『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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18話|最初の一手

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18話|最初の一手

 帝国宰相府の朝は、静かだ。

 鐘の音も、号令もない。
 だが、人はすでに動いている。
 それぞれが自分の役割を理解し、迷いなく席に着く。

 エルゼリア・クローヴェルは、新たに与えられた執務室の扉を開けた。

 広くはない。
 だが、机、書棚、地図、資料台――必要なものはすべて揃っている。
 そして、余計なものは一切ない。

「……実に、帝国らしい」

 独り言を落とし、席に着く。

 机の上には、すでに今日扱うべき案件が整然と置かれていた。
 通商交渉の再構築案。
 周辺諸国との摩擦。
 王国との関係整理。

 その中で、ひときわ目を引く資料がある。

「王国向け、暫定対応案……」

 彼女は、指先で紙をめくった。

 ――やはり、避けては通れない。

 ハインリヒ・ヴォルフは、朝の定例確認を終え、エルゼリアの執務室を訪れた。

「初日から、重い題材だな」

「最初だからこそ、です」

 エルゼリアは、視線を資料から離さず答える。

「帝国は、王国をどう扱うつもりですか」

 率直な問いだった。

 ハインリヒは、机に手を置き、短く言う。

「不安定な隣国だ。
 だが、切り捨てるには近すぎる」

「つまり、支配でも敵対でもない」

「そうだ」

 エルゼリアは、資料に視線を落としたまま、考える。

 王国は、今も混乱の只中にある。
 判断が遅れ、決断ができない。
 だが、完全に崩れてはいない。

「帝国が取るべき立場は、三つ考えられます」

 彼女は、淡々と口にする。

「一つ。
 混乱に乗じて、主導権を握る」

「悪くない案だ」

「短期的には、です」

 紙の上に、線を引く。

「王国の反発を招き、
 長期的には、敵意を固定化させます」

 ハインリヒは、黙って聞いている。

「二つ。
 距離を取り、様子を見る」

「安全だが、得るものは少ない」

「はい。
 そして三つ目」

 エルゼリアは、顔を上げた。

「――王国が“立ち直れる余地”を残したまま、
 帝国主導の枠組みに組み込む」

 空気が、わずかに張り詰める。

「具体的には?」

「王国が判断できない部分を、
 帝国が“基準”として示すのです」

 彼女は、図を描きながら説明する。

「通商条件。
 関税。
 物流ルート。

 すべてを帝国基準に合わせる必要はありません。
 ですが、“迷ったらこの基準”という選択肢を与える」

 ハインリヒは、静かに頷いた。

「王国は、決断した気になれる」

「同時に、実質的な主導権は、帝国が握ります」

 それは、征服ではない。
 依存を生む設計だ。

「……貴女は、王国をよく知っている」

 ハインリヒが、低く言う。

「王国は、外から押されると反発する。
 だが、“助言”という形なら受け入れる」

「ええ」

 エルゼリアは、淡く答えた。

「かつての私が、そうしてきましたから」

 沈黙。

 だが、その沈黙は、拒絶ではなかった。

「この案を、たたきにしよう」

 ハインリヒは、決断する。

「宰相へ上げる。
 貴女の名前で」

 一瞬、胸がざわつく。

 ――帝国の政策案を、自分の名で。

「……責任は?」

「当然、貴女にもある」

 即答だった。

「だが、帝国が守る」

 その一言は、重い。

 エルゼリアは、静かに息を整え、頷いた。

「では、進めます」

 彼女は、ペンを取り、文書に手を入れ始める。

 曖昧な表現を削る。
 判断基準を明示する。
 選択肢を整理する。

 かつて、王宮でやっていたことと同じ。
 だが、決定的に違う点がある。

 ――これは、評価される仕事だ。

 昼過ぎ、修正案は完成した。

 ハインリヒは、目を通し、短く言う。

「……早いな」

「時間をかけるべき部分と、
 かける必要のない部分を分けただけです」

「それが、一番難しい」

 彼は、わずかに口角を上げた。

「王国が、これをどう受け取るか」

「動揺するでしょう」

 エルゼリアは、即答する。

「ですが、拒否はできません。
 “選択肢”が提示されている以上」

 その夜、宰相府では非公式の報告が上がった。

 ――王国向け新枠組み案、提出。

 そして、王国側でも、同じ文書が回り始める。

「……帝国基準?」

「拒否すれば、交渉が止まる……」

 混乱は、さらに深まる。

 だが、そこに――
 見覚えのある構造を、感じ取る者もいた。

「……これは」

 ロネスは、報告書を読み、手を止める。

 選択肢の並べ方。
 判断基準の置き方。
 逃げ道の作り方。

「……エルゼリア」

 名を呼ぶ声は、かすれていた。

 一方、帝国宰相府の夜の執務室で、
 エルゼリアは最後の確認を終え、椅子にもたれた。

 疲労はある。
 だが、不安はない。

 これが、最初の一手。

 王国を救うためではない。
 帝国のためだ。

 だが結果として、
 王国は「考える時間」を与えられる。

 それでいい。

 エルゼリア・クローヴェルは、
 帝国の政策補佐官として、
 確かに、国を動かし始めていた。

 もう、誰かの影ではない。

 ――自分の選択として。
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