詩片の灯影①〜想い結びの糸〜

桜のはなびら

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来客

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 その日の灯影書房には先約がいた。

 珍しいと思ったが、自分以外に客がいないと仕事として成り立たないのだから、当たり前かと思った結は、カウンターで草壁と話している女性を目の端にとらえながら、
(いや、よくよく考えたら自分以外のお客さんって滞在時間中数人いるかどうか)
(その全員が何かを買っているわけではない。自分以外の客がいたとしても、その客足で成り立つのだろうか?)
 と余計なお世話の疑問を頭に浮かべながら、何の気なしに手に取った本は日本人著者によるブラジル国民の心理と彼らの民族音楽の根底に垣間見える日哀歓に関するエッセイだった。


 日本語は美しいとか深みがあるという言葉を結は何度か聴いたことがあった。
 多分それは結が日本人で、日本国内にいて、日本語に誇りを持った同じ日本人からもたらされた言葉だろうから、贔屓目な評価なのだろうと思いながらも、結自身もその意見には賛成よりだった。

 エッセイの中に、『サウターデ』という言葉が何度も出てくる。
 ポルトガルの言葉だ。独自の意味を持つ言葉でもある。
 これは地政学的な要因から多情な気質や冒険趣味な性質が反映された国民性によって現された言葉だろう。

 ポルトガルが宗主国のブラジルもまた、アフリカから奴隷として連れてこられ人間関係の強制離散の憂き目にあったブラジル人の先祖が持った、宿命的な不運や悲しみが、音楽などの文化に色濃く影響を与えている。
 ポルトガル民族の国民心理であるサウターデの心情もまた、彼らの音楽に影響を与えていることだろう。

 昨今では、サヴターヂ(ジ)という言葉で、ブラジル人の専売特許のように思われがちなこの心理は、日本語に訳そうとすると、郷愁、回顧、懐かしさ、哀しさなど多義的で、しかも愛や喜びなどが混ざった情として認識されている。
 明確にこの言葉を表す日本語は、たぶんないのだろう。
 多情なポルトガル人や、抗えない不運や悲しみを背負ったブラジル人ならではの言葉だ。
 
 日本には日本の歴史や背景、環境によって育まれた言葉があるように、外国にもそれぞれ、特有の感覚が芽生え、それを表す言葉がある。

 
 考えてみれば当たり前のことを、結は改めて思い、海外の詩や、小説や随筆なども読んでみたいな。でも和訳だと本当の込まれたものは伝わらない? 受け手側の知識や資質が問われるなら、それもまた良い。今の私の感受性と感性で、捉えられるものを捉えればよいではないか。
 と、さっき抜いた本は手に持ったまま、これまであまり見ていなかった海外の文化を取り上げた書籍にも目を向けてみた。
 
「向こうの商店街はこっちより栄えてるけど、雰囲気良いのはこっちじゃない?」

「……それ、どっちにとっても失礼じゃないか?」

 
 聴くつもりはないが、聴こえてしまうのだから仕方がない。
 そう思いながら結は、少しずつ棚を眺めながら移動していた。カウンターの方向に向かって。
 
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