『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾

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第35話 境界線を越えない約束

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第35話 境界線を越えない約束

 その日の夕食は、静かな小広間で取られた。

 侍従は最低限。
 形式ばった配膳もなく、会話を妨げるものは何もない。

「……このような食事は、珍しいですね」

 シルフィーネがそう言うと、エドワルドは肩をすくめた。

「決断を迫る場に、過剰な演出は不要です」

 ――“決断を迫る”。

 その言葉が出たのに、圧迫感はなかった。



 食事が進む中、話題は自然と逸れていく。

 幼少期の教育。
 本の好み。
 失敗した判断の話。

 どれも、互いを良く見せるための話ではない。

「……殿下は、ご自身の判断を後悔することは?」

 シルフィーネの問いに、エドワルドは少し考えた。

「あります」

 即答だった。

「ただし、
 後悔を“なかったこと”にしようとはしません」

「……なぜですか」

「判断を誤った経験は、
 次の選択の精度を上げる」

 静かな言葉。

「それを隠すのは、
 自分を過信することになる」

 その姿勢に、彼女は小さく息を吐いた。

 ――この人は、
 自分を大きく見せる必要がない。



 食後、二人は庭園を歩いた。

 夜の空気は冷たく、星がよく見える。

「……一つ、お願いがあります」

 エドワルドが、歩みを止めて言った。

「何でしょうか」

「あなたに、
 “結論を出す期限”を与えないでほしい」

 一瞬、意味を測る。

「……私が、ですか?」

「ええ」

 彼は、視線を外さずに続ける。

「期限は、
 選択を歪めます」

 それは、王太子としてではなく、
 一人の人間としての言葉だった。

「あなたが選ぶなら、
 完全にあなたの意思であってほしい」

 シルフィーネは、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。

「……分かりました」

 短く、だが確かに答える。

「私も、一つだけ」

「どうぞ」

「殿下も、
 私に“期待しすぎないでください”」

 微笑みながら、はっきりと言う。

「私は、理想像ではありません」

 エドワルドは、一瞬目を見開き、
 やがて、穏やかに笑った。

「承知しています」

「本当に?」

「ええ」

 迷いのない声。

「理想は、
 対話の中で壊れるものですから」



 二人は、庭の中央で立ち止まった。

 距離は、近すぎない。
 だが、遠くもない。

 ――境界線。

 越えないことを、互いに理解している距離。

「……不思議ですね」

 シルフィーネが呟く。

「何が?」

「誰かと、
 境界線を保ったまま、
 こんなに安心できるなんて」

 エドワルドは、夜空を見上げた。

「越えないと決めた境界線は、
 恐怖ではなく、信頼になります」

 その言葉が、静かに胸に残る。



 別れ際。

「今日は、ここまでにしましょう」

 エドワルドが言う。

「ええ」

 シルフィーネは頷いた。

 触れ合いはない。
 約束も、誓いもない。

 だが、確かに交わされたものがある。

 ――互いの“踏み込まない意思”。

 それが、これほど心強いとは、
 彼女は思っていなかった。

 客室へ戻る途中、
 シルフィーネは小さく微笑んだ。

 この関係は、
 急がなくていい。

 越えない約束があるからこそ、
 進める未来がある。

 そう、はっきりと感じていた。
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