婚約破棄されたので白い婚約を選びましたが、いつの間にか本命になっていました

鷹 綾

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第19話 揺さぶる存在

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第19話 揺さぶる存在

 ノルディス公爵領に、思いもよらぬ来訪者が現れたのは、昼過ぎのことだった。

「……王太子殿下、到着です」

 執事の報告に、執務室の空気が一瞬だけ張り詰める。

 カルディア・ノルディスは、書類から顔を上げ、短く息を吐いた。

「……予定外だな」

「はい。
 王宮からの正式な通達はありませんでした」

 それだけで、意図は察せられた。

 ――これは、私的な来訪だ。

 アウレリア・ローゼンベルクは、静かに立ち上がった。

「お会いになりますか」

「断る理由はない」

 カルディアは即答する。

「だが、主導権はこちらだ」

 ほどなくして、応接室に通された王太子アレクシオンは、以前よりもやつれて見えた。

 かつての自信に満ちた表情は影を潜め、
 代わりにあるのは、焦りと苛立ち。

「久しいな、アウレリア」

 その呼び方に、彼女の眉がわずかに動く。

「……王太子殿下」

 淡々とした応答。

 かつて婚約者だった頃の距離は、そこにはない。

「形式的とはいえ、婚約の件……
 直接、話をしたかった」

「用件を」

 カルディアが間に入る。

 声は低く、遮るようでもあり、守るようでもあった。

 アレクシオンは一瞬だけ彼を睨み、すぐに視線をアウレリアへ戻す。

「君は……ここで、本当に満足しているのか?」

 その問いに、室内が静まり返る。

 アウレリアは、少しだけ考えてから答えた。

「はい」

 即答だった。

「……王宮に戻れば」

 アレクシオンは、言葉を探すように続ける。

「以前の立場も、名誉も、
 君の能力に見合った待遇を――」

「お断りいたします」

 アウレリアは、彼の言葉を最後まで聞かなかった。

「……なぜだ」

 苛立ちを抑えきれない声。

「君は、王宮でこそ輝くべき存在だった」

 その言葉に、彼女ははっきりと首を振った。

「いいえ。
 私は、王宮で“使われていただけ”です」

 静かな言葉。
 だが、鋭かった。

「ここでは、評価と役割が一致しています。
 それだけです」

「……それだけ、だと?」

 アレクシオンの声が、わずかに震える。

「私といた頃は……」

「殿下」

 アウレリアは、はっきりと彼を見据えた。

「“私といた頃”ではありません」

 その言葉は、決定的だった。

「殿下は、私を見ていませんでした。
 必要なものだけを、見ていたのです」

 アレクシオンは、言葉を失う。

 反論しようとして、何も浮かばない。

 カルディアは、その様子を静かに見ていた。

 そして、淡々と口を開く。

「……ここは、ノルディス公爵領だ」

「公的な場ではない」

「私的な来訪であれば、
 これ以上の干渉は認めない」

 アレクシオンは、拳を握りしめた。

「……白い婚約だと聞いている」

「だから、まだ――」

「それ以上は、不要だ」

 カルディアの声が、きっぱりと遮る。

「形式かどうかは、関係ない」

 その言葉に、アウレリアは一瞬だけ目を瞬いた。

「彼女は、我が領の一員だ」

 短いが、はっきりとした宣言。

 アレクシオンは、ついに視線を逸らした。

「……分かった」

 声には、力がなかった。

「だが……後悔するなよ、アウレリア」

 その言葉に、彼女は微笑んだ。

 哀れみでも、優越でもない。
 ただ、終わった関係への区切りとして。

「後悔するのは、
 “選ばなかった側”ですわ」

 アレクシオンは、何も言い返せなかった。

 面会は、それで終わった。

 王太子が去った後、応接室には静寂が残る。

「……疲れたか」

 カルディアが、低く問いかける。

「いいえ」

 アウレリアは、首を振った。

「むしろ……整理がつきました」

 それは、本心だった。

 過去に、引き戻されることはない。

 ここが、彼女の立つ場所だ。

「……無理はするな」

「承知しています」

 そう答えた後、彼女は少しだけ言い淀む。

「……ありがとうございました」

「何に対してだ」

「踏み込まなかったこと、です」

 カルディアは、一瞬だけ考え、答えた。

「……必要な距離は、守る」

 その言葉に、
 アウレリアは静かに頷いた。

 一方、帰路につく馬車の中で。

 アレクシオンは、深く俯いていた。

(……遅すぎた)

 彼女が去った理由を、
 今になって、ようやく理解した。

 だが。

 戻る場所は、もうない。

 ノルディス公爵領では。

 アウレリアが、窓の外を眺めていた。

 王太子との対面で、
 胸に残るものは、何もなかった。

 代わりに残ったのは、
 隣に立つ人物への、静かな信頼。

 ――踏み込めない距離。

 だが、それは、
 外から壊されるほど、脆くはなかった。


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