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第22話 当たり前になった気遣い
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第22話 当たり前になった気遣い
その変化は、とても些細なものだった。
ノルディス公爵領の朝は、相変わらず静かで、規則正しい。
鐘の音、廊下を行き交う足音、執務館に差し込む朝の光。
アウレリア・ローゼンベルクは、いつもと同じ時刻に執務室へ向かっていた。
(……少し、寒いですわね)
そう思った瞬間。
「こちらを」
差し出されたのは、薄手のショールだった。
「朝の回廊は冷えると、公爵様が」
使用人の言葉に、アウレリアは一瞬、足を止める。
「……公爵が?」
「はい。
昨日も、風が強かったでしょう」
彼女は、ショールを受け取りながら、胸の奥がわずかに揺れるのを感じた。
(……気づいていましたのね)
寒かったこと。
無理をしていたわけではないが、確かに、少し冷えたこと。
それを、言葉にする前に拾われる感覚。
「ありがとうございます」
そう答えながら、彼女は自分の反応に、ほんの少し戸惑った。
(……嬉しい、なんて)
そんな感情は、必要ないはずだった。
白い婚約。
形式上の関係。
互いに干渉せず、踏み込まない。
それが、二人の取り決めだった。
――なのに。
執務室に入ると、机の上に、いつの間にか温かい茶が用意されていた。
「……今日は、こちらですか」
香りを確かめる。
体を温める配合。
彼女が好む、少し渋めの味。
(……覚えていらっしゃる)
好みを伝えた覚えはある。
だが、それはずっと前、何気ない会話の中だったはずだ。
それが、こうして“当たり前”のように反映されている。
(……これは、合理的な配慮、ですわよね)
自分に言い聞かせながら、アウレリアは仕事に集中する。
書類を読み、判断を下し、次の指示をまとめる。
だが、集中しているはずなのに、
ふとした瞬間に、思考が引っかかる。
(……前は、こんなこと、気にも留めませんでしたのに)
王宮では、
誰かが自分を気遣う理由には、必ず裏があった。
評価。
利用価値。
政治的な意図。
だから、気遣いは“警戒すべきもの”だった。
だが、ここでは。
昼前。
カルディア・ノルディスが執務室に現れる。
「……進捗は」
「問題ありません」
いつも通りのやり取り。
書類を差し出すと、彼は目を通しながら、ふと視線を上げた。
「……少し、顔色が落ちている」
その言葉に、アウレリアは驚いた。
「……そうでしょうか」
「無理をしているわけではないだろうが」
淡々とした声。
だが、観察は的確だった。
「午後の外回りは、明日に回す」
「ですが、予定では――」
「優先度は下げられる」
それ以上、議論の余地はないという口調。
彼女は、思わず苦笑した。
「……承知しました」
(……止められる側になるなんて)
王宮では、考えられない立場だった。
午後。
執務が一段落し、
彼女は資料整理をしていた。
すると、別の管理官が声をかけてくる。
「アウレリア様、こちらの資料ですが」
「はい、確認します」
「……あの、公爵様が」
一瞬、言葉を選ぶような間。
「“あまり詰め込むな”と」
その言葉に、彼女は思わず手を止めた。
(……伝言?)
直接言えばいいことを、あえて回す。
それは、距離を保つための配慮だった。
(……踏み込まない、という約束)
守られている。
きちんと。
夕刻。
執務を終え、庭を歩いていると、
カルディアとすれ違った。
「……今日は、もう戻るのか」
「はい」
短いやり取り。
だが、すれ違いざまに、彼が小さく言った。
「……冷える。無理はするな」
それだけ。
命令でも、心配の押し付けでもない。
ただの、事実確認のような言葉。
なのに。
(……胸が、少し温かい)
自室に戻り、ショールを外しながら、
アウレリアは静かに考える。
気遣い。
配慮。
距離を保ったままの、穏やかな関与。
(……これが、当たり前になっています)
気づけば、
疑うことも、構えることもなく、
受け取っている。
それは、
彼女がここで“守られる側”になった、ということだった。
(……依存、ではありません)
自立はしている。
判断も、責任も、彼女自身のものだ。
ただ。
(……安心、しているのですわ)
その事実を、否定する理由はなかった。
一方、カルディアは執務室で、ふと考えていた。
(……気遣いが、過ぎているか)
だが、すぐに首を振る。
業務効率。
体調管理。
すべて、合理的な範囲だ。
そう、合理的。
――それ以上の意味は、ない。
……はずだった。
だが、
彼女がショールを羽織る姿が、
なぜか脳裏に残る。
「……当たり前、か」
誰かを気にかけることが、
当たり前になっている。
それが何を意味するのか、
まだ、言葉にはできなかった。
だが確かに。
白い婚約の“内側”で、
静かに、何かが育ち始めていた。
--
その変化は、とても些細なものだった。
ノルディス公爵領の朝は、相変わらず静かで、規則正しい。
鐘の音、廊下を行き交う足音、執務館に差し込む朝の光。
アウレリア・ローゼンベルクは、いつもと同じ時刻に執務室へ向かっていた。
(……少し、寒いですわね)
そう思った瞬間。
「こちらを」
差し出されたのは、薄手のショールだった。
「朝の回廊は冷えると、公爵様が」
使用人の言葉に、アウレリアは一瞬、足を止める。
「……公爵が?」
「はい。
昨日も、風が強かったでしょう」
彼女は、ショールを受け取りながら、胸の奥がわずかに揺れるのを感じた。
(……気づいていましたのね)
寒かったこと。
無理をしていたわけではないが、確かに、少し冷えたこと。
それを、言葉にする前に拾われる感覚。
「ありがとうございます」
そう答えながら、彼女は自分の反応に、ほんの少し戸惑った。
(……嬉しい、なんて)
そんな感情は、必要ないはずだった。
白い婚約。
形式上の関係。
互いに干渉せず、踏み込まない。
それが、二人の取り決めだった。
――なのに。
執務室に入ると、机の上に、いつの間にか温かい茶が用意されていた。
「……今日は、こちらですか」
香りを確かめる。
体を温める配合。
彼女が好む、少し渋めの味。
(……覚えていらっしゃる)
好みを伝えた覚えはある。
だが、それはずっと前、何気ない会話の中だったはずだ。
それが、こうして“当たり前”のように反映されている。
(……これは、合理的な配慮、ですわよね)
自分に言い聞かせながら、アウレリアは仕事に集中する。
書類を読み、判断を下し、次の指示をまとめる。
だが、集中しているはずなのに、
ふとした瞬間に、思考が引っかかる。
(……前は、こんなこと、気にも留めませんでしたのに)
王宮では、
誰かが自分を気遣う理由には、必ず裏があった。
評価。
利用価値。
政治的な意図。
だから、気遣いは“警戒すべきもの”だった。
だが、ここでは。
昼前。
カルディア・ノルディスが執務室に現れる。
「……進捗は」
「問題ありません」
いつも通りのやり取り。
書類を差し出すと、彼は目を通しながら、ふと視線を上げた。
「……少し、顔色が落ちている」
その言葉に、アウレリアは驚いた。
「……そうでしょうか」
「無理をしているわけではないだろうが」
淡々とした声。
だが、観察は的確だった。
「午後の外回りは、明日に回す」
「ですが、予定では――」
「優先度は下げられる」
それ以上、議論の余地はないという口調。
彼女は、思わず苦笑した。
「……承知しました」
(……止められる側になるなんて)
王宮では、考えられない立場だった。
午後。
執務が一段落し、
彼女は資料整理をしていた。
すると、別の管理官が声をかけてくる。
「アウレリア様、こちらの資料ですが」
「はい、確認します」
「……あの、公爵様が」
一瞬、言葉を選ぶような間。
「“あまり詰め込むな”と」
その言葉に、彼女は思わず手を止めた。
(……伝言?)
直接言えばいいことを、あえて回す。
それは、距離を保つための配慮だった。
(……踏み込まない、という約束)
守られている。
きちんと。
夕刻。
執務を終え、庭を歩いていると、
カルディアとすれ違った。
「……今日は、もう戻るのか」
「はい」
短いやり取り。
だが、すれ違いざまに、彼が小さく言った。
「……冷える。無理はするな」
それだけ。
命令でも、心配の押し付けでもない。
ただの、事実確認のような言葉。
なのに。
(……胸が、少し温かい)
自室に戻り、ショールを外しながら、
アウレリアは静かに考える。
気遣い。
配慮。
距離を保ったままの、穏やかな関与。
(……これが、当たり前になっています)
気づけば、
疑うことも、構えることもなく、
受け取っている。
それは、
彼女がここで“守られる側”になった、ということだった。
(……依存、ではありません)
自立はしている。
判断も、責任も、彼女自身のものだ。
ただ。
(……安心、しているのですわ)
その事実を、否定する理由はなかった。
一方、カルディアは執務室で、ふと考えていた。
(……気遣いが、過ぎているか)
だが、すぐに首を振る。
業務効率。
体調管理。
すべて、合理的な範囲だ。
そう、合理的。
――それ以上の意味は、ない。
……はずだった。
だが、
彼女がショールを羽織る姿が、
なぜか脳裏に残る。
「……当たり前、か」
誰かを気にかけることが、
当たり前になっている。
それが何を意味するのか、
まだ、言葉にはできなかった。
だが確かに。
白い婚約の“内側”で、
静かに、何かが育ち始めていた。
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