
アウレリアは、小さく微笑む。
「でしたら……このままでいましょう」
「ああ」
二人は、再び空を見上げる。
近くもなく、遠くもない。
踏み込まない距離。
だが。
その距離が、
これほど強く意識されるのは、
初めてだった。
夜。
アウレリアは自室で、今日の出来事を思い返していた。
(……踏み込めない、ということは)
踏み込みたい気持ちが、
どこかにあるということ。
それを認めるのは、少し怖い。
一方、カルディアもまた、執務室で一人考えていた。
(……この距離が、最適)
そう判断したはずなのに、
彼女が庭に立っていた姿が、頭から離れない。
白い婚約。
理性的な関係。
それを壊すつもりはない。
だが。
(……感情は、制御できるものではない)
第15話で芽生えた違和感は、
第17話で自覚に変わり、
そして今、第18話で――
抑え込もうとして、はっきりと形を持ち始めていた。
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