『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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17話|選ぶということ

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17話|選ぶということ

 夜は、思ったよりも深かった。

 帝国の宿舎は静まり返り、遠くの巡回兵の足音だけが、一定の間隔で響いている。
 エルゼリア・クローヴェルは、机の前に座り、草案の写しをもう一度読み返していた。

 権限。
 責任。
 評価基準。

 どこにも曖昧な表現はない。
 逃げ道も、例外も、用意されていない。

「……潔いですね」

 それは、帝国という国そのものを表しているようだった。

 王国では、こうした文書は、必ず「含み」を持たされる。
 責任の所在をぼかし、誰かが最終的に守られるように。

 だが、この草案には、それがない。

 成果を出した者が評価され、
 出せなかった者は、立場を失う。

 単純で、残酷で――
 そして、公平だ。

 エルゼリアは、ふとペンを置き、椅子にもたれかかった。

 頭に浮かぶのは、王宮での日々だった。

 会議の前夜、灯りの消えない部屋。
 誰にも名を呼ばれず、
 誰にも感謝されず、
 それでも、翌日には国が回るように整えていた。

 ――あれは、誇りだったのだろうか。

 今なら、答えられる。

「……いいえ」

 誇りではない。
 義務でもない。

 ただ、必要だったからやっていただけだ。

 そして、その必要性が失われた瞬間、
 自分は切り捨てられた。

 怒りは、もうない。
 あるのは、静かな理解だけだ。

 帝国の条件は、明確だった。

 必要とする。
 だが、依存はしない。

 それは、エルゼリアが求めていた関係でもある。

「……選ぶ、ということは」

 彼女は、小さく息を吐いた。

 居心地の良さを選ぶことではない。
 評価される場所を選ぶことでもない。

 ――責任を引き受ける場所を選ぶことだ。

 翌朝、宿舎の鐘が静かに鳴った。

 エルゼリアは身支度を整え、窓を開ける。
 澄んだ空気が、胸いっぱいに流れ込んできた。

 迷いは、もうなかった。

 正午。
 再び、宰相府の応接室。

 ハインリヒ・ヴォルフは、昨日と同じ席に座っていた。
 彼は、エルゼリアの姿を見ると、短く頷く。

「結論は?」

 エルゼリアは、立ち止まり、深く一礼した。

「条件を、受け入れます」

 一瞬の沈黙。

 だが、ハインリヒは驚かなかった。

「理由は聞かない」

 彼は、淡々と告げる。

「合理的だからだろう」

「……はい」

 エルゼリアは、正直に答えた。

「私にとっても、帝国にとっても」

 ハインリヒは、机の上の文書を取り上げ、署名欄を示す。

「本日付で、仮任命とする。
 正式な辞令は、宰相の承認後だ」

「承知しました」

 ペンを取り、署名する。
 自分の名を、はっきりと。

 エルゼリア・クローヴェル。

 その瞬間、何かが確かに切り替わった。

「歓迎する」

 ハインリヒは、静かに言った。

「帝国宰相府・政策補佐官として」

 それは、祝福ではない。
 だが、十分だった。

 応接室を出ると、廊下の空気が少し違って感じられる。
 視線。
 態度。
 言葉の選び方。

 すでに、彼女は「外部の客」ではなかった。

 一方、王国では、衝撃が走っていた。

「……帝国宰相府に、エルゼリア・クローヴェルが迎え入れられた?」

 報告を受けた高官たちは、言葉を失う。

「正式発表は、まだだが……
 ほぼ確実だと」

 その夜、ロネスは一人、執務室に残っていた。

 窓の外に広がる王都の灯りが、どこか遠く見える。

「……選ばれなかったのは、誰だ」

 答えは、分かっている。

 選ばれなかったのは、
 帝国ではない。
 エルゼリアでもない。

 ――王国自身だ。

 その頃、帝国宰相府の一室で、
 エルゼリアは新たな資料に目を通していた。

 最初の任務。
 通商交渉の再構築。

「……早速、ですね」

 だが、彼女は微笑まなかった。

 これは、始まりだ。

 選んだ以上、結果を出す。
 それだけが、求められている。

 エルゼリア・クローヴェルは、
 帝国の一員として、
 静かに、だが確実に歩き出していた。

 もう、誰かの沈黙の影ではない。

 ――自分の名前で、国を動かすために。
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